発現

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発現

 ——これは……ちょっと面倒なことになったか……?  桑原が出先から戻ると、仕事場は荒らされていた。まるで部屋の中で竜巻でも起こったかの如き有り様になっている。  その中心に鎮座しているのは、亜梨須だった。  彼の予想通り、亜梨須はここへと帰ってきた。随分と帰巣本能に優れているようだが、この惨状は想定外である。  彼の脳裏に根本的な疑問が過ぎる。  確かに呪いは使ったが、亜梨須は呪詛返しに反応するような呪いの力は持っていなかったはずだが、こうして桑原の元へ二度も戻り、仕事場を掻き回した。  “常識的”に考えて、亜梨須を動かしているのは呪いと見て間違いない。  桑原は一歩も動かず入り口でじっと立ったまま、好奇と疑問が渦巻く大脳と向き合った。  考え得る可能性は二つ。  一つは桑原自身が見ていないところで、同業者が亜梨須に細工を施した場合。  実際、それができる時間はたっぷりあった。そうなると、買い手の老人も関係しているかもしれない。  もう一つ。亜梨須は創られた時点で、既に呪いの人形として完成していた場合。  情けない話だが、こちらは前者よりもタチが悪い。仮にあの時、術者の目をすり抜ける為に力を抑えていたのなら、能ある鷹は某。桑原が想定していたよりも遥かに格上の呪物を創ってしまったことになる。  何より一番の問題は、その呪力の矛先が自分に向いていること。その力が制御できるものなのか否かは、不明である。  彼はこの考えに行き着くと、いよいよ只事ではないことを自覚した。  脂汗がじっとりと滲む。悪寒が足元から全身を這い回り、それが頭頂部に到達した時、尋常ならざる眩暈となって襲いかかった。  ——マジかよ、こいつ……!  桑原は右手を額に当ててその場にしゃがみ込んだ。  その僅か、三秒後。何かが激しく壁にぶつかる音が空気を震わせた。  紙飛行機や野球ボールが激突したくらいでは、ここまで野蛮で破壊的な音はならない。もっと、もっと重たい物。  彼は何とかして音の出所を確かめようと首を持ち上げる。  かくして、目線の先——ついさっきまで桑原の頭があった高さには、手のひら大にへこんだ壁と、その中心に、やや大振りの金槌が頭から突き刺さっていた。  「人形に呪い殺されかけたですって……? 貴方が……?」  「ああ、嘘じゃない。まさか自分の呪いに狙われるとは思ってもみなかった」  「どうせおかしなことでもしたんでしょう」  ぐうの音も出ない。的を射た推理である。  はて、本当に自分の呪いだったかどうかまでは判別は付かないが、余計なことをした覚えは多分にあった。  「それで……僕にどうしろと。まさか『除霊してくれ』なんて言いませんよね」  「いや——まぁそう言いたいところだが、この人形がどれだけの力を持っているかを調べてほしいんだ」  桑原の推測は、自分が施し損ねたはずの呪いが思わぬ形で完成し、それが暴走しているというものだった。完全に術者の手を離れてしまった呪いは、まず術者に跳ね返ってくるのが理だ。  だが疑問は尽きない。昨夜の事件が亜梨須の呪いによるものだったとして、どこまでが彼女の力なのか。  呪力で直接殺そうとした結果があの眩暈だったのか、それとも大きな金槌で頭蓋を砕き、脳漿を潰すことが目的だったのか。  どちらも否定はしきれない。  その答えを知る為に、桑原は生業を共にする寺野を訪ねていた。  「おかしなことを言う人だ。自業自得です」  「分かってる分かってる。だから『祓ってくれ』とは言ってないだろ」  「……一晩はかかるでしょう。