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暖かい春の日差しの中、2人で噴水広場のベンチに座って食べる焼きたてのパンは格別に美味しかった。
軽い口当たりのクロワッサンは表面はサクサクしているかと思いきや、口に入れた途端バターの香りのみを残して消えていく。
パイのような生地が何層にも重なって空気をふんだんに含んでいるせいか、あっという間に溶けてなくなってしまうのだ。
リサがあまりの美味しさに感動して目を閉じて噛み締めていると、そんな彼女の様子が可笑しかったのか「ふっ」とジルベールが笑みを零した。
「うまいな」
「はい、とっても!」
「顔つきが昨日の昼食会とは雲泥の差だな」
リサは昨日食べた豪華な食事が緊張で全く味がしなかったことを思い出した。ただ粛々とマナー違反に気をつけてシルヴィアの顔に泥を塗るまいと必死に手と口を動かしていただけに過ぎない。
「あれは、だって、シルヴィア様のふりで……」
「わかっている。自然なリサの表情を見られて嬉しいだけだ」
まただ。またこの眼差しに心が勝手に踊る。
愛おしいという感情を隠さないような視線を向けられ、恋愛初心者のリサは戸惑ってしまう。
ふわふわのクロワッサンをひとつ食べ終わって、選んだいちごジュースに口をつけようとカップを持つ。
ふと4歳くらいの女の子が噴水の周りを走っている姿が目に入った。その手には、自分たちと同じ店で買ったであろうジュースのカップがある。
微笑ましく見ていたが、石畳のちょっとした段差に躓き、リサとジルベールの目の前で転んでしまった。
慌てて少女の保護者を目で探したが、まだよちよち歩きのもう1人の子供に手一杯の母親らしき女性は、娘が転んでしまったことに気が付いていない様子。リサはカップを手に持ったまま少女に駆け寄った。
むくりと起き上がった女の子は少し膝を擦りむいた程度で怪我は大したことなかったが、転んだ拍子に落としてしまったカップを見て、そのつぶらな瞳からぽろぽろと涙を零した。
「いちごじゅーしゅ、なくなっちゃったぁ……」
悲しげな声を出して泣く女の子に寄り添い、空になってしまったコップを拾うと、リサは自分の持っていたいちごジュースを泣いている女の子の目線に入るように見せた。
「私はリサ。あなたのお名前は?」
「っひっく。え、エリス、4さい」
目の前に現れたいちごジュースとリサを交互に見ながら、少女はエリスと名乗った。
「4歳かぁ。もうお姉さんだね。ねぇエリス。私ね、パンを食べすぎていちごジュースを飲めなくなってしまったの。誰か貰ってくれる子を探していたんだけど」
「え?」
「エリス、貰ってくれる?」
「いいの?!」
「もちろん。お腹いっぱいで、もう一口も飲めないの」
お腹をぽんぽんと叩いてみせると、先程まで泣いていたエリスはしゃっくりをしながらリサを不思議そうに見上げた。
「リサおねえちゃん、くいしんぼうなの? ジュースものめないくらいパンたべちゃったの?」
「ふふ、そうなの。せっかくおいしそうないちごジュースなのにね」
話しながらリサはポケットからハンカチを出すと、擦りむいたエリスの膝を優しく拭う。
「痛くて悲しかったのに泣き止んで偉かったね。ご褒美に私がこのジュースに魔法をかけてあげる」
「まほう?!」
「そう。ジュースがもっと美味しくなる魔法。『おいしくなーれ、もえもえきゅん!』」
人差し指をジュースの入ったコップにツンと当てる。
「さぁ、これでもーっとおいしくなったよ。飲んでみて?」
「……ほんとだぁ!」
ジュースを一口飲み、素直に驚いた顔をするエリスに破顔するリサ。
「エリスもまほうつかえるかなぁ? きらいなおやさい出たら、『おいしくなーれ、もえもえきゅん』っていうね!」と得意げに話す様が愛らしい。すっかり涙も止まり、きゃっきゃと声を上げて笑う。
リサは今度こそ落とさないようにねと注意をして母親の元に送り出した。「ありがとう」と満面の笑みを見せたエリスが母親と小さな弟と合流したのを見届けて、ほっと息をついた。
梨沙が生活していた施設『ひまわりの家』にも、あのくらいの年の子がいた。一緒に暮らす中で、年下の子の世話をする機会も多く、自然と今のような振る舞いが出来るようになった。
魔法はバイト先のメイド喫茶で有料でつけられるオプションだった。こんな一言にお金を払うお客さんの心情は最後まで理解不能だったが、エリスが笑ってくれたのだから魔法を習得しておいてよかったと前向きに捉えた。
一連の出来事をベンチに座ったまま何も出来ずにただ見ていたジルベールは、リサの愛情溢れる行いに対し強く胸を打たれた。
