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「ジルベール殿、娘のために遠いところをよくぞ参ってくださった。これが我が娘、シルヴィア」
公爵の挨拶が始まり我に返った梨沙は、シルヴィアから教わった通りに姿勢を正したまま片足を引き膝を軽く曲げた。
ここでは口を開く必要はないと言われていたので、カーテシーと呼ばれるお辞儀だけに留める。
「妻が早くに天国へ旅立った私にはこのシルヴィアしか子がない。彼女を愛し幸せにすると誓い、なおかつ彼女が愛した男にこのレスピナードを託したい。そう貴殿のお父上と話していたのだ。少しの間だが我が城でごゆるりと寛がれるがいい」
そのまま場所を移して昼食会が始まったが、シルヴィアの振りをして食べる食事は味も何もわからない。ただ教わった通りに上品に食材を口に運び、たまに目の合ってしまうジルベールには引きつった微笑みしか向けられない。
公爵とジルベールが話しているのに、適当に相槌をうつのが精一杯。たったそれだけのことがとても神経を擦り減らしていった。
せっかく近隣の大国の王子と話す機会とあって、政治的な話も多々飛び交う。
公爵は娘であるシルヴィアや梨沙にそうした話を聞かせる気はないらしく、梨沙に向かって「お前は食事が終わったら侍女と風にでも当たっておいで」とやんわり会話の輪から外してくれた。
有り難くそれに従い、食事を終えた梨沙はメイド姿のシルヴィアとともに4階のダイニングルームを後にすると、隣りにある大広間のテラスに出た。
「リサ、上出来よ!」
ぐったりしてシルヴィアを見ると、上気した頬をほんのりピンク色に染めて梨沙を褒めてくれる。
「お顔と名前は覚えたわ。あとは人となりを観察するだけね」
作戦がうまくいきそうだとほくそ笑むシルヴィアに、ジルベールのことを伝えようか悩む。
ラヴァンディエ王国の王子と名乗るジルベールには、きっと私達の入れ替わりがバレてしまっている。その理由を説明するには、昨日1日に起こったことを説明する必要があった。
昨夜中庭でジルベールと過ごしたほんのひとときを思い返す。
泣いて濡れてしまった頬を包み込む温かい手。
抱きしめる腕の力強さ。
ほのかに掠める柑橘系の香り。
夢だと思っていたが実は現実だったあのひとときは、梨沙にとって大切な思い出の時間。
ジルベールがどういう気持ちで『俺と一緒に来い』と言ってくれたのかわからない。1人が寂しいと泣く梨沙に慰める気持ちで言っただけかもしれない。
それでも、誰にも言ったことのない心の中の不安を聞いてくれて、さらに励ますように抱きしめてくれた優しさに触れ、梨沙は彼に惹かれる気持ちを止められないでいた。
昨夜のあの中庭での出来事は、梨沙の宝物だった。
「シルヴィア様…あの…」
口を開きかけながら、なぜか昨夜の出来事を誰にも話したくないという感情が胸に芽生えていることに戸惑いを覚える。
絵本の中のままストーリーが進んでいくとしたら、ジルベールはきっと本当は従者で、ラヴァンディエの王子様は、あの穏やかな微笑みを湛えたローランなんだろうと思う。
ローランも絵本の中の王子様と同じで、金色の髪に深緑色の瞳。きっと従者であるジルベールと入れ替わってシルヴィアの人柄を観察しようとしているんだと思われた。
でもそれをシルヴィアに伝えると、絵本の中のストーリーから外れてしまう。
梨沙と姫の入れ替わりがバレていると話すことによって、今後のシルヴィアの行動が変わってしまったとしたら、絵本の世界が崩れてしまうかもしれない。
そんなことになったら困る。絵本の世界を崩さないため。
「リサ?」
「あ、いえ。……なんでも、ないです」
心の中で必死にそう言い訳して、シルヴィアに入れ替わりがバレていると伝えるのをやめてしまった。
その後シルヴィアはジルベールの様子を覗くため、給仕するメイドに混ざりダイニングルームへ戻っていった。後ろ姿を見送り、テラスから中庭を見下ろす。
水の庭園は美しく整備され、陽の光が池に反射しているのが目に眩しい。
昨夜ジルベールと話した小さなバラ園は、ちょうど使用人の部屋がある別棟の屋根の向こう側に見えた。少しだけ身を乗り出して眺望を楽しんでいたところに、後ろから急に声がかかった。
「あまり乗り出しては危険だぞ」
「ひっ……」
「危ない!」
突然聞こえた声に驚いて手摺から手を滑らせてしまった梨沙の身体を支えてくれたのは、先程謁見の間でラヴァンディエ王国の王子と呼ばれていたジルベール。
「まったく。危なっかしくて目が離せない」
呆れたように言われて落胆しつつ、支えるために腰に回された腕にドキドキして挙動不審になってしまう。
「す、すみません……」
小声で謝り彼から一歩離れようと身体を引くが、腰に回された腕がそれを拒むように力が籠められた。
「なぜ、そのような格好を」
耳元で囁くように問い詰めるその声は昨夜のような甘さはなく、低く直接脳に響く。
馬車でも聞いたあの棘のある声に、梨沙は身を竦めた。
そうだ。彼は自分の本当の姿を知っている。なぜこうして『レスピナード公爵の1人娘』を騙っているのか、花婿候補としては気になるのが当然だ。
どう答えらたいいんだろう。やはり先程きちんとシルヴィアに伝えて、一緒に対応を考えておけば良かったと心の中で悔いた。
彼との昨夜のやり取りを自分だけのものにしたいという自分勝手な理由で、この入れ替わりを失敗に終わらせてしまうわけにはいかないのに。
「ジル……」
片腕で抱かれる形の体勢のまま、途方に暮れてしまう。
なんと言ったらいいのかわからず困惑に潤んだ瞳で見上げると、ジルベールは鋭い視線を幾分和らげ、腰に回したのと反対の手で梨沙の頬に触れた。
「君は一体……」
梨沙はまだ彼に名乗ってもいなかったのだと思い返す。逆に言えば、彼は名前も知らない彼女に『一緒に来い』と言ったのだ。
「あの、私……」
梨沙がシルヴィアと入れ替わっていることを説明しようと口を開いた時、大広間の奥のダイニングルームから「シルヴィア様ー」と偽物の姫である梨沙を呼ぶ声が聞こえた。
「あ……行かないと」
腰に回っている腕の力が少しだけ緩められ、近い距離にあった身体がゆっくりと離れていく。
それがどうにも心もとなく感じて、自分が離れたがっていたくせに縋るような顔でジルベールを見上げてしまった。
そんな梨沙の心情をどう読み取ったのか、ジルベールは素早く彼女の身体を抱きしめると、今度は甘さをふんだんに含んだ声で囁いた。
「今夜、またあの場所で。その時話そう。本当の君の姿で来て欲しい」
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