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簒奪と小火と
それが望めば炎が上がり。それが願えば血が流れ。それが乞えば病に沈む。
いつしか強く念じることで、生きとし生けるものに、死へ追いやる凄惨な苦痛を与えることができた。
歳月が流れ二百余年。
もはや理由も目的も擦り切れた紅后と呼ばれる呪霊は、ただ本能が衝き動かすままに呪詛を垂れ流していた。
ある時。強く純粋な本能が激しく訴える。
——あの身体が欲しい。
鴉のような黒い髪、絹のような艶やかな白い肌に、燃えるような赤色の装い。
彼女にとってそれは根源的なものであり、人間の持つ食欲や性欲、睡眠欲と何ら変わりない、抑えの効かないものであった。
古くなれば捨てられる。捨てられれば穢れてしまう。穢れてしまえば誰からも見向きもされない。
この市松も、気付けば随分長いこと共にしてきた。汚れも解れも隠しきれない。愛着や情慕などとうの昔にどこかで消えた。仮に僅かに残っていたとて、本能には逆らえないだろう。
しかし。何かが彼女の意思の悉くを拒んだ。
何が起きたのか、誰の仕業なのか。考えられるだけの意識は存在せず、彼女は大いに戸惑い——そして全てを可憐で美しい人形にぶつけた。
絶対に逃がさない。壊してでも手に入れる。殺してでも簒い取る。邪魔立ても許さない。
その理由すら、覚えていなくとも。
たちまち、作業場に火が立つ。
『ほれ、始まったぞ』
「おいおい馬鹿野郎。放火は重罪だぞ」
『問われるのはうぬだがな』
桑原は上着を脱ぎ払い、それを下にして火に覆い被さった。
「うるせぇ、俺らは日本じゃ不能犯だ」
幸い、炎になる前に鎮火することはできたが、上着の中心は黒く焦げた。桑原は「死ななきゃ安い」と自らに言い聞かせた。
彼は埃や燃えカスを叩きながら訊ねる。
「ところで、お前がその人形から出ていけば丸く済むんじゃないのか? てか、訊きたいことしかないんだが」
『我の霊魂は既にこの肢体に定着した。すぐに開け渡すのは不可能だ。それに、あんなものをのさばらせておいて、うぬは良心が傷まんのか? 咒咀師に良心があっても滑稽だが』
「こんなのを俺一人で何とかしろってか。確かに自分の尻拭いかもしれないけどよぉ」
『因果応報、自縄自縛。と言いたいところだが、狙われておるのはあくまで我。それに、うぬには一宿一飯の恩もある。故、我も手を貸そう。幸か不幸か、うぬが込めた呪力もあることだしな』
「呪い? その素体には何も入ってないはずだが……」
『……呆れてものも言えぬ。満足に術を扱えないどころか、真贋つける目も持っておらんのか』
がんがん、と作業場の扉を叩く激しい音。桑原は泡を食って振り返り、叫ぶ。
「随分行儀のいいこった! 絶対入れねえぞ!」
ところが聞こえてきた声は馴染みのあるものだった。ぼそぼそと暗く、陰気臭い声。
「何言ってるんだか……。やっぱり面倒ごとに巻き込まれてるみたいですね。助けに来たんですよ……」
「寺野?」
桑原は亜梨須を一瞥し、小声で話しかける。
「お前を——亜梨須を信じていいんだな? 背中、見ててくれよ」
『信じるのは勝手だ。だが自信は持て。うぬがかけた呪いは巡り巡って、凶悪になっておるからな』
「……これが片付いたら“皮肉が言えるビスクドール”つって、また売り飛ばしてやる」
『ふふふっ』
ややあって、桑原は玄関へと脚を進めながら声を張って答える。
その背後では、何をどうしたら出るのか分からないような——単に重たいものがぶつかる音から、湿り気のある柔らかい塊が落ちる音、裂創や亀裂が入る音まで、凄まじい衝撃音が何度も起きていた。
「生憎、もてなせる暇はないぞ」
桑原が言いながら玄関を開けると、作業場の惨劇を見た寺野の顔が引き攣った。
「そう……みたいですね……」
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