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「この桜、明日切られちゃうんだって」
「えっ、そうなんですか?」
突然声をかけられたこともそうだが、せっかく見つけた癒しの場が消えてしまうことにいっそう驚いた。
高校からの帰り道、河原に一本だけ咲き誇る桜をしばらく眺めるのがここ最近の日課だった。駅とは反対方向で建物もほとんどないここは人気もなく静かだ。微かな風で大量の花びらを落としてゆく桜を見るのにも、つまらない日常から解放されるのにもぴったりの場所。
「君、その制服桜岡高校?」
「そうですけど」
「もしかして去年、バレーの大会出てなかった?」
「……ええ、まあ」
「わたし、テレビで見てたよ。すごくカッコよかった。同い年の人がこーんなに高く飛んでるんだもん」
その人は腕をピンと伸ばして楽しそうな声で笑いかける。
俺は何も言わずに桜の花びらを追った。用済みの彼らは上を見上げる人々にただただ踏み潰されていくだけ。
急に膝が痛み出す。せっかく無でいられていたのにこの人のせいで。
「今日は部活お休み?」
「……やってると思うけど」
「何か用事でもあるの?」
察しの悪い奴。こんなふうに河原で桜を眺めてる暇があるなら少しでも練習しているだろう、今までの俺なら。俺が黙り込むとようやく彼女は察知したのか「なるほどなるほど」とうなずく。
「わたしに会いに来てくれたんだね」
「はぁ?」
思わず声を上げてしまった。この人は何を考えてるんだ。彼女がここにくることなんて知ってるはずがない。
「違うの?」
「違うに決まってるだろ」
「じゃあ、ただ一人で桜を眺めに来たの?」
「……ま、そういうことになんのかな」
「へえ」
「悪いかよ」
「ううん。とっても素敵だなって思って」
「あ、そう」
やっと静かになってくれた。これでやっと落ち着ける。そう思っていたのにどうしても心がスッキリしない。
今日はもう帰ろう。ここにいたってムシャクシャするだけだ。
膝に負担をかけないようゆっくりと立ち上がる俺を彼女が目で追っているのがわかる。さすがに気づかれたか。せっかくカッコいいなんて言ってくれたのにな。きっと幻滅されて見放される。でも、そんなのはもう慣れた。
彼女が見たと言っていたバレーの大会。あれが俺の全盛期だったのだと思う。あの試合の途中に感じた微妙な違和感。悪いのはそれに目を背けてきた自分でしかないが、案の定その痛みは突如として耐えきれないものになった。
俺が立ち去ろうとすると彼女はパッと俺の手を取った。
「なに?」
「バレー……」
気まずそうに口をつぐむ彼女に腹立たしさを感じてしまう。
もうやめた。そう言いたいのに言葉にするのが怖かった。
今は多少マシになったが歩くのもやっとな期間が続いた。今でもジャンプはもちろん、まともにボールを受けることすらできない。俺が休んでいる間にもチームメイトもライバルもコツコツと練習を積み重ねている。そう思うと焦りと不安でおかしくなりそうだった。
「バレー、嫌いになっちゃったの?」
「……好きだろうが嫌いだろうが、どうせできないし」
そう言って目を伏せる。と、
「でもバレーは好きなんでしょ?」
彼女の悲しげな瞳が俺を捉えて離さない。
「……どうだったかな。思い出せない」
「それなら、わたしとバレーやろう」
突然の誘いすぎて咄嗟に言葉が出てこなかった。
「ねえ、いいでしょ、飛野世くん?」
と頭を下げられてどうにも断りづらくなる。
「……俺の名前知ってるんだ」
話を逸らすと彼女は「もちろんだよ」と眩しい笑顔を浮かべる。
「わたし、飛野世くんのファンなんだから」
「俺の?」
「さっきも言ったでしょ。テレビで見たって。わたし、飛野世くんにすっごく勇気をもらったんだから」
「……でも俺、あの時みたいに飛べないよ」
「飛べなくたって飛野世くんだもん。わたしは飛野世くんとバレーがしたい」
「……じゃ、明日な。ボール持ってくるから」
「大丈夫」
彼女が後ろを振り返り再び前に向き直ると、その手にはバレーボールが握られていた。
