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それからも三郎は、オーキッドルームに通い、リリーと関係を持った。
宝石が売れ、社長に喜んでもらえた時、あるいは、なかなか商売が上手くいかなかった時と、節目節目でリリーに会いたくなる。
人気者のリリーは三郎が訪ねて行った時も、決して身体が空いてるというわけでもなく「リリーは数人待ちよ」とジュディから告げられた際には、そのまま店を出る事もあった。
一方、リリーにとって三郎は、しつこく求めてこないいい客だった。さらに同胞とわかると、こちらの素性にいろいろ探りを入れてくる男もいる中、三郎は、立ち入った事は聞かないでおくとしたスタンスにおり、そうした事からも、気を使わないでいられる相手だった。
しかし、その日はなぜか自ら身の上話をしてしまっている自分がいた。
事が終わった後、三郎は、めずらしく添い寝をして髪を撫でてくれた。
髪をなでるという行為は、嫌いな男からされると虫酸が走る。それが、今は安心してされるがままになっていた。
「きれいな髪だ」
「そうでもないよ」
「キビ畑で働いていた女達はいくら気を付けていても、強い直射日光で髪がぱさぱさになってしまうんだ。その点、リリーの髪は潤いがあると言うか艶々している」
三郎がキビ畑時代の話をした事が引き金となり、リリーも自然と自らの過去を語り始める。
「あたし、故郷は広島でね。で、一旗揚げる目的でハワイに行く兄貴夫婦と共に働こうって思って出てきたんだ。兄さん達は真面目に宿屋の住み込みの仕事をやって。私は酒場で女給として働き始めた。でも、そこで悪い男に引っかかってね。白人だったから、意思疎通も思うようにいかなくて、結局、金、取られて捨てられた」
添い寝をしていた三郎は、そこでむくっと起き上がり居ずまいを正すようにして、リリーの話に耳を傾けた。
「その頃、兄さん達は日本に帰国してたから、相談するわけにもいかなくて…で、女が一人で生計を立てていくには、他に道は無いからねぇ。だから仕方なくこの仕事に入った」
「苦労したんだな」
「兄さん達みたいに、賃金は低くとも地に足のついた仕事を、コツコツとやればよかったんだろうけどね。根が真面目じゃないから。
とは言えママがすごく気を使ってくれて、変な男は回してこないから助かってる」
三郎は、そう強がって見せるリリーの横顔を見て何も言えなくなった。
何とか平静を装い「また来るよ」と言うと、そのまま後ろを振り返る事もなく部屋を後にした。
その後、三郎がリリーの下を訪れたのは優に三ヶ月も後のことだった。
指名後、部屋でリリーを待つ三郎には、この三か月間考え抜いた案を、今日こそ言おうとした意気込みが備わっていた。
少し間をおいて部屋に入ってきたリリーは、気だるい表情を見せながらも、三郎の胸の中に飛び込み「会いたかったー」と首に手をまわす。
三郎は、そんな女をくるりと回すようにすると、薄地の羽織越しに胸を揉みしだいた。そうした導入部分の行為を行い、双方の気持ちがピークに達した所で、ベッドインし、互いの身体を結合させる。
自らの欲望を満たした三郎は、腕枕に頭を預けてうっとりとしている女に
「お前、日本に帰れよ」と、短く告げた。
「えっ?」
「国に帰ればだれか彼か頼れる人間はいるはず。こんな仕事をいつまでも続けているんじゃないよ」
「…」
「金ならある。ほら」
三郎は、起き上がって背広の内ポケットに入った財布の中身を見せた。
「そのお金を船賃にして日本に帰れっていうの?いくらあたしだって、そんな図々しい真似できないよ」
「キビ畑で稼いだ金と違い、これは宝石商としてやってきて稼いだ金だ。
汗水たらして稼いだ金とは、ちと違う。今の所、使う予定もない。心置きなく使ってくれよ」
リリーは、心の内で迷っていると見え、視線を下に落として考え込んでいた。
「ここで、まとまった金を渡すわけにもいかないから、日中、宝石店の方に取りに来てくれ。店番をしている奥さんには俺の方から言っておくから」
数日後、リリーは、クイーンズ宝石店に出向き思い切って店のドアを開けた。
良く磨かれたショーケースの中には、色とりどりの宝石が整然と並べられており、自分がいる世界との差を身をもって知らされる。
奥から店の女主人と思われる人物が現れ、全てを包み込むような笑顔で
「may I help you?]