それに、お代はきちんともらいますよ」  寺野(てらの) (たかし)燕寿寺(えんじゅじ)の住職として寺を管理する傍、噂を聞いて訪れる、霊障に悩まされる人間の味方をする、俗に言う霊能者でもある——が、当の本人にも貼り付いて離れない霊がおり、度々悩まされることがあった。  そんな彼の得意とする分野は、主にお祓い、除霊、鎮伏や供養などであり、本来であれば桑原は倫理的に許容できない存在なのだが、昨今、霊障や呪詛に詳しい人間はごく限られている。  その点、彼は知識、実力共に優秀である為、寺野は渋々関係を保っていた。これまでに得られたものも少なくない。  そんな相手が、今回はとんでもない面倒ごとを持ち込んできた。  本来であれば一蹴、門前払いするつもりだったのだが、件の人形を目にした瞬間、自分の膝が笑っていることに気が付いた。  もし本当に桑原の手に負えない代物だった場合、巡り巡って一般人に害を及ぼす危険性も捨てきれない。  寺野は先を見据えた決断をし、そして今、亜梨須という名の人形と向き合っていた。  亜梨須の瞳は玻璃でできているようだが、ともすれば生きた人間の虹彩と遜色のない生気を感じさせる。或いはそれは霊気かもしれないが、いずれにせよ、初めに感じた尋常ならざる気配は今も放たれていた。  瞳を見つめると、じっとりと見つめ返されている感覚に襲われる。  寺野は亜梨須が抱いている思念を探る為に、彼女の視線を目蓋で遮った。それでもなお、閉じた目蓋の暗闇にさえ亜梨須が浮かぶ。まるでそこに存在するかのように。  専門家である寺野の経験上でも、ここまでの力を秘めた代物と対峙したのは初であった。一体、何をどうすればここまでの呪いができあがるというのか。  かぶりを振るのもそこそこに、研ぎ澄まされた彼の精神は徐々に肉体を離れ、亜梨須の内奥へと潜り込んだ。  それは決して目に見えるものではないが、彼女の精神空間は寺野の予想とは裏腹に酷く殺風景であった。  仮にも実体を有し、ある程度自身の思惑通りに動くことができる力があれば、相応の原動力となり得る負の情念——つまるところ、激憤や怨嗟が入り乱れているはずだ。  ところが蓋を開けてみれば、肩透かしなほどに狭く、不自然なほど静かだった。  どうにもおかしい。ならばあの戦慄は何だったというのか。  彼は納得のいかない暫定的な答えを検めるべく、自身の視点をより高く、遠くに置いてみることにした。  やはり何もない。しかし。  ——ふふ、気付いたか?  どこからか、甘く妖艶な声が語りかける。その一音一音は悪気のない意思を持って蠢き、それぞれが異なる個であるかのように振る舞う。  依然、この人形からは呪力を全く感じ取れない。だが寺野は今、某かからの強烈な干渉を受けている。  逃れようと必死にもがいているうちに、彼は自分が途轍もなく莫大な渦に飲まれていることに気が付いた。彼が見ていたのは、台風の目がもたらす小さな静けさだった。  そして、静寂をより一層際立たせる彼女の声。  ——案ずるな、この身は瑕瑾(かきん)。人を呪うことなど叶わぬ。だが、さる事情により長居してやることもできぬ故、早々にここを発たせてもらうぞ。  その一言を最後に、寺野の意識から亜梨須の全てが音もなく途絶え、滲むような黒だけが残った。彼はその黒をよく知っている。目蓋の裏の景色だ。  彼が目を開いた時、亜梨須はどこにもいなかった。  ——なんてものを作ったんだあの人は……!  本職の呪詛師と住職の力をもってしても明かすことの叶わなかった暗闇。痕跡すら残さない呪い。こんなものが野放しになってしまっては、収拾のつかないことになる。  愚かな責任者、もとい製作者に、まずはこの凶報を伝え、問い質さねばならない。  駆け出そうとして膝に手を置き——その瞬間、寺野は何かで後頭部を殴打された。視界は再び、目蓋の裏の黒で塗り潰される。
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