「まさか俺のこと待ち構えていたのか?」
「そうだよ。ここで桜見るの、日課にしてるでしょ?」
「ストーカーか何か?」
「失礼な。わたしがここの先客なんだから。きっと桜がわたしの願いを叶えてくれたのね」
「急にロマンチックなこと言い出すなよ。桜は笹じゃねえんだし」
「七夕は信じるんだ。かわいい」
彼女は口に手をやり小さく微笑む。
「うるせえ。そういうことじゃねえよ」
なんだか照れ臭くなって目を逸らす。
「ていうか俺、君のこと見かけたことないけど」
「わたしの方からは見えてたのに」
彼女は不思議そうにしていたが、
「まあ、会えたんだからなんでもいっか」
とにこりと笑った。
彼女はずっとふわふわと幸せそうにしている。俺に教わるのがそんなに嬉しいのか、なんて、そんなわけないよな。きっとこういう奴なんだ。いつでも誰にでも明るくてみんなを惹きつける。だけど。なぜだか彼女を桜と重ねてしまう。桜を見ている時に出会ったからだろうか。それならそれでいい。ただ、彼女もいつの間にか桜みたいに消えてしまうのではないかという不安が胸のどこかで渦巻いている。
「んじゃ、二人だしまずはパスでもするか」
彼女は「おお〜」と楽しげに反応してくれる。
「君はバレー経験者?」
「違うよ」
「じゃあアンダーハンドパス、やったことある?」
彼女はフルフルと首を横に動かす。
「それならやり方ね。まずはこうやって手を合わせて……」
彼女は「こう?」と俺に手の形を見せる。
「そうそう、それから肘はまっすぐ伸ばして、少し手首を下向きに」
その姿勢を作った彼女は、
「なんだかわたしもバレーの選手になったみたい」
とはしゃいだ。
バレーを始めたばかりの頃を思い出し、胸がギュッとなる。あのときは心から楽しんでいた。最近の俺はどうだっただろう。
「そのままの手の形で片足を前に出して軽く膝を曲げて……」
彼女は構えの姿勢を作ると、
「よしっ、こーい」
と声を上げる。
「ほんとにバレー、見てくれてたんだ」
思わず笑みが溢れる。彼女は「ファンだもん」とニッと笑った。
軽くボールを投げようとしてふと気づく。
「あのさ、名前は?」
「わたしの?」
「そう、パスするとき、『君』じゃあんまりだし」
「ユメ。これがわたしの名前」
「じゃあ、ユメ」
そう名前を呼んでふわりとボールを投げる。ユメは慌てたようにボールを目で追いながらトンと受けた。大きく横へと逸れたそのボールを返そうと思わず走り出しそうになり止まった。
川に入ってしまわぬようユメが慌ててボールを拾いに行く。
「……悪い。やっぱり俺、バレーできないや」
「どうして?」
「膝を壊してる。毎日ケアしたし治療もいろいろ試したけど、治る見込みはない。走るだけでもすげえ痛くて、今もユメのボールを取りにいけなかった。ユメがどうしてもバレーがしたいっていうなら、明日他のバレー部の奴に頼んでみるよ。あんまり時間は取れないかもしれないけどきっと付き合って──」
「飛野世くんがいいの」
「だから俺は、」
「わたしがちゃんと飛野世くんのところにボール飛ばす。そうすれば、返してくれるよね?」
「……それは、もちろん」
「じゃあ、もっと練習しなきゃね。飛ばしちゃったボールはわたしが拾えば問題ないでしょ?」
「……そんなにバレーがしたいのか?」
「そうだよ。飛野世くんとね」
ユメは俺に幻滅しないのだろうか。たしかに大会に出ていたころの俺は全国でもそこそこ通用するバレー選手だったのかもしれない。でもそれは怪我をすれば一瞬で忘れ去られる程度のこと。俺の代わりなんていくらでもいる。俺を覚えている人がいたことですら奇跡なのに、飛ぶどころか動くのにも神経を使うような今の俺を見て、どうしてユメは今もなお俺を貶したりしないのだろう。
「……ありがと。じゃあ、パス出すね」
彼女はきっと最初で最後の俺のファン。それなら楽しんでもらいたい。最後に彼女とボールを打ち合い、バレー漬けだった日々を閉じる。それもいいかもしれないと思った。
「ユメ、ボールはここら辺に当てることを意識してみて。あと、受ける面ばできるだけ平に」
