19人が本棚に入れています
本棚に追加
二度死んだ少年
古郷小弥太は、生まれて初めて、空腹というものを知った。
日本にいた時はもちろん、転生した先であるこの奇妙な街でも、今まで知らなかったことだった。
空腹とは、痛みだ。
単に一食抜いた、というだけなら、それはただの欲求であって、胃袋がぐるぐるとなる程度の話に過ぎない。
でも、それが丸二日ともなれば、事態は全く違ってくる。
(なんでだよ)
手足に力が入らない。
息をするたびに、ひきつるような痺れがある。
気力が湧いたと思えば、空っぽになって、身動き一つ取りたくなくなる。
そして、腹の中が、きりきりと痛い。
(どうして)
行く当てもなく、さまよい続けていた。
あの日、小弥太は、怒れる竜を見た。
自分を突き放した、蛇を見た。
病室の中にいた誰もが、小弥太に冷たかった。
(なんで)
裏切り者と言われた。クビだと言われた。死ねと言われた。
分からない、なにもわからない。なにもわからなかった。
謝ったのに、ごめんなさいと言ったのに。
「そこの君、早く受け取って、次がつかえてるんだから」
気が付くと、受付のゴブリンが面倒くさそうに告げていた。
カウンターの上に載せられた、ログインボーナスチケットが一枚。震える手で受け取ると、小弥太はそれをきつく抱きしめて、よろめきながら立ち去る。
ここはPの館一階。一日一回、住民に提供されるログボを受け取れる場所だ。
いくつもの受付窓口に、模造人たちが並んでいる。
「ごはん、買わないと」
食べることを考えるだけで、胃の痛みが強くなる。
そのまま、館の別棟へと入る。
そこはチケットや結晶を、食料品や道具と交換してくれる売店だ。そこでも、長い列ができていて、空腹を抱えたまま、順に並ばなければなら――。
「うわっ!?」
突き飛ばされ、地面を転がる。手からチケットが離れて、誰かがそれを奪っていく。
「か、かえし――」
か細い声が上がったが、チケットを奪っていったそいつは、もういない。
周囲のヒトビトは一瞬だけ、小弥太を見たが、誰も彼もよそよそしく、そのまま自分の取り分を握り締めて、交換の窓口に向き直ってしまう。
「なんで……」
これで二度目。いや、三日前に交換した保存食の包みを、道端で奪われた時を含めれば三度目だ。
小弥太は叫び、周囲の『大人』たちに抗議した。
『泥棒だよ! 俺の、俺のログボ!』
『窃盗団の連中。原住模造人を手下にした、強盗やスリが横行してるんだ。ちゃんと武器を持つか、ギルドの参加証を着けておきなよ。そうすれば、狙われにくいから』
たった、それだけだった。
その時初めて、小弥太はこの街にいる『薄汚れた模造人』の意味を知った。
自分が『ムーラン』の名前に守られていたことも。
「なんでだよ……」
ため息が漏れた。
そのまま、Pの館に据え付けてあるウォーターサーバで、出来る限り水を飲んで、きりきりと痛む胃袋を抱えて、外に出た。
「どうしよう……」
めまいがする。お腹が空きすぎている。
どうして、こんなことになったの。
少し前、自分はギルドを辞めた。と言っても、いつでも戻れると、そう思っていた。
だって、店長はいつも、俺に優しくて。
『あなたを、除名します』
「なんで、だよ」
だってしょうがない。
あんな強くて、怖いやつに、逆らえるわけないじゃん。
あいつが勝手に、話した内容にチケットを払ってきただけで。
『仲間を売って食った飯はうまかったか、この裏切り者』
「あ、あいつが、あいつが、悪い奴だったから。俺は、おれは」
何度考えても、納得がいかない。
だが、それよりも今は、チケットでも結晶でもいいから、手に入れてご飯を食べなくてはならない。
働いて、手に入れるしかない。
『お断りだ。他所へ当たってくれ』
それは、P館東通りの雑貨屋。
『店番もろくにできない、釣銭は間違える。その上、ギルドを抜けて来たって? うちで雇ってたのは、乙女さんの口利きがあったからだ。そうでなかったら、とっくの昔に蹴り出してたよ』
冷たくあしらわれる。
それでも、次の場所へ。
『メッセンジャーは、一日中走り回る仕事だ。街中の道も知り尽くす必要がある。それを覚えるまでは見習い期間。結晶、一日一個からだ』
そんなの、やっていられない。
次の場所へ。
『うちの荷物は、君の倍ぐらい大きさと重さばかりだ。試しにそこの箱を持って……ああダメだ。悪いけど、うちはやめておいた方がいいな』
背丈も力もない自分に、出来る仕事は限られている。
次の場所へ。
そうやって次の場所へ、次の場所へ、次の場所へ。
断られる、追い返される、首を横に振られる。
配られたチケットで食いつなごうにも、弱った自分はあっという間に、悪い奴の餌食になってしまう。
もうダメだ。
こんなの無理に決まってる。
何とか謝って、許してもら――。
「そろそろ来る頃だと思ってたよ、裏切り者君」
ムーランまでの道の前に、絶望が立ちふさがっていた。
赤い竜の男が、冷たくこちらを見据えていた。
「腹が減って、文無しになって、ここまで惨めになったんだから、僕を許してくださいってか?」
「あ……あ……」
「失せろ。次、店に近づいたら、死ぬよりきつい目にあわすぞ」
