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第8話 訪問
沙耶が目を覚ましたのは、夕方にになってからだった。
布団を部屋の隅にかたづけ、シャワーを浴びると支度を始めた。
いつも巻いている髪の毛は真っすぐのまま、シンプルなワンピースに身を包み、ほんの少しだけヒールのある飾り気のないパンプスを選んだ。
駅に着くころには既に陽は落ちていたので、丁度良い頃合いだった。
目的の、たかばやし動物クリニックの前についた時には、病院の電気は既に消されており、スタッフも帰ったようだった。
沙耶は裏口に回ると、施錠されていないドアをそっと開けた。
いつものように中に入ると、一番奥の部屋のドアから明かりが漏れているのが見えた。
「先生」
声をかけながらドアを開けると、背を向ける形で椅子に腰かけていた男が、椅子ごとくるりと沙耶の方を向いた。
「わたし、遅れちゃいましたか?」
「いや、ちょうどいい時間だよ」
男は値踏みをするように、沙耶の全身をチェックした。
「今日も素敵だ」
沙耶は男の膝に腰かけると、その首に手を回した。
「今日は奥さんに何て言ってるんですか?」
「目を離せない小型犬がいるから泊りになると言った」
「じゃあ、一晩中一緒にいられるんですね」
「ああ。どこか別の場所に行けたら良いいんだろうけど、いつもこんなところで申し訳ない」
「わたしはここが好きなんです。だって先生の働いてるところで抱かれると思うと、嬉しくて」
「沙耶、君は昔から、いい子だ」
高林浩二は沙耶の昔を知る唯一の人間だった。
沙耶はこの男を気に入っている。
沙耶のことをあれこれ詮索することもなければ、他人にぺらぺらと話すようなこともしない。
それに、犬や猫のこととなると、寝食を忘れるくらい親身になれるのに、その他のこととなると、かなり杜撰な性格だった。
どこに何を置いたのかもすぐに忘れる。
しょっちゅう物も失くすので、スタッフは苦労しているに違いない。
高林のために、地味で目立たないいで立ちをするのも嫌いではない。
それに、夜が明けるまで、狭いソファの上で何度も抱かれる間、天井の電球を見ているだけで良い。何かを要求される訳でもなく、乱暴なこともされない。自分だけが満足し、果てるのをただ待つだけで良い。
高林が眠ってしまったことを確認すると、沙耶はその腕の中からそっと抜け出して、ハンガーにかかっている白衣のポケットから鍵を盗み出した。
足音をたてないようにドアを開けると、開閉の音で高林を起こしてしまわないように、自分の靴を片方挟んでおいた。
沙耶は診察室の奥の部屋に入ると、目的のガラスケースを、先ほど拝借してきた鍵で開けて、小瓶をひとつ拝借した。
鍵は敢えて、鍵穴にさしたままにしておく。
物忘れの多い先生は、麻酔をひと瓶使ったことをすっかり忘れてしまう、という筋書きだ。
ペット用の麻酔が実は人間用のものと変わらないことを知っている人がどのくらいいるだろうか? 人間用のものが厳重に保管されれているのと異なり、ペット用はたやすく手に入る。
目的を終え、また先生のいるところに戻ると、先ほどと同じように、その腕の中に滑り込んだ。
後は、帰れと言われるまでそのままでいるだけだった。
もしかしたら高林は、沙耶が時々麻酔を盗んでいることを、知っていて知らないふりをしているのかもしれないと思うこともあった。
沙耶の両親が亡くなった時も何も言わなかった。
それが決して保身からくるものではないことを沙耶は知っている。
沙耶は、高林からだけは、お金をもらっていない。だから、そのことへの見返りなのかもしれない。
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