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第21話 告白
質問をしておきながら、はなから答えなど求めていないのか、明日香は話し始めた。
「古賀さんがいなくなった後……あの女が自分の妊娠に気付いた時にはもう降ろせない時期でした」
「加奈子が妊娠?」
「私が赤ちゃんを養護施設に連れて行ったんです。あいつらの元になんか置いておけないから」
淡々と話していた明日香が初めて怒りを露わにした。
「あいつら、『大きくなったらこの子にも稼がせればいい』って笑ったんですよ?」
けれども次にはまた冷静さを取り戻したかのように、静かに話を続けた。
「怜奈が川島家の養女だと知っていますか?」
「それは教えてもらった」
あの日、玲奈を抱いた日に。それを口には出さなかったけれど、古賀は密かに玲奈のことを思い浮かべた。
「もう一度聞きます。怜奈と寝ましたか?」
(なぜそんなことを何度も確認するんだ? それに何の意味が……)
「まさか……」
(怜奈の本当の母親は……)
絶対にあっってはならないことが、想像もしたくないことが、古賀の脳裏に墨のように広がっていく。
(そんなバカな……)
(そんなことは……)
古賀は明日香の質問の意図をようやく理解できた。
(『絶対にダメ』というのは……)
古賀にとってあの日のことは、甘美な思い出であり、これから訪れる幸せの象徴だった。
(玲奈を何回……抱いた? 年甲斐もなく、その体を……)
「なんてことを……」
立つこともままならず、その場座り込んでしまった古賀に、明日香が冷たい目をして言った。
「寝たんですね……」
明日香は古賀の前にゆっくりと近づいてきた。ネイルガンの先端を真っすぐ古賀の左の胸に向けて。
「怜奈の前から消えてください」
ネイルガンに殺傷能力がなくとも、至近距離から心臓を狙われたなら、流石に生きてはいられない。
けれども、古賀はその場から一歩も動くことはできなかった。動こうとはしなかった。
静寂を破ったのはスマホの着信音だった。
「鳴っていますよ。怜奈からなら、お別れを言ってください」
「警察を呼んだらどうする?」
「どうぞ、ご自由に」
明日香は怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「最初はこんなつもりじゃなかったんです。ただ怜奈が幸せにしているのかどうか知りたかっただけ。少しだけ、ほんの少しだけ、話ができたら、すぐに目の前から消えてしまうつもりでした」
古賀は刹那に理解した。
この殺風景な部屋の意味するところを。
最小限の荷物しか持っていないことの意味を。
着信音はまだ鳴り続けていた。
古賀が震える手で通話ボタンを押すと、すぐに怜奈の声が聞こえた。
「もしもし、古賀さん?」
「怜奈……」
「何かあったんですか?」
「ごめん」
「え?」
古賀は目の前の明日香を真っ直ぐに見つめながら言った。
「本当は……本当は、沙耶さんのことが好きだった」
「古賀さん?」
「だけど沙耶さんには全然相手にされなくてね。それでやけになってつい、君の気持を利用した」
明日香の顔がこわばっていく。
「そんな……そんなの嘘……ですよね?」
電話越しに怜奈が泣いているのが古賀にも伝わってきた。
「ごめん。どうしても沙耶さんを自分のものにしたくて。でもどうにもならないから、彼女を道連れに死ぬことにした。さようなら。君の幸せを心から願っている」
「待っ……」
古賀は怜奈の話を聞かずに電話を切ると、そのままスマホの電源を切った。
「何を言ってるんですか? それにわたしは死のうなんて思っていない」
「そっか。じゃあ本当に無理心中だ」
明日香がネイルガンを持つ手とは反対の手に握りしめていた封筒を古賀は奪った。
古賀が思った通り、明日香はネイルガンを古賀の心臓に向けてはいるものの、それを使う気はないようだった。
古賀が明日香から奪ったのは、最初部屋に入った時にテーブルの上に置いてあった封筒。
『怜奈へ。最後にもう一度あなたに会えて、一緒に過ごした時間は私の一番の宝物です。もう十分すぎるくらい幸せ。だからもう何も思い残すことはありません。』
古賀が手紙の最初の数行を口に出して読んだ。
「僕を殺してその後自分も……って計画だよね? でもそれだと怜奈は傷つくよ? 慕っていた『沙耶』が、自分の好きな人の命を奪うんだから」
明日香は眉をひそめた。
「だから、僕が君を道ずれにすることにすればいい。そうすれば、『沙耶』はいい人のままで、僕は卑怯な人間として、いつか怜奈の記憶から忘れられる時が来る」
「忘れられなかったら?」
「それでも、真実を知ってしまうよりはよっぽどいい。」
明日香は少しだけ口の端を上げるような笑みを見せた。
「わたしは古賀さんを殺すつもりはありません。ただ、怜奈と二度と会わないでくれたらそれでいいと思っています」
「どうして……」
「古賀さんは、怜奈の好きな人だから。わたしにはできません。でも、絶対にダメなんです。だから、どこか遠くに行ってください。二度と玲奈の前に現れないでください」
「明日香ちゃんはどうするの?」
「わたしは、地獄に落ちる覚悟をしています。自分の両親すらこの手にかけた人間ですから」
「君がしてきたことは絶対に許されない。けれど、それは玲奈を守るためだったんだろ? 僕の犯した罪と、どちらが重いだろうか?」
あの時、加奈子から逃げた。
あの男から加奈子も明日香も奪っていたらこんなことにはならなかった。
2年前に亡くなった妻からも逃げていた。
結婚して10年以上、仕事にかこつけて家のことは何も顧みなかった。妻の体調など気にも留めていなかった。気が付いた時は、妻のからだは転移した癌のせいで弱って、もうどうにもならない状態だった。
仕事を辞め、定時に帰れる今の仕事に転職して、一緒に過ごす時間を作った時には、もう遅すぎた。
くったくのない笑顔を向けてくれる怜奈を愛しいと思ったのは、間違っていなかったけれど、間違いだった。
「僕が生きていると、きっとこの先、怜奈は一生苦しむことになる」
火の手は瞬く間に広がった。
元々、老朽化が進んでいたこともあり、古い木造アパートは、すぐに炎に包み込まれていった。
明日香は読ませるつもりなどない手紙を胸に抱いて目を閉じた。
明日香のすぐそばには古賀が眠っている。
沙耶は持っていた麻酔の最後の瓶を古賀に与えた。
そして自分はもう一つの瓶を手に取った。
最後に高林がくれた薬。
眠るように死ぬことができる薬と、最後まで苦しみながら死ぬ薬、どちらを選ぶかと聞かれ、沙耶は迷わなかった。
罪を犯した自分は、その罪の重さの分、苦しまなければならない。最後の一瞬まで。
「バイバイ、怜奈。わたしの大切な妹」
沙耶は黒い小瓶の中の薬を一気に飲み干した。
炎が激しくなる中、意識が混濁していく。
不思議なことに熱さすら感じない。
「先生の嘘つき。全然苦しくないじゃない」
全焼したアパートの焼け跡からは男女の焼死体が見つかった。
当時、取り壊しが決まっていたアパートに住人は一人しか住んでおらず、警察はこの焼死体との確認を急いだ。
その後、男性はあけぼの書店に務める古賀蓮と判明したが、女性と思われる死体の身元は最後までわからなかった。
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