首を掴まれ、そのまま裏通りに放り出される。その顔は、店のカウンターに座ってくつろいていた時とは、全く別人だった。
その目は、小弥太を一切、許す気が無かった。
泣きたかったが、涙は出なかった。
そのまま、背を向けるしかなかった。
「はい、保存食セット一つですね」
絶食して三日目の朝。
ようやく手に入れたそれを、小弥太は抱きかかえ、館の隅っこで食べた。よく観察すれば、こちらを盗み見る連中がいるのに気づく。
水のボトル、干し肉と燻製卵のサンドイッチ、クッキーが三枚。
冒険者が冒険に持ち出す、保存食。
堅くて、しょっぱくて、うまくもなかったが、どうにかありつけた食事だった。
残った水とクッキーはポケットに。
これが、自分の一日の食事。
「……はぁ」
ため息が出る。
でも、誰もそんな自分を気にもしてくれない。なぜなら、今の自分と似たような連中はごろごろいたからだ。
ムーランにいた頃は、こんな世界など想像もしていなかった。
汚い連中は、自分には関係ないからと、気にも留めていなかった。
だが、同じ立場になり、そういう連中と同じような風体になるにつれ、なんとなく互いを意識するようになっていく。
「おい、お前。そっちには行くな」
最初に声を掛けられたのは、街の北西にある薄汚れた廃屋の群れに近づいた時だ。
腐ったような臭いと、カビの臭いがまじりあった建物。そこに出入りする汚れた模造人たちが、気になっていた。
「そっちは『原住民』の住んでるところだ。転生者が入っても、いいことないぞ」
「な、なんで?」
「スリや強盗の巣だからだよ。それに、縄張り意識も強いし、言葉も通じないからな」
よく見れば、通りの奥の方からこちらを覗く目がある。その気味の悪い圧から顔を逸らすと、忠告してくれた相手に向き直る。
こちらが行く気を失うのを見て、薄汚れてがりがりに痩せた全裸のクロテンは、こちらのポケットに目を落とした。
「水、持ってんだろ。くれよ」
「じ……自分のは? Pの館でも」
「助けてもらって、礼も無しかよ」
仕方なく、ボトルを差し出すと、クロテンはあっという間に中身を飲み干した。
「寝場所が欲しかったら、北じゃなくて、南西のビル群にしろ。それでも、縄張り争いとか、原住の奴らとケンカになったりするから、塔の検問所回りで夜更かしすればいい」
「あ……ありがと」
それが、小弥太にとって初めての『浮浪者』との出会いだった。
彼らは定った宿を持たず、職業もなく、日々をPの館のチケットや、街のあちこちで提供される『施し』でしのいでいた。
『水が欲しい時は、塔ダンジョンの手洗い場だ。Pの館は、使いすぎるとすぐ出禁になるからな』
『城下町の通りに、週に三日、『お助け小屋』が出る。普段はおかゆとかばっかだけど、食い物屋の売れ残りとかも、時々食えるぞ』
『『グノーシス』もときどき、簡単な弁当を出してる。その代わり、何回か奉仕することになるから、そこだけ気を付けとけ』
『南の森の木卵取りが手軽で稼ぎにもなるけど、魔物や『水』に喰われないようにな』
クロテンは訳知り顔で、街の底辺で生きるすべを教えてくれた。もちろん、小弥太の持っているクッキーや水が目当てでもあったが。
『夜は基本、うろちょろすんなよ。南の森から迷い込んできた蟲とか、原住民の物取りとかに出くわすからな』
どの家も、店も、固く扉を閉ざし、明かりもない真っ暗な世界。
唯一、照明があるのは、塔の四方にある検問所だけだ。
宿のない連中が集まって、身を寄せ合うことを、小弥太は初めて知った。
そして、彼らの身の上のことも。
『転生って言うから、チート能力でもくれるかと思ったら、あんなのだし。それに、こんな体でダンジョンなんて、行けるわけないでしょ』
自分のギフテッドと種族に絶望する者。
『俺は悪くねえよ。あの甲山とかいうおっさんがうるせーんだって。いちいち命令ばっかしてくるし、他のギルドも似たようなもんだし。ホント、老害ばっかしかいなくて、俺の実力発揮できねえって』
鼻息も荒く、自分がはみ出たことに愚痴る者。
「Pの館、グノーシスの教会、あと城下町のお助け小屋。この三つをぐるぐるしてりゃ、飯の心配はない。慣れると楽だぜ。プラチケは、ちょっと苦労するけどさ」
街の善意にただ乗りして、自堕落な生活を選んだ者。
理由は様々だが、この街から落後した者たちは、すすけて薄汚れていた。
「ムーランには、行かないの?」
それは素朴な疑問だった。
小弥太の質問に対する回答は、様々だった。
『なんか胡散臭い、っていうか。あそこのリーダー、ラミアでしょ。集めたメンバーから血を吸ってるとか聞いたよ。騙されたくないもん』
『ギルドに入ったらすぐプラチケ交換できるのかと思ったら、順番待ちで、更新ギリギリまで待てってさぁ。いくら登録料が安くてもなあ』
『ギルドって、いちいちルールとか、上納とか言われんの、めんどくさいだろ。それぞれ適当に付き合って、利用してやればいいんだよ』
あのギルドは、そんな風に見られていたのか。
店長がヒトの血を吸ってるところは見たことがなかったし、プラチケはどんなことをしても必ずくれていたし、言われるほどルールも厳しく――。
『いつまで寝てるんだ、チケット取りに行くぞ!』