なかなかまっすぐにボールが飛ばないユメに言う。
「飛野世くんに教えてもらえるなんて。ありがとう」
ユメは満面の笑顔を向けてくれるが、素直には喜べない。ユメは本当にこんなことがしたいのか。聞く限り試合が控えてるわけでも部活に入るわけでもないらしい。ただバレーを楽しみたいだけなら、偏ったボールでも俺が返してパスが続けばそれが一番楽しいだろうに。
でも、幸せそうな表情を崩さない彼女にそんなどうしようもできない理想をほざいても意味はない。
「ユメっ」
名前を呼んではパスを出すのを繰り返す、と、そのとき。
「ひ、飛野世っ」
ユメの放った柔らかなボールが一直線に俺の元へ向かってきた。パッと手を組み打ち返す。
「ユメっ」
ああ、この感覚。今までどうして忘れていたんだ。ボールが手にスッと収まりそして勢いよく遠ざかってゆく。すげえ、楽しい。
「……うわぁ」
ユメは俺の返したボールに目もくれずじっと俺を見つめていた。ボールが彼女の足元にポツリと落ちる。
「飛野世くん、やっぱりバレー好きなんだね」
「え……」
「今、すごく楽しそうだった。わたし気づいたんだ。わたしが見たかったのは、わたしが勇気をもらったのは、飛野世くんのその笑顔だなって」
「……まあ、好きだな。そうだよ俺、バレーが好きなんだ」
ユメは眩しい笑顔を浮かべ、
「じゃあ、次は連続でできるように頑張る」
と俺に向かって優しくボールを投げた。
「ユメ」
「飛野世っ」
彼女からのボールが俺の元へ届く。
「ユメ」
「飛野世ぇ!」
ボールを受けた彼女が俺の名を呼ぶ。少し遠い、でも走れば──。
そのとき膝に激痛が生じた。
固まる俺の前でボールが地面に帰着する。
今のボールは絶対取れた。そしたらユメはまた返してくれたかもしれない。それを俺も繋げられた。
なんで俺の身体はちっとも思い通りに動いてくれないんだ。
「クソッ」
「飛野世くん!」
ユメは俺に駆け寄ると今にも泣き出しそうな声で謝った。
「ごめん、わたしがわがまま言ったから」
「ユメは悪くないよ。悪くないどころか感謝してる。俺、バレーが好きだってこと思い出せてよかった」
そう微笑みかける。
ずっとバレーを遠ざけてきた。心が抉られるから。でも俺は、本当はバレーが好きなんだ。そのことになんだか安心する。
「でも、悔しいよね」
ユメは呟いたかと思うと声をあげて泣き出した。
「おい、なんでユメが」
「ごめん、ごめんね。でもだって、本当は飛野世、バレーやりたいんだもん」
ユメは奥歯を噛み締め、それでも次々と涙をこぼす。
そうか。俺は悔しかったんだ。ずっとひたすらに頑張ってきたのに、俺の全てだったのに、それが突然奪われた。
好きなものができなくなってつまらない。
みんなと同じレベルでバレーを楽しめなくなるのが怖い。
バレーすらできない自分に存在意義を見出せずに焦っている。
たくさんの理由がある。でもこの苦しみの原因はただ、どうしようもなくバレーがしたいから。
ずっと心が悶々としていた。暗い闇に飲まれてしまったかのようだった。だけど、
「うん。バレーやりたい」
そう漏らすと、自分の中で渦巻いていた何かがスルスルと整っていくような気がした。
「飛野世」
突然背後から声をかけられビクッとする。
「おお、矢川か」
「膝、大丈夫そ?」
「まあね。久々にバレーやったらちょっときた」
「バレーって。せめてボール使えよな。さっきからエアーでパス練してさ」
「……は?」
「『は?』じゃなくて。ちょっと用あるから部活抜けてきたらあっちの橋でおまえ見つけて。部活辞めんなって説得しようかとか迷ってたら、いきなりレシーブの構えし出すから。んでボール投げたり返したり、全部エアーでやってただろ?」
「エアーじゃねえよ。ちゃんとボール使ってるし、パスの相手だって、ほら」
立ち尽くすユメを矢川に見せる。が、
「おまえ、バレーやんなすぎて逆に疲れてんのか?」
矢川は困ったように苦笑した。
意味がわからない。ユメはここにいる。ちゃんとここに存在している。それなのに、矢川には見えないのか……?
