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「ジルベール殿。御存知の通り私にはこのシルヴィアしか子供がいない。あなたはシルヴィアを連れて国を継ぎ、我が公国を属国にでもしようというお考えか?」
普段は使用人に対しても決して声を荒げる事のない穏やかな公爵の言葉に、多分に険が含まれる。小さいとはいえ20年以上にわたり国を治めてきた一国の主の貫禄を感じさせる声音だった。
リサは公爵のそんな一面を見るのは初めてだった。いつかの会議でも難しい顔をしていたと記憶の彼方に映している表情以上に、今彼の顔は険しい。
しかし、ジルベールはそんな公爵のピリッとした空気に怯むことなく、次の言葉を放った。
「いいえ、レスピナード公爵。私の花嫁はシルヴィア姫ではありません」
ずっと片膝をついていたジルベールはすっと立ち上がると、ゆっくりと振り返る。
この謁見の間に来て初めてリサと視線を合わせ、愛しい者に向けるとろけるような微笑みを見せた。
「私の花嫁は、―――リサ、おいで」
片手を伸ばし、リサを呼ぶジルベール。何が起こったのかわからない。とてもじゃないが理解が追いつかなかった。
深緑色の瞳は間違いなく自分に向けられている。リサはその眼差しを真っ直ぐに見つめ返すことが出来ないでいた。
一体何が起こっているのだろう。
なぜ彼はシルヴィアではなく自分の名前を呼んでいるのだろう。
「リサ」
再度呼ばれても、足が竦んで動けない。
それでもあの眼差しを見れば、自惚れじゃなく自分が求められているのだと理解出来た。
シルヴィアではなく、ジルベールはリサを求めている。
返事をしてもいいのか。彼の側へ行ってもいいのか。何も考えられず、どうするのが正解なのかわからない。戸惑いで寒くもないのに身体が震える。
自分の事に精一杯のリサは気が付かないが、ここにいる誰一人、リサの言動を急かす者はいない。
彼女が今混乱を極めていて、必死に自分で答えを見つけようとしているのを、ただじっと待ってくれている。
リサは途方に暮れそうになる意識の中、必死に考えを巡らせた。
「わ、わた、私は……」
どうしても言葉が出ない。
ジルベールがシルヴィアではなく自分の名前を呼んでくれた。息が止まるほど嬉しいと思っているのに、素直にそれを表現することが憚られる。
感情のまま愛しい人の胸に飛び込みたいという衝動を、リサは必死に理性で押し殺していた。
自分の想いをこの場で言葉にしてしまえば、取り返しがつかないことになるのではないか。自分が幸せな気持ちになることで、誰かが悲しい思いをするのではないか。
もしその誰かが大恩ある公爵やシルヴィアだとしたら。そう考えると、リサは迂闊に言葉を発することも喜びを表現することも出来ないでいた。
「リサ。君の正直な気持ちを言えばいい」
ジルベールにいつかも言われた。もっと甘えていい、自分の意見を言ってもいいのだと。
その欲求に心が揺れる。彷徨う視線の中に、シルヴィアの優しげな笑顔が飛び込んできた。
『いい? リサは自分の気持ちに正直になればいいの。何も心配はいらないわ』
先程のシルヴィアの言葉と、安心させるように大きく頷く彼女に背中を押され、リサはようやく真正面からジルベールを視線を合わせた。
「ジルベール様……」
後ろに控えていたリサは、1歩前に進み出る。すると、リサの決意を待っていたように勝ち気に笑ってみせた。
「言ったはずだ。全て叶えてやると」
その強い眼差しに射竦められて、リサの心はもう彼から離れることは出来ない。そう悟った。
ドクドクと全身が心臓になったかのように鼓動が大きく響く。リサにはもう、ジルベールしか見えなかった。
「私は、あなたの側にいたい。好きです、大好きです。ジル」
リサの必死の告白を聞き、ジルベールは喜びを噛みしめるようにその深緑色の瞳をぎゅっと閉じる。そして目を開け正面に立つ愛しい女性に向かい、大きく腕を広げた。
「リサ、俺と一緒に来い。俺が、君の居場所になる」
「……はい。連れていって」
いつかと同じやり取りを交わす。しかしそれはもう決して夢ではない。
ジルベールが自分に向かって腕を広げて待っている。
リサは緊張に喉を鳴らし、大きく息を吸うと、ドレスの裾を持って待ち受ける彼の胸の中へ飛び込んだ。
―――――やっとつかまえた。
ようやく自分の元へ自らの意思で来てくれたリサを、力の限り抱き締めるジルベール。
もう離さない。生まれた国が違おうと身分の差があろうと、もう彼女は自分のものだ。決して誰にも自分たちを引き裂くことは出来ない。
それは例え、リサ自身だったとしても。
「愛している、リサ」
苦しいほどの抱擁に包まれ、リサは目眩がするような幸せを噛みしめる。その腕の中の温かさに涙が滲みそうになるが、リサはハッと我に返る。
ここは城の謁見の間で、公爵やシルヴィア姫もいるのだ。まだ何も問題は解決していない。
その証拠に、公爵は呆気にとられた表情でこちらを見ている。
今更ながら公爵やシルヴィアの前で何ということを。リサは羞恥で顔から火が出る思いだった。
慌ててジルベールの腕から抜け出すと、ここまで何も言葉を発しないシルヴィアを振り返る。
彼女の傍らには、いつの間にかジルベールの従者であるローランの姿。彼はシルヴィアの肩を抱き、ぎゅっと自分の方に抱き寄せた。
「心配しないで、リサ嬢。シルヴィアは僕が必ず幸せにするから」
相変わらず穏やかに微笑むローランと、そんな彼の言葉に嬉しそうに上目遣いで見つめ、頬を染めるシルヴィア。
何がなんだか理解が出来ない。従者のローランが、シルヴィアを幸せに……?
「待ちなさい、一体どういうことなのだ」
リサと同じく、この状況が全く理解出来ないレスピナード公爵の困惑した声が謁見の間に響いた。
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