思い浮かぶ、口うるさいウサギの顔。
その点に関しては、同意だったかもしれない。
小弥太の生活が、次第に周囲の連中と同じくすすけて、汚れた服の臭いも気にならなくなったころ。
いつもの塔前の寝床に、知り合いの一人の姿が無かった。
『南の森で、『水』に食い殺されたってさ。一緒に木卵取りに行ってたやつが言ってた』
それは無感動な、諦めの言葉。
女の子の、ネズミの模造人。いつも『別天』に行けばなんとかなる、が口癖だったが、なぜか行こうとはしなかった。
その頃から、小弥太は地面ばかり見るようになっていた。
昼も夜も、顔を下げて。
誰かがうっかり落とした結晶や、食べ残した食い物の欠片を、探すために。
だが、嫌でも顔を上げる瞬間があった。
『違うんだ! 俺、ちゃんとチケット集めて……! 盗られたんだよ! ちゃんと更新する気はあったんだ! なんで、なんで盗んだ奴じゃなくて、俺が!』
そいつは、最終更新日までに、プラチナチケットを用意できなかった。
引率屋に支払うはずのログボを、数日前に強奪されていた。プラチケは強奪品を使えないが、ログボであれば問題はないということを、悪い奴らは良く知っていた。
小弥太は初めて、壁外の追放者を見た。
専用の護送車に乗せられて、連れていかれる姿から、誰もが目を逸らした。
『たすけ、られないの』
『それをすれば、そいつも同罪になる。他人を殺すな、プラチナチケットを期日までに、本人が納品しろ。それが、この街で守るべき絶対のルールだ』
こちらの問いかけに、クロテンの模造人は、苦々し気に告げた。
この街の、いろんなことに不平を言っていた灰色のネコの模造人は、最後まで不平を言い続けた。
その日から、小弥太はもうまともに眠れなくなった。
悲痛な声が耳から離れない。
明日は、自分かもしれない。
幸か不幸か、死の指は、センザンコウの模造人、以外を指名した。
『……ごほっ……げふ、げっ……ちくしょ、なんだよ……模造人は、びょうきにならないんじゃ、なか……げふっ』
自分たちは確かに頑丈だ。だが、それにも限界はある。
それぞれのギルドの援助で食いつないでも、栄養状況は最低限で、安眠を許されない路上の生活では、病気に対する抵抗力も失われていく。
痩せ衰えたクロテンの模造人は、三根医院に助けを求めたが、結局、助からなかった。
「……なんだよ、これ」
たった二週間余りで、宿無したちの姿は激減した。
この街に、そういうニンゲンがいるのは知っていた。だが、彼ら彼女らが『どこにいくのか』は、知らなかった。
そして古郷小弥太は、それを知ってしまった。
今や、自分の身に回りには、死が充満していた。
なにをしても、どう動いても、自分の終わりがそこにある。
バケモノに喰われて死ぬ。
壁外に追放されて死ぬ。
病気かあるいは暴力で死ぬ。
いやだ、しにたくない、たすけて。
『テメエのケツはテメエで拭け。でなければ、死ね』
ムーランには頼れない。
どこかに雇ってもらうことも出来ない。
だれか、だれか助けて。
「すまないが、少年。そこをどいてもらえないだろうか」
ぼんやりと明るくなっていく、朝の匂いの中。
イタチの模造人が、こちらを見下ろしていた。
「店の開店準備に入りたいんだ。わたしも忙しい身でね」
そう言えば、昨日はぱちもん通りの裏路地に逃げ込んで、夜を明かしていたんだった。
守衛に見つかれば追い出されるが、昨日は何とかやり過ごして。
ゲームセンター『人参畑』の裏口の前で、寝ていたのだった。
「……だいぶひどい姿になったね。救いの手は、間に合わなかったか」
「お、おねえ、さん」
見上げた彼女の顔には、なんとも言えない表情が浮かんでいた。
葛藤、という言葉そのものだった。
「古来より、おねえさんというものは、少年に対する導きの聖霊となるよう、定められているという」
「……え?」
「向こうではできなかった役割だ。一度ぐらいは果たしてみるのも、悪くないだろう」
彼女は古ぼけた鍵でドアを開け、店内に招き入れてくれた。
「とはいえ、そのままでは店内が汚れる。奥のシャワールームで、体を洗ってきたまえ。服は……わたしの予備の白衣をあげよう」
そこは狭い空間だったが、全身にこびりついた垢を落とすのには、十分だった。
流れ落ちていく汚くて臭い液体を眺めて、小弥太は初めて、自分がとんでもなく不潔な存在になっていたということに、気が付かされた。
結局、おねえさんに手伝ってもらいつつ、どうにか見られるように姿を整えると、貰った白衣に身を包む。
それから、冷えたビンが差し出された。
「い、いいの?」
「この一本だけは、無料だよ」
震える指でビー玉を押し込み、炭酸が弾ける音と共に、立ち昇ってくる甘く、刺激的な匂いを嗅ぐ。
それから喉に流し込み、
「っげっ! げふっ、げほっ、っぐ!」
「さすがに炭酸の一気飲みはお勧めしないな。それとも、お約束通り炭酸を抜いたものを出したほうがよかったかな」
ひどくむせたが、それでも久しぶりの甘い味は、舌に染みた。目のふちが白くなって、ほっぺたがきゅっと酸っぱくなるような刺激。全身が強烈に、お代わりを要求する。
あっという間に中身を飲み干すと、小さくげっぷをはいていた。