転んだ少女を助け起こしただけでなく、自分のものを躊躇いなく差し出せる。それも押し付けがましくなく、小さな女の子が遠慮しないように優しい嘘までついて。
初めて会った時、彼女が言っていた言葉は真実なのだと、今改めて思った。
『毎日平和で健康で、お互いだけを愛し合っている人が側にいる。私だけの家族。私はお金より、そっちのほうが大切に思えます』
彼女はそういう女性なのだ。愛情深く、目に見える金や権力よりも人との繋がりを大切に出来る。なのに危なっかしい一面もあって、目が離せない。
ジルベールは今日1日で、どこまでもリサに惹かれていく予感がしていた。きっともう、彼女を手放すことは出来ない。
ジルベールを振り返ったリサは、少しだけ申し訳無さそうな顔をする。
「どうした?」
「すみません。せっかく買ってきてもらったのに、私……」
眉を下げて謝る彼女を堪らなく愛しく思い、ジルベールは早朝の広場だということも忘れて彼女を引き寄せ胸に抱きしめた。
「俺は、今の君の行いを誇りに思う」
「え?」
「自分よりも弱いものを当然のように助け、見返りもなく与えることが出来る。そんな君はとても清らかで美しい」
抱きしめられたまま思ってもみなかった賛辞を与えられ、リサは顔から火が出るほど恥ずかしかった。
「そ……っ、やめてください、当然のことをしただけです」
「君が言う『当然のこと』を出来ない人間がどれほどいるか。国を支えていく上で俺が1番大切だと思うことを当然だと言い切る君に、今俺がどれほど焦がれているか」
背中に回った腕の力が1度ぎゅっと強まった後に緩められる。しかし与えられた言葉の威力に、嬉しさよりも照れ臭さや恥ずかしさが勝ってしまい顔を上げられない。
それでも、リサはなんとなく引っかかりを覚えて俯いたまま今の言葉を頭の中で反芻する。
『国を支えていく上で俺が1番大切だと思うことを当然だと言い切る君に、今俺がどれほど焦がれているか』
そうだ、彼は『国を支えていく』と言った。こんな言い回しはまるで……。
「ジルって、本物の王子様みたい……」
つい本音が口をついて出てしまった。彼が本当は従者であるということは知らないふりをしていたはずなのに。
「何を今更」
呆れたように笑ったジルベールにリサは一抹の不安を覚える。身体にピリっとした緊張が走った。
ギシッと固まってしまったリサに訝しげな顔をする彼の反応に、リサの疑惑がどんどん膨らんでいく。
実際、何度か感じたことがあった。ジルの気品溢れる佇まいが、従者が演技をしているにしては完璧過ぎるのではないかと。
それは実際にシルヴィアのふりをしている庶民のリサだからこそ感じる疑問だった。
いくら普段から側に仕えているとはいえ、あのように完璧に主人に成り替われるものだろうか。
絵本の通りなら、ジルベールは王子のフリをしている従者であって本物の王子様ではないはずだ。だからこそこうして2人で城を忍び出ても許されると思っていた。
そうでなかったとしたら、自分はとんでもない思い違いをしていることになる。
少しばかり逡巡して、リサは思い切ってジルベールに問い掛けた。少しの希望と、大きな躊躇いをもって。
「えっと、だって、ジルは、本当は王子様じゃない……ですよね?」
「……正真正銘ラヴァンディエ王国の王子だが」
「えぇっ?!」
もしかしたらと予想をしていたにも関わらず、あまりにも驚きすぎてリサにしては珍しいほどの大声が出た。
困惑極まりないといった表情のジルベールだが、リサはそれ以上に驚愕していた。
無理もない。ずっとジルベールは王子のフリをしている従者だと思っていたのだ。
なぜならここは絵本の中の世界。リサの知っているストーリーの通りならば、シルヴィアと入れ替わっている自分と同様に、目の前の彼も花嫁の人となりを観察しようと言い出した王子様と入れ替わった使用人のはず。
それがまさか、本物のラヴァンディエ王国の王子だったとは。
「リサ? 一体何をそんなに驚く? 君も公爵との謁見の場に居ただろう」
「だって……、芝居を打ちにって言ってたから。てっきり『王子様役』なのかと……」
正直に絵本の話をするわけにはいかず、リサは馬車の中で聞いた話を引き合いに出した。ジルベールは一瞬きょとんとしたあと「あぁ」と納得したような顔をした。
「芝居と言ったのはまぁ、正確には俺ではなくて……」
「え?」
「あ、いや。その件はまた後日話そう。俺の独断では話せない」
彼が何を言わんとしているのかが全くわからず、首を傾げるリサ。
しかしひとつ確実なことは、目の前の彼は従者などではなく、正真正銘本物の王子様だということだった。
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