と聞いてくる。
「あの、わたし、三郎さんに言われて店に来た者なんだけど。リリーって言います」
「えぇ、えぇ、聞いてますよ。お待ちしてました。お預かりしたもの、取って来ます。ちょっと待ってて」
渋谷スズは奥から分厚い封筒を持ってくると、リリーが手ぶらで来たのを知り「これに入れてお持ちになって」と手提げバッグを渡してくれた。
「でも、こんないいもの。もらうわけには…」
「いいのよ。私にはもうデザインが若すぎて。どっちみち処分しようと思ってたの」
「そうなんですか?すみません」
リリーは店を出て数分後、誰かが自分の後を全速力で追いかけてきているのに気付く。
「はー、やっと追いついた。本当に私って抜けてるんだから…沖野君にね。あなたの本名を聞いておくように頼まれてたの、教えて下さる?」
「杉田リツです。あの…三郎さんに、宜しくお伝えください。この恩は一生、忘れません…と」
リリーは、この先、もう顔を合わせる機会もないと思われる渋谷スズに、真っ向からそう述べると、まるで過去と訣別するかのようにくるっと背を向けて歩き出した。
沖野三郎は、今日は、もう、誰も来るまいと思いつつ、かつてのクイーンズ宝石店店主、渋谷から授けられた
- 何とか時間に都合をつけて来る客もいる。そうした人達の為に店は多少の猶予を持って開けたり閉めたりすること -
という言葉を思い出し、後片付けに入るのを思いとどまった。
三郎が34歳になった時、渋谷実が家督を継ぐ事になり、日本に呼び戻された。
その際、暫く、店の方を任される形になったのだが結局、渋谷夫妻は、ハワイに戻らず、数年後、店を譲り受けた。
その頃、実の妻、スズからの紹介で、日本人女性、川崎澄江と見合いし、結婚も果たす。
結婚してから一年後には、一人息子にも恵まれ、三郎は、ハワイに来てまずまずの人生を歩んでいるという自負を持ち、日々の生活を営んでいた。
だが、その絵に描いたような幸せも、長くは続かなかった。
1940年、欧州諸国から爪弾きにされたのを快く思わなかった日本は、ハワイに愚かな奇襲攻撃を仕掛ける。
こうして幕を開けた第二次世界大戦は、ハワイ在住の日本人達の生活にも多大な影響を及ぼし、ある一定の年齢に達した日本人の青年たちは合衆国の兵士としてヨーロッパ戦線に送られたのだった。
沖野三郎と澄江の一人息子である幸一も、第442連隊所属の兵士として激戦区に送られ、3年後には上官が三郎の家に足を運び幸一の戦死を告げた。
三郎は何とか、息子の死を受け止められた。
しかし、澄江に至ってはまるで、片腕をもがれたかのような有様で、戦死を告げられた翌日から床に臥せってしまい、起き上がれない状態に陥った。
幸い、三郎自身はひと通り、身の回りのことは出来たので、生活自体にこれといった影響は出なかった。
店の方も、古くからの客と、紹介によって増えた新規の客によって、そこそこの売り上げを保ち続ける事が出来た。
戦争に終止符が打たれれば、澄江の病状もいくらか良くなるとした三郎の期待は脆くも崩れ、ほとんど、ベッドから起き上がれない状況が続く。
かかりつけの日系人の医者に往診して診てもらった所、健康状態はさほど悪いわけではなく、心の中の整理がついていない為の精神的な病いだろうという診断が下された。
「おそらく、この地にいては、息子さんの事を日がな思い出してしまい病いの方も悪化するばかりでしょう。奥様は、早急に日本に一時帰国された方がいい」
「はい」
そう答えたものの、三郎には店の事があり、
-澄江を連れて日本に帰る-と言う選択肢はなかった。
しかし、時を同じくして、澄江の親戚から連絡が入り、その従姉妹がハワイに来て「澄江を日本に連れ帰っても良い」と申し出てくれた。
「悪いね、シゲちゃん」
何十年もあっていないのに、ちゃん付けで呼ぶのも不思議な感じがしたが、ここは一つ親戚としての絆をアピールしておく必要がある、と咄嗟に考え、つい口をついて出てしまったのだった。
それから一か月後、澄江の従姉妹、桂木シゲは日本で官僚の職に就いていた息子に付き添われてハワイの地に降り立った。
50代とは言え、見た目より若く見えるシゲは、日本とは違い全てにおいて洗練されたハワイに痛く驚き
「いやぁ、驚いたのなんのって。何もかもが日本よりも数段、上をいってるね。戦争にも負けるわけだよ」
と、本音を漏らす。
「母さん、その意見、世が世なら、お上にしょっぴかれるレベルだよ」
「誠司君も忙しい所、付き添い、申し訳なかったね。
言われた通りに明後日の切符を三枚用意したけど、これで良かったのかい?