「さて、少年。大まかな理由は、小倉君から聞いている。君の犯した罪もね」
「…………」
「わたしはね、少年。君のような子を何人も見てきた。ここではなくて、地球でだがね」
イタチのおねえさんは、ため息をついた。
「子供というものは、欲望に忠実だ。そして、ゲームセンターは、みんなの射幸心をあおるようにできている。不思議なもので、家庭用ゲーム機やパソコンで遊べるようになっても、その魅力は健在でね」
その目が、店の隅に置いてある大ぶりなガラス張りの箱に向けられた。
クレーンのアームで景品を取る、アミューズメントマシン。
「親の財布からお金を取ってきたり、酷い時は、詐欺や薬の受け子をやって、遊ぶお金に当てたりもする子もいた。そしてみんな、酷く傷ついて、二度と店に来なくなった」
「……俺と、おなじ」
「わたしはね、少年。ゲームセンターが好きだ。そこで遊ぶのが好きだったし、店員として働くのも好きだった。それが、ヒトを狂わせる姿を見るのは、とても嫌だった。彼らを何とかしたいと思い、それでも他人だからと、手をこまねいていた」
それから、イタチはもう一度、葛藤した。
独り言をつぶやき、こちらを見ながら、考えをまとめていた。
「正直に言おう。この世界で、こんな姿になっても、わたしにできることは、ほんのわずかだ」
「たすけて……くれないの」
「正確には『君の親御さん代わりにはなれない』だよ。君のために部屋を整え、毎日三食を食べさせるようなことは、しない」
できない、のではなく、しない。
「なら、なにを、してくれるの」
「そうだね。君に起こったステータス異常についての解説と、バッドエンドルートに入った理由なら、教えてあげられるよ」
唐突に、ゲームのような物言いをした彼女に、目が吸い寄せられる。
こちらの態度に頷いたおねえさんは、恐ろしい秘密を告げた。
「少年。君は今、深刻なステータス異常を引き起こしている。それを解消しない限り、君は遠くない未来に、終わりを迎える」
「で、でも、俺、たぶんまだ、病気もなってないし、飯も、なんとかできるし」
「『信用崩壊』。それが君に掛った、バッドステータスだ」
彼女は席を立ち、自分のバッグから小さな包みを取り出して差し出してくる。
それが、カロリーバーであると気付くと、小弥太はあっという間に、それを食べきってしまった。
「なるほど。貧すれば鈍ずる、だね」
「え?」
「今は分からなくていいよ。さて、君のバッドステータスだが、それが起こった理由は簡単だ。『信用度』という隠しパラメーターが、ゼロ以下になった結果だよ」
おねえさんは、店に置いてあったコミュニケーションノート、と呼ばれるノートの一部を破いて、そこに書き込みを入れていく。
「『信用度』というのは、マジックポイントや技ポイントのように、使うと減っていく。しかも、自分がどの程度の信用度を持っているかは、確認することもできない」
「お、おれ、そんなの使った覚え、ないんだけど」
「『信用度』は、他人との関りで自動的に消費されるんだ。その行動によって大きく減少したり、逆に増えることもある」
小弥太の姿らしい絵が描かれ、そこに信用度というステータスが振られた。
「例えば、お願いされた仕事をこなす、誰かを手助けする、ヒトにやさしくする、そういう行動で信用度は増える。逆に、嘘をついたり、裏切ったり、ヒトを攻撃することで、信用度は下がっていく」
「俺はっ、そんなつもり、なくて」
「残念だが、それは通じないよ。この世界はフレンドリーファイアありのFPSのようなものでね。君の意志に関係なく『行動で発生した結果』の方が問題なんだ」
つまり、自分がこんな状況に陥っているのは、全部自分のせい。
「君は小倉君の情報を、敵対する人物に流した。言っておくが、それが磨平以外でも同じことだ。他人の個人情報を、勝手に売り買いしてはいけないというのは、地球でも同じだったろう?」
「う……うん」
「小倉君は君の情報によって、磨平に手を砕かれ、危うくダンジョンの仕事もできなくなるところだった。そして君は、彼だけでなく、ギルドのメンバーや、乙女さんさえも、ひどい目に合わせたんだ」
おねえさんの手が、小弥太の信用度に『-100』という数字と、『信用崩壊』というバッドステータスを書き加えた。
「さて、ここからは君が突入している『バッドエンドルート』についてだ」
「バ、バッドエンド!? って、なんで、俺!?」
「実はね、君はもう、いくつかのフラグを立ててしまっているんだよ。最悪の結末に至るイベントフラグを」
おねえさんの手が、ノートの上に書きつくっていく。
小弥太の辿った、愚かな選択を。
「信用崩壊というステータスは、そう簡単に付くものじゃないんだ。大抵の人間には、いい所も悪い所もあるからね。大目に見てもらえることも多い」
「そ、それじゃ、なんで」
「まず君は、普段から約束を破っていた。ギルドへの預入金を忘れ、頼まれた仕事もまともにこなさなかった」
一つ目のフラグ『普段の行いの悪さ』、オン。
「大きなイベントである『食事会』。こういうイベントでは、パラメーターが変動しやすい。普段なら許されるやらかしでも、影響が強く出る。君は重要な仕事をサボり、自身の信用度を損なった」
