19人が本棚に入れています
本棚に追加
呪いを追うもの
突如、大河の持つペンデュラムが傾きがちから、地面と水平になるまでに引き寄せられた。
「わっ、もしかして」
「ああ。君が想像している通りのことが起きていると思っていいだろう。急ごう」
一拍置いて……。
「いや待った、違う。急ごうじゃない。帰れと言ってるだろ。想像通りとは言ったが、想像以上の可能性の方が高い。俺には他人を守れるだけの力はないんだ。頼むから安全なところにいてくれ」
大河は心の底から、一回りは若いであろう少女に懇願した。
言葉の通り、万が一が起きた時に庇えないし、そうなった場合の責任も計り知れない。安全なところにいてくれた方が、むしろ心置きなく仕事ができる。
だと言うのに、土倉という少女は頑固なのか融通が効かないのか、正義感が強いのか——彼にとってはどれでもよかったが、とにかく簡単に引き下がるような相手ではなかった。
「こんな真夜中に一人で帰れって言うんですか? どれだけ霊感が強かろうと、人間に襲われたら私じゃ絶対敵いません。生きた人間の方がよっぽど怖いんですから」
土倉の反論も一理ある。今は自分という大人の目があるからいいものの、深夜に少女を一人にさせるのはとても賢明な判断とは言い難い。
大河は板挟みにされたままきっちり二秒考え抜き、ようやく答えを出した。
「……自分の身を守ることだけ考えてくれ。行くぞ」
「これって……!」
二人がようやく脚を止めた時、現場は既に猛火の海と化していた。そこで土倉は、同時に恐ろしく奇妙な体験をする。
眼前で炎が揺らめいているのにも関わらず、それは熱を発しておらず、材木が爆ぜる音もなく、煙も立っていない。
「どうした?」
常人ならば、地獄を前にして「どうした」とはならないはずだ。しかし、彼女は直後に考えを改める。常人だからこそ、ここが地獄に見えないのだと。
視覚のみに訴えかけるこの炎は、十中八九、呪力の類いによるものだと結論付けた。
土倉はこれらを、どこから説明したらよいものかと口を結ぶ。
「なるほど、もう何かが見えてるんだな。じゃあここで間違いないってことだ」
言いつつ、大河はショルダーバッグを降ろし手際良く準備を始めた。
「どうやって入るつもりですか、こんな大火事の中っ」
「火事? やっぱり相当強いみたいだな。それはそうと、何度も言ったようにここからは自分の身のことだけを考えていてくれ。俺は問題ない。その為の手段がある」
彼は油性ペンで右の手のひらに直接、経のようなものを書き記した。
「それは何を……?」
「琵琶法師御用達、般若心経だ」
「だったら全身に書かないといけないんじゃ……」
「その必要はない。彼は目が見えなかったから耳を持っていかれた」
本当に万全な準備なのか、それとも屁理屈をこねているだけなのか、はたまたただの冗談か。こともなげに言うので判別が付きにくい。
加えて、使っているものがものだけに、何とも風情に欠けるような「筆じゃないんだ」という謂れのない落胆が土倉の心に沈む。
この期に及んで些事だというのに、何故か気になった。要するに、効果があれば媒体は何でもいいのだろう。
「火傷は……しないと思いますが、炎の中にあまり長く留まらないでください。この力は本物です」
「留意しよう。助言に感謝するよ。それじゃあ、くれぐれも気を付けて。何かあったらすぐに呼んでくれ」
般若心経を書き込んだ右手を翳しながら、此度の事件の根源へと歩みを進める。
大河は、芳一の耳を削いだのは平家の霊ではないと捉えていた。
誰もが知るように、彼は盲目だった。だから“本当は生きた人間が削いでいった”のだとしても、芳一にそれを知る術はない。
最も恐ろしいのは霊魂や呪術ではなく、それを生み出す人の業なのだ。
住宅街から少し離れた、ぽつんと寂しげに建つ平屋。どうしても隠しきれない年季はあるが、ボロ屋とは呼べない微妙な佇まい。
端的には、今でも人の手が入っていると感じられた。
その証拠に照明が灯っており、中からはここまで届く物音と、人の声——誰かが巻き込まれている。
大河は慎重に脚を早め、玄関の扉を叩いた。
「今度は誰だ! 野次馬根性の霊か! 非常識な人間か!?」
「相手が人だったら非常識なのは貴方ですよ……」
どうやら冗談を飛ばすだけの余裕はあるらしい。物言いはさておき、大河はひとまず安堵した。
「後者だ。あー……ちょっとした通報があって、それで来ました。入れてもらえますか。というか入りますね」
把手に手をかけるも、扉は開かない。
これだけドタバタ騒いでいるにも関わらずご丁寧に鍵をかけるとは考え難い。となると、恐らくは霊的な力によって妨害されているとするのが妥当である。
いわゆるポルターガイストの類いだ。
「扉が開かない。失礼ですがこちらも仕事なもので。扉から離れていてください」
大河は中にいる人物たちに向かって忠告をすると、一枚の破魔の符を扉に貼り付ける。
しっかりと確認をしてから一歩、二歩と下がり、符を目がけて十分な勢いと体重を乗せた前蹴りを見舞った。
かくて木板の扉は吹き飛んだ。轟音と共に隔たりは消え、いよいよ大河の仕事が始まる。
「何だあいつ、玄関ぶっ壊したぞ!」
「申し訳ない、火急なので。請求書なら後で受け取ります。初めまして。俺は大河。呪霊退治の専門家です」
最初のコメントを投稿しよう!