もう少し、ハワイでゆっくりしてってもらえれば良かったのに」
「澄江おばさんの事、考えれば、ゆっくりなんかしてられませんよ。
うちの母も今はすごい元気でいますけど、数年後にはどうなるかわからないですし…」
「本当に何と礼を言っていいか。澄江の事、よろしくお願いします」
三郎は立ち上がって深々と頭を下げながらも、明後日の段取りをもう一度反芻し、抜かりのないようにしなければと自らを奮い立たせた。
澄江が桂木シゲらに付き添われて、家から出た後、心の中にぽっかりと穴があくものだと思っていた三郎は、意外に平気である自分にいささか驚いた。
- そりゃそうだ、日本を離れて47年も経っている。ちょっとやそっとの事では、びくともしない -
仲間の死、息子の戦死、戦争という緊迫した出来事。
色々なものが矢のように自身の身に降りかかり、その都度「負けてたまるか」という精神で乗り越えてきた。
そして、その時点で支え合い励まし合ってきた幾人かの信頼のおける同胞達。
白人達のコミュニティには、入っていけなくとも表面上はにこやかに接し、波風を立てずにやってきた。
- 戦死したのはうちの息子だけじゃなし。俺の人生、そんなに見下げたもんでもないかもな -
三郎は、そう考え、明日、友人達に会う機会でもある教会行きに備えての準備に入った。
その日、クイーンズ宝石店を開けた三郎は、直後に入店した20代と思しき女性に「can Ⅰhelp you?」と声を掛けた。
「あっ、私、日本人です」
「これは、これは。失礼しました。何かお探しですか?」
「特には…」
三郎は 「単なる冷やかしの客か」と思い、ショーケースの中の宝石を並び替えるなどして、店内にとどまった。
数分後、女性はブランド物の財布から10ドル紙幣を出し、シェルで出来たキーホルダーを購入した。
「有難うございました」
女性は、包装された商品を籐製のショルダーバッグに仕舞いこむと、何か言い残した事でもあるように、その場に身を置き目線を下に落とした。
どうせ、気ままな一人暮らし。時間に急かされて生きているわけでもない。
そう思い、彼女の動向を暫し観察すると
「ごめんなさい。あの沖野三郎さんでいらっしゃいますよね。私、杉田リツの孫で須藤百合と申します。初めまして」
三郎は、激動の時代を潜り抜けてきたおのれの人生を振り返り、杉田リツという名を思い出そうと努力するも、全く、その片鱗さえも思い浮かばず、途方に暮れた。
それを見た須藤百合は、助け舟でも出すかのように、一枚の写真をバッグから取り出し、カウンター上に置く。
「これが祖母から預かってきた写真です」
その娼館の前で撮られた写真には、何人かの女性達が写っており、三郎は、ひときわ目を引く東洋系の顔立ちの女の所で、目が止まった。
自分が男として本能に逆らえなかった、あのギラギラした時代、確かにこのオーキッドルームに通い情交を交わした女、リリーがそこにいた。
この孫娘は彼女の祖母から、どれ位まで話を聞いているのだろう?
「思い出されました?祖母は今、体調があまりよくなくて、介護施設住まいなんですけど、ハワイであなたに大変お世話になり、このままお礼を申し上げずに死ぬのは耐えられないって言っておりまして。代理で私が伺ったのです。
これ、祖母から預かった手紙です。後で読んで頂ければ幸いです」
三郎は「遠路はるばる、ご苦労様です」と言い、軽く頭を下げて手紙を受け取る。
「祖母はこっちで、酒場のホステスとして働いていたみたいで…
そうした関係で家族には、長い間職種を伏せていたんですが、今回、私にだけ打ち明けてくれて」
- そうか、まさか彼女も真実を打ち明ける訳にもいかないだろうし。俺も話を合わせるようにしなければ… -
「では、時間もないので、もう行きます。
沖野さん、本当に有難うございました。失礼します」
美しい漆黒の髪をなびかせ、須藤百合が出て行くと「やれやれ」という思いと同時に疲労感がどっと押し寄せた。
定刻に店を閉めると、馴染みの中華料理店から出前を取り、ダイニングテーブルで、一人きりの夕食を取る。
澄江は、日本で元気にしているだろうか?とした心配がふと心をよぎるも、すぐに- いや、これでよかったんだ。後悔したって始まらない -とした思いにとって変わる。
-そうだ、さっきの手紙、読まなければ-
なぜか、封を切るのをためらう自分がいた。結果的に彼女を助けた事には違いないが、娼婦として、彼女を数回買った客だった事も事実なのだ。
- 何が書かれているのか? -
恐る恐る封を切り、封筒の中から1枚の便せんを取り出し、読む。
拝啓
沖野三郎様
私は、リリーとしてオーキッドルームに在籍していた杉田リツです。
本当にその節は、お世話になり、お礼もせずに来てしまいました事、お許しください。
私は、あなたに用立てて頂いたお金で日本に渡り、住み込みで働いたりしながら、学費を貯め、看護婦の養成学校に入りました。
二年で卒業した後は、働き口も見つけて、30手前には、会社勤めの男性と結婚することも出来ました。
子供は一人、でも、自分の過去からすれば、人並みの幸せを得るなんて到底無理だと思っていた。
沖野さん、あなたのおかげです。本当に有難うございました。
いつまでも、お元気で。
リリーこと、杉田リツ
三郎は、今の枯れ切った古木のような自分ではなく、ギラギラしていた時代に思いを馳せた。
酒をかっくらい、その勢いで、女を買う。
翌日の辛い作業に挑む前に、それらをすると、なぜか高揚感に包まれ、仕事にも不思議とやる気が出た。
ある意味、俺もリリーに助けてもらってたんだよな。
日本でやりがいのある仕事に就き、幸せな人生を送ってくれているのなら、こちらとしても何も言う事はない。
わざわざ、孫に手紙を託すなんて…義理堅いんだから。
三郎は、心の中でそうつぶやくと、封筒の中に手紙を戻し、重要な物を入れておく引き出しの奥にそれを仕舞いこんだ。
了
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