二つ目のフラグ『重要な仕事での失態』、オン。
「さらに君は、軽い気持ちで気に喰わない人物の情報を他人に流し、ヒトを傷つけた。その上、そこで得た利益を、自分の快楽のためだけに使った」
三つ目『うかつなチクリ屋』、四つ目『目先の利己主義者』、フラグが立て続けにオンになる。
「このフラグのどれか一つ、もっと言えば、一つ目のフラグさえ立てていなければ、君はひどい罰を受けても、ギルドに残れたかもしれない。もしくは、最後の二つの内、どちらか一つでもやっていなければ、まだましだったかもね」
そして五つ目のフラグ、『わが身かわいさに他人を売った者』、オン。
「かくして、君の運命はここに決定された。普段の行い、土壇場での振る舞い、あらゆる行動が、君の信用を崩壊させたわけだ」
「あ……ああ……」
どれ一つ、反論できない。
全部自分が行ったことだと、ここまではっきりと、書かれてしまった。いつもなら、叫んで逃げ出していたはずだ。
でも、今はもう、どこにも逃げる場所がない。
「お、おねえさん、おねえさん!」
「な……なんだい少年、いきなり」
「俺、俺、やりなおしたい! やり直せるんだ!」
「いや……だからね、人生というのは、セーブもロードも無くて」
「あるんだ!」
小弥太はゲーセンのフロアを睨んだ。
そこに、青く輝くサークルが、唐突に現れた。
「お、俺、俺、貰ったんだ! あいつに、セーブできる能力! セーブポイントを作れる『ギフテッド』を!」
昔、やっていたゲームにあったのとそっくりの、輪の中に入る。
きらり、と全身が発光して、何かの行為が行われたことが、感じられた。
「……ちゃんと、セーブできてるはずなんだ。だから」
だが、おねえさんは悲しそうに、首を振った。
「ロードの方法は?」
「……っ!?」
「ないんだろう。君のセーブファイルに、アクセスする方法が」
小弥太は、顔を歪めた。
枯れていたはずの涙が、あふれ出していた。
「み、みえるんだ。見えてるんだよ! でも、ロードできない! どうやっても、ずっとずっと、試してるのに! なんで!」
「『セーブする能力』を願ったんだろう? ちゃんと叶ってるじゃないか」
「な……なんなんだよ、それっ! セーブだけって、バカみたいじゃないか!」
ここに来るとき、確かに自分は願った。
セーブできる能力が欲しい、やり直しできるようにと。
でも、ロードを願わなかったから、ファイルにアクセスできないなんて、思ってもみなかった。
「ちなみに、その能力が発動しても、今と変わらないと思うよ」
「なんで!?」
「似たような能力を持っているヒトを、知っていたんだ。そのヒトは確かに『やり直し』ができると言っていた。おそらく本当に『やり直し』てるんだろう。わたしには、分からなかったけど」
セーブしたファイルで状況再現する、その時と同じ状態を。
つまりそれは、記憶も行動も、その時点に戻ってしまうという事。
「君が過去の『ファイル』に戻れても、ここでの会話も情報も、持ち出すことはできないんだよ。君はゲームの『プレイヤー』じゃない、ゲームの『キャラクター』なんだから」
「そんな! じゃあ、何のために、こんな能力があるんだよ!」
「あの超越者が、私たちが慌てふためく姿を見て、笑うため、かな」
それは完璧な、終わりの証明に思えた。
セーブしても過去には戻れず、戻ったとしても同じルートをたどるだけ。
その先に待っているのは、死よりもひどい生だ。
「……おねえさん、俺の……バッドステータス、どうやったら消えますか」
「『信用崩壊』は、そう簡単には起こらない状態異常と言ったはずだ。ゲームにおいて、それがどういう意味か、わかるよね?」
「な……なんだよそれ! 俺、聞いてないよ! そんなことがあるなんて、最初から言ってよ!」
おねえさんは深々と、ため息をついた。
「いいや、おそらく乙女さんは、ずっと言い続けていたはずだ。直接的ではないにしろ」
「し、しらない。そんなの、俺は」
「仕事をちゃんとしましょう、頼まれたことは最後までやってね、嘘はつかないように、遊ぶのは全部終わった後で、次からはちゃんとしてね。このどれかは、確実に聞いていたんじゃないかい?」
覚えは、あった。
でも、そんなことが、大事だなんて、思えなかった。
「君はね、少年。大事な『チュートリアル』を、すっ飛ばしてしまったんだよ。ムーラン・ド・ラ・ギャレットという『チュートリアルステージ』を、軽く見ていたんだ」
「い、いやだ……そんな、だって!」
「あのギルドがある時点で、あのギルドに関われた時点で、異世界転生した君の人生は、恵まれていたはずなんだ」
それは本当のことだった。
道端で出会った連中は、瞬く間に姿を消していた。自分は、こっちに来てすぐに、誰かに誘われてあのギルドに入った、はずだ。
乙女さんがあまりにも優しくて、居心地が良くて、日々を適当に過ごして、自分が死んだ時のことも、忘れて。
「みんな、死んじゃったんだと、思う」
「……それは、誰さんのことだい?」
「クラスのみんな。移動中のバスが、事故起して、崖から落ちて」
親しい友人はいて、クラスだって特には問題なくて。でも、こっちに来たのは、自分一人だけだった。