「ま、飛野世がまだバレーやりたいみたいでよかった。嘆いてねえでさっさと部活来いよ。みんな待ってるから」
「おお……」
「本当に来いよ?」
「ああ、ちゃんと行く」
矢川は満足そうにうなずき、からかうように言った。
「マネさんが言ってたぞ。飛野世くんがいないと桜岡高校の桜は幹だけだーなんて」
「なんだそりゃ」
「みんな期待してんだよ。おまえがまた飛ぶことに」
「……サンキュ。しばらく休んだりして悪かったな」
「気にすんなっての」
矢川は「じゃあ部活戻るわ」と駆けて行ってしまった。
「あの、ユメっていったい」
ユメはしばらく呆然としたように立ち尽くしていた。が、
「……手術、失敗したみたい」
彼女はポツリと呟き今にも消え入りそうな悲しげな笑みを浮かべた。
「どういう意味だよ」
何も察しなかったわけではない。でもそれを自分の口から言うのが怖くて彼女に説明を求めた。
「わたし、ずっと身体が弱くて。手術しないとあと一ヶ月も生きられないって言われた。成功確率は低くてすごく怖かった。でも、飛野世くんのことをテレビで見たの。それで、わたしも飛びたいって思った。もしもあんなふうに飛べる可能性が少しでもあるならと思って手術を受けようって決意した。……飛野世くんに会えたから、わたしはちゃんと生きてるんだと思ってた。だけど、違ったんだね」
「俺を見なければ、ユメはまだ生きていたのか……」
「そうだね」
淡々とした彼女の言葉に胸が痛む。
「でも、飛野世くんがいなかったらこんなに幸せな毎日は遅れなかった。飛野世くんの出てる試合を何度も見返して、飛野世くんのことを考えて。絶望することなく最期を迎えられたのは、飛野世くんのおかげなの」
「どうして俺なんかを……」
「試合中盤で飛野世くん言ってたでしょ? 『俺を信じろ』って。もちろんチームメイトへの声掛けだってことはわかってる。でもわたし、あなたを信じたくなったの」
「でもそのせいで」
「わたし、今日ほど楽しかったことないよ。飛野世くんに会って、バレーを教えてもらって、パスまでして」
「……ごめん」
「だからわたしは飛野世くんのおかげで──」
「カッコ悪いところ見せてごめん。せっかく俺を信じてくれたのに、真面目にバレーとも向けあえてないような、こんなだらしない姿を見せて」
ユメの期待を裏切った。何かの奇跡が起こったというのに、情けない俺を見せつけるだけのものになってしまった。
「でもこれから、飛野世くんはまたバレーをやるんでしょ?」
強くうなずく。と、ユメは俺の瞳をじっと見つめていたずらっぽく訊いた。
「それは、わたしのおかげ?」
「ああ、そうだよ」
ユメはニコリと微笑み、
「最後に誰かの、それもわたしの大好きな人の役に立ててよかった」
と言った。
「……ユメ、ありがとう。もう少し、一緒にバレーをやろう」
俺たちはその後、暗さでボールが見えなくなるまでパスをし続けた。きっと河原には、「ユメ」と呼ぶ俺の声だけが響いているのだろう。
俺の後ろへと飛んだボールを取りに行き振り返ると、そこには一本の桜を除いて何も存在しなかった。
たとえこの桜さえ消えてしまっても、俺は決して君を忘れない。俺にもう一度、空に舞う勇気をくれた君を。
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