「帰れないって分かった時は、辛かったけど、乙女さんが、大丈夫って、ずっとここにいてもいいって、みんな仲間だからって、言ってて」
「そして君は、その言葉の意味を取り違えてしまったんだね。ここでいう仲間って、クラスの友達って意味じゃ、ないんだよ」
「そんなの……」
知らないと言えば、許されると思っていた。
でも、それは、許されなかった。
「ここにいる模造人は、基本的に『大人』なんだ。大人として見なされて、仕事をしたり、責任を持つことを期待される。拒否もズルもできない、それをすればどうなるか、もう分かったよね?」
「こんなの、どんなアニメにもなかった」
「そうだね。わたしもびっくりした。ここまで塩対応の異世界転生物は、そうそうないと思うよ」
おねえさんは立ち上がり、それから壁際にある大きなレバーを入れた。
途端に、何かが蠢く振動が起こって、薄暗かったゲーセンのあちこちで、モニターが輝き、目を覚ましていく。
どこかの筐体から特徴のある曲が流れ、小さな爆発音や合成音声が、産声を上げた。
「さて、君に割いてあげられる時間も、ここまでだ」
「え?」
「言ったろう。わたしはあくまで『君の現在の状況』を、教えてあげるだけだって」
「で、でも、俺、俺の信用は、どうしたら!?」
おねえさんは、にこりともせずに、裏口を指さした。
「信用度は、失われやすく、取り戻しにくい。取り戻したかったら、仕事を真面目にするとか、集団に奉仕するほかはないよ。何年も掛けてね」
「そ……そんなの、どう、すれば」
「まずは、Pの館の掲示板に行くことをお勧めする。そこで、館からのクエストを探して受けたまえ。あれは信用度に一切関わりのない、最後の救済措置だ」
彼女の背中に、見慣れたドローンが浮かび上がる。
それは彼女のマスコットであり、このゲーセンを守る警備ロボットでもあった。
つまり、これ以上は、侵入者として排除する用意があるという意思表示。
「おねえさんのゲーセンで、君の助けになれるイベントは、ここまでだ。以後はちゃんとチケットを払って、お客さんになってもらう以外、対応する気はないよ」
「な……なんで!」
「言ったろう。この街の関係は『大人同士』しかないって。わたしも、日々働かなければ生きていけない弱者なんだ。無償の善意を、君に払えるほど強くはない」
その言葉で、一層、ムーランでの生活が思い出された。
最後の最後で、そこからも切り捨てられてしまった、自分の愚かさを。
「おそらくここが、君にとっての『落下阻止限界点』だろう。這い上がるか、惨めに土に還るか。選ぶのは君だよ」
「おねえさん……」
「いきたまえ、少年」
照り返すゲーセンの輝きに包まれて、店の主であるおねえさんは、厳かに告げた。
「本当の意味での、君の人生の始まりだ」
Pの館前には、巨大な掲示板エリアがある。
そこには各ギルドや個人、あるいはPの館から出されるクエストが貼りだされる。
今まで、そんなものを気にしたことはなかった。ムーランで頼まれた仕事を適当にこなすか、どこかの店で番をするとか、その程度の話だったから。
「うわ……こんなにヒトが」
Pの館のクエストは、たくさんの連中が群がっていた。内容は様々だが、軽作業や納品が中心で、場合によっては館内の清掃作業なども入っていた。
「はい、こちらの作業はすべて募集終了です!」
「館内作業全滅。資材の搬入も無し、保存食の製造もダメかぁ」
「朝一じゃないと無理だって。飲み過ぎなんだよ、お前」
自分の手前にいたトカゲと何かの鳥の模造人が、苦笑いしつつ、ぼやいている。
考えてみれば、Pの館で売っている品物は当然、よそから持ってくるもののはずで、その製造や運搬も業務に入っている。
模造人の生活を支援する、というPの館の宣言は嘘でポーズでもなかったのだ。
死なない程度の食事と、生活を維持できるだけの収入の先が、整えられていた。
「下水道掃除があんじゃん。オレそっちに回ろっと」
「あんなくっせえのよくやれんな。毛皮が臭って、三日はとれねえぞ?」
「その代わり、一日でログボ二枚だろ。狙わない手はないって」
「同じ臭いんでも、浄水場の果樹園の方がいいんだけどなあ、すぐに埋まっちまうし」
そんな会話をする二人組は、募集の張り紙の下に入っている小さな募集用紙を手にしてPの館へと入っていく。
今まで自分で仕事を探すなんて頭はなかったから、そういう行為の一つ一つが、かえって珍しかった。
「深夜の見回り、塔の検問所の夜勤、結晶採掘……か」
残っている仕事は非常に安いか、作業時間が昼夜逆転、そして肉体労働のみだ。
結晶採掘の方は色々嫌な話を聞いていたが、それでも『軽作業』の項目があることに気が付いた。
作業は出来高、うまくすれば一日に一枚以上、ログボを稼げる。
小弥太は、結晶掘りの作業の軽作業に応募するため、小さな応募用紙を手に取り、仕事の受付窓口へと向かった。
北の結晶鉱山は、晶獄崩落が長年にわたって降り積もってできた残骸だ。
真正面から見れば正気を失うと言われ、この街における必須の燃料であるにもかかわらず、すべてを採掘しきろうとするニンゲンは、一人もいなかった。
「軽作業のヒト? じゃあ、こっちに名前書いて。ペアになる採掘者のヒトと引き合わせるからね」
「は、はい」
結晶掘りは、大きめの結晶を砕いて解体する係と、手ごろな大きさになった結晶をさらに砕いて、手の平サイズ(といっても、小型の模造人基準)の大きさに砕いて収集する係に分かれていた。
そして、小弥太が組むことになった相手は、
「君が今日のパートナーか、よろしく頼むよ」
天を突くような、巨大な体のオーガだった。
身に着けた服も粗末で、いかにも肉体労働に適した姿だったが、その顔には見覚えがあった。
「佐川……彩羅」
「ああ。その通りだ。どうする、俺とは組めないか? それなら今から、別のヒトに変わってもいいが」
彼はそう言ったが、すでに作業者と収集者は仕事に入ってしまっている。おそらく、自分は貧乏くじを引いた側なのだろう。
ローンレンジャーが解体され、このヒトも、落ちぶれてしまったのだ。
「だいじょうぶ、です」
「よし。じゃあ俺たちも仕事だ。こっちも気を付けるが、破片には注意してくれ」
専用の機械で切り出され、採石場と呼ばれる場所に置かれた巨大な結晶に、佐川は手にしたつるはしを叩きつけた。
さすがに筋力と頑丈さに定評があるオーガは、本人の背丈の倍以上もある結晶を砕きながら、こちらに小ぶりの石を手渡してくれる。
こっちは、それに対して、結晶の色や形に適した方向から、ノミを入れて細かく割っていく。
「古郷君、その石は少し大きいな、俺が割った後の砕いてくれ」
「は、はい」
言葉は少なかったが、彼はときどき、そうやって必要な手を貸してくれる。
「その石は色が濃いな。別分けにして提出しよう。うっかり壊すと『暴発』する」
「あ、は、はいっ!」
「単一の色が濃い場合は特に気を付けてくれ。衝撃を与えた時に様々な性質を発揮して、急激に爆発するんだ。炎や雷、氷なんかをね」
今まで結晶掘りなどやったこともなかったが、こうしてみると新しい発見がある。
やがて昼飯時になり、二人は指定された休憩所に落ち着くことになった。
「少しペースが速かったか?」
「だ、大丈夫……です」
「食事休憩が終わったら、後は袋詰めにして三時には上がろう」
「あ、あの……」
まずい携帯食を食べながら、問いかける。
「どうして、ここに?」
「資金稼ぎと社会奉仕、といった感じだな」
「社会奉仕?」
「『ローンレンジャー』は、俺のギルドだった。その構成員がひどい事件を起こして、迷惑をかけた。その罪滅ぼしには足りないが、ここで結晶を掘ることにしたんだ」
結晶山は、そのまま放置すると街中に良くない影響を及ぼすと言われている。小弥太は見たことなかったが、透明な怪物や、精神に異常をきたした浮浪者を生み出すらしい。
とはいえ、結晶は固く重く、壊す時に暴発も起こるから、やりたがるニンゲンはあまりいないと聞いていた。
「信用度を、回復させるためですか?」
「信用度、って?」
おねえさんに聞いた話を伝えると、オーガは笑って頷き、遠くを見る目をした。
「そういう考えもあるか。とはいえ、ニンゲンの心は、数字で割り切れるようなものでもないからね。本当に信頼してほしいヒトから、軽蔑されてしまえば、たとえ他人の信頼が百あっても、辛いものだよ」
「……うん」
「すまない。言いたくないなら、言わなくてもいいんだが、君は、尾上さんのところにいなかったか?」
小弥太は少しためらい、頷いた。
「もしかして、磨平のせいか?」
「……俺が、悪かったんだと、思います」
「そうか。じゃあ、作業に戻ろうか」
それから言葉も交わさず、大きな袋いっぱいに結晶を詰め込むと、Pの館へと向かう。
同じように成果を抱えた連中と一緒に、受付の窓口に入ると、交換にチケットの束が払い出されてきた。
「今日はかなり調子が良かったな。そら、君の取り分だ」
数えてみると、ログボが十枚ほどもある。自分たちが持ち帰った結晶はかなりの量だったが、彼はきっちり、成果を等分していた。
「どうした?」
「いい、んですか」
「同情とか気遣いじゃない。君が一人の大人として、俺の仕事を手伝ってくれたからだ」
めまいのするような、幸運だった。
全く何も期待していなかったのに、こんなとんでもない成果が。
「あ……っ!」
その時、部屋の隅から嫌な視線を感じた。館のあちこちから感じる、窃盗団の『目』。
自分はもう何度も、連中に巻き上げられているから、折角のこれも。
「い、いいです! 俺、やっぱりいらない!」
「遠慮することはないんだぞ?」
「だ、だめ。持ってても、どうせ、取られちゃう」
小弥太の告白を聞いて、目の前のオーガは眉間にしわを寄せ、荒々しく息を吐いた。
そして、こちらの体を抱き寄せる。
「俺と、一緒に来るといい」
「ど、どこに?」
「俺の家だ」
彼の『家』は、驚くことにムーランの裏手にある、雑居ビルの一つだった。
ギルドメンバーに顔を見せたくないという小弥太の言葉を受け入れて、佐川はわざわざ裏通りから、ビルに入っていた。
「おかえりなさ、こ、古郷!?」
「え、氷橋、おまえ、なんで?」
「ああ。君たち、知り合いだったか」
互いに不審な目を向け合う二人の間に、佐川の大きな手が割って入る。
「古郷君は行く場所がないそうでな。質の悪いごろつきに目を付けられている。住む場所が決まるまで、ここに住んでもらうことになりそうだが、構わないか?」
「……別に。ここは、佐川さんの家だし」
「たぶん、夕飯も足りなくなりそうだから、外で買ってきた。みんなで食おう」
その日の晩は、外から買ってきた総菜と、氷橋が作ったらしいスープが夕飯だった。
「いただきます」
大きな体に似合わず、大変に行儀のいい仕草。
つられて小弥太も、氷橋も手を合わせる。
こんなことをして食べるのは、いつぶりだろうか。ムーランはもちろん、日本に住んでいた時も、やっていなかった気がした。
「……おいしい」
「あんたに作ったんじゃないから。大体なんで、あんたが外にいるのよ」
「うるさいな。お前だって、サキュバスのねーちゃんのとこに行ったんじゃないのか」
「うっさい! そんなことどうでもいいでしょ!」
「二人とも、食事は楽しくだ。ケンカは、止めなさい」
穏やかだが重みのある声。さすがの氷橋も、オーガの威圧感には黙るしかないらしい。
「それにしても、氷橋君は料理がうまいな。上にいた頃は、炊事がヘタクソな連中ばかりでな。店売りの総菜か、ごった煮の鍋ばかりだった。こういうのは、本当にありがたい」
「……ムーランの厨房で、やってただけで。すごくはない、と思います」
「俺、食ったことねーんだけど」
「あんたは文城の弁当か、『藤巻商店』の半額ランチボックスばっかだったでしょ。うちの店は高いからって」
いちいち氷橋が当たってくるのはいつものことだが、さっきからの言葉は、以前に増して棘がある気がする。
とはいえ、本当に料理はうまくて、暖かい。
スープをすすり、野菜と肉の煮ものを食べて、暖めたパンをかじって。
こんな当たり前のものを、また食べられるなんて。
「う……ぐ、ぐすっ、く……ぅっ」
「ち、ちょっと! なんで泣くのよ! あ、あたし、そんなに強く言ったつもり、ないんだけど……」
「お茶の準備をしよう。氷橋君、手伝ってくれ」
涙をこらえつつ、必死に目の前の料理を平らげ、それでも泣くのが止まらない。
ただ、誰にも邪魔されずに、安心して食べられるということが、こんなにも胸に迫ることとは、思っても見なくて。
それから、お茶を用意して戻った二人の前で、これまでのことを話して聞かせていた。
「……ほんと、バカじゃないの、あんた」
「氷橋君。そういうことは、言ってはいけないよ。ヒトはみんな、どうやっても愚かなんだ。少なくとも、俺も君のいう『バカ』の一人だしな」
「あ、あの、その……ごめん、なさい」
小弥太は涙をぬぐい、そっと息をつく。
とはいえ、こうしてヒトに話してしまうと、これまでずっと曇っていた頭の中が、霧が晴れたようにはっきりしてくる。
「ともかく、しばらくはうちに居るといい。仕事の当てがないなら、俺を手伝ってくれ。『新皇』の連中や甲山さんの若いのが来るまでは、あそこで仕事をするつもりだ」
「は、はい!」
「その後は、どうするつもり?」
氷橋から『さっさと出て行け』という気配がするが、そこまでは構っていられない。
それに、ここでならという、予感があった。
「佐川、さんの、手伝いを続けるんじゃ、ダメかな?」
「……俺はいずれ、ダンジョンに戻るつもりだ。それまでに、君もなにか」
「お、俺も、ダンジョン、入れるかな」
その問いかけに、佐川はすぐには答えなかった。
目を閉じて、それから答えた。
「しばらく俺とトレーニングをしてみよう。それと、一階の結晶ゴーレム、あれを相手に訓練する」
「う、うん。わかった」
「適性があるかは、試してみないと分からないからな。ただし」
それまで穏やかだった佐川の顔が、焼けた鉄のような熱を込めて、引き締まった。
「やるかるからには容赦はしない。厳しく指導するので、そのつもりでな」
「う、あ、はい!」
「よし。じゃあ、今日はもう寝よう」
そのまま氷橋は自分の部屋に入り、佐川は自分の部屋をこちらに譲ると言い出した。
「えっと、いいん、ですか」
「今は客間もないし、君も普通の寝床で寝たいだろう? 俺は慣れているから、適当に敷布一枚でもあれば……」
そこで佐川は何かに気づいたように笑い、こちらと顔を合わせた。
「どうして君は、いいかと聞いたんだ?」
「それは、佐川さんの、ベッドだから、俺のじゃなくて」
「……続けて」
「おねえさんが、大人の付き合いは、されるだけじゃなくて、責任とか、思いやりだって……もし、ここで寝たら、今までと、同じになる、気がして」
大きなごつい顔が、頷いた。
「それなら、今日は俺の毛布を使うといい。その代わり、寝床は居間のソファだ」
「う、うん」
「明日は君専用の部屋を作ろう。そうしたら、気兼ねなく寝られるさ」
それから、太くてたくましい手が、小弥太の肩を軽く叩いた。
「さっきの気遣い、それが礼儀の一歩だ。覚えておくといい」
「……はい」
そのまま、大きな毛布にくるまって、ソファの上で横になった。
何が何だかわからないまま、それでも自分はここにいる。
自分のものではない、今まで知ることもなかった『大人のヒト』の毛布にくるまって。
「へんなの」
呟いて、古郷は目をつぶる。
そして夢も見ずに、眠った。
最初のコメントを投稿しよう!