亜梨須

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亜梨須

 桑原は自らの身を守る術を張りながら、生まれ落ちてこの方体験したことがないほどの後悔の念に飲まれていた。あの時、寺野も言っていた通り、これは紛れもなく身から出た錆である。  仮にも本職。決して呪術や霊魂を軽んじていたわけではない。だが動機は少し軽い気持ちだったかもしれない。強く、純粋な精神は呪いに限らず、まじない全てにおいての基本だというのに。  ——寺野は何をしてる……!? まさかこいつに……いや、あいつはそんなにヤワじゃないはず……。  亜梨須はとうとう本性を表した。能ある人形が隠していた爪は鋭く研がれていることだろう。  しかしこの期に及んで、桑原の頭の中にはまだ疑問符が漂っていた。  真っ先に思い浮かんだのは、やはり何が亜梨須を動かしているのかという点。  “錆”が原因であれば、どれが働いているのか。残念ながら、あれかこれかと熟考する為の時間も余裕もない。思い当たる節が多過ぎることをしでかした過去の自分を呪った。望まない結果とは、往々にして先に立たないものだ。  逆に“錆”が原因ではない場合。桑原の内心では、責任の所在を考慮するにあたって、こちらであってほしいと願っていた。反面、前者よりも解呪は厄介になる。  そして、それを知る為に預けた寺野とは連絡がつかない。  『この肢体、実に素晴らしい。たまさかの巡りものだが良く馴染む』  真紅のドレスを纏った人形の、その外見にそぐわない古風な言い回しに、桑原は違和感を覚えた。  人形が話しているように認識している事実はもはや些事である。  『うぬ、名は?』  果たして、違和感は口調だけだろうか。桑原は命の瀬戸際にて必死に脳みそをこねる。  『おい、聞こえておらんのか。うぬは咒術師なのだろう』  否。彼はようやく真相へと至る細い糸を見出した。  実のところ、命の瀬戸際になど立っていないのかもしれない。そもそも、人の命を奪うほどの邪悪な呪いなど込めていないのだから。  だがあくまでも、他人から差し向けられた呪いの刺客ではないことが前提である。  真実を知るべく、桑原は喉を鳴らした。  「お前、何だ……?」  『たわけ。問うたのは我だ』  彼はもっともな反論にたじろぐ。随分と話の通じる——それどころか最低限の礼節まで弁えている人形だ。態度こそ尊大ではあるものの、少なくとも桑原が想像していたような、呪いを振り撒いて回る怨嗟の塊ではない。  彼はややあってから「桑原 怨」と名乗った。  『……よもや我を除けようとしているわけではあるまいな?』  「失礼な。本名だよ」  『ふむ。ふっ、咒術師のクワバラか。些か厭味に富んだ名だ』  不遜な西洋人形は開かない口を介さず、持たない発声器官を使わず、どういう方法かで感情まで表しながら流暢に語る。  人形が喋っている時点で充分奇怪だが、桑原は、その風体と態度が全く一致しない頓珍漢さが、何だかおかしく思えてきた。  とはいえ、いつまでもそんなことを言って悠長に構えてはいられない。彼は未だ、彼女の真意はおろか、正体すら図りかねていた。  「それで、お前は? 俺を呪い殺しにきたんじゃないのか……?」  『……我のどこに、うぬを殺す名分がある?』  独特の言い回しは相変わらず、どこか小馬鹿にしたような声色。  それが怒りや恥の琴線に触れ、桑原は何の意地か、仕返しとばかりに揚げ足を取る。  「質問に質問で返すなと」  『はん、阿呆なのか賢しいのか分からんな。そも、うぬが何のつもりでこの肢体を作ったのかは知らぬが、我はうぬの咒物ではない』  それは桑原の意表を突いた返答だった。  彼が亜梨須に込めたのは、“適度に人を不幸にする”呪いである。桑原はそれを用いてのマッチポンプを狙っていたのだ。  亜梨須には呪力で人を操ったり、殺したりなどの大逸れたことはできないし、ましてや、意思や感情が発芽するような奇跡論じみた呪法は取っていない。  だからこそ桑原は、亜梨須が喋ったことに動揺を隠せなかった。  しかし。他でもない張本体が、自分は桑原の呪いとは無関係だと言いきった。それが指し示す答えはつまり——。  「その身体を憑代にしたのか……?」  『然り。うぬには感謝こそすれ、恨みを抱く道理などない。だというのに……うぬが早合点してあちこち引きまわしたおかげで、こうしてまともに話すこともままならなかったわけだ。まぁ、我にも事情はあったがな』  「じゃあ、本当にお前は何者なんだ?」  『亡霊だ。遠い昔のな』  江戸時代の終わり。いわゆる幕末と呼ばれるころ。日本では各地で争いが起きていた。  それからしばらくの時間と甚大な犠牲を払い、明治政府が誕生したわけだが……それはまた別のお話。  若くして東洋医学を学んだヒサは、町医者の元で働いていた。  初めのころは、その辺で転んで膝小僧を擦りむいた近所の童や、仕事中、角材に頭を、屋根瓦に脛をぶつけた大工や鳶の相手が主だった。  というのも、ヒサが経験不足だからではなく、そもそもが小さな診療所だったので大した怪我人や病人は訪れなかったのだ。  ところが幕末は、維新とは別に様々な天災や飢饉、疫病が頻発した時期でもあった。  いくら小さな町医者勤めとて、何もせずに指を咥えているつもりもなく、やがてヒサは、戦から戻った武士や災害で怪我を負った者、流行り病に罹った者たちをも診るようになっていった。  現実とは脆く非情なもので、ヒサの元へ訪れる患者たちの中には彼女がどれだけ手を尽くそうと、事切れてしまう者も少なくなかった。  赤の他人だろうと、近くに住む顔見知りだろうと、いつもの八百屋の親父だろうと、肉親でさえも。  人の業の果てに倒れた者、抗うことのできない天災に飲まれた者、不可視の未曾有に蝕まれた者。  結局、ヒサが満足に救えた命はほんの一握りだった。  やがて彼女は大きな恐れを抱いた。その矛先は、死そのもの。  明治維新を乗り越えたヒサは、身も心もくたびれたまま何処かへと姿をくらませた。  誰も知らないところへ。誰もいないところへ。  不死へ至る研究を行う為に。それが例え、呪いであっても。  『我はただの生き汚い魂、人を呪うつもりなど毛頭ない。だがせめて、身なりだけでも美しくありたいものだろう。そこでこの肢体と、これが持つ呪いに惹き寄せられたというわけだ。つもりはなくとも、れっきとした霊魂なのでな』  亜梨須——もとい、そこに宿るヒサは、今から二百年ほど前の自らの過去を訥々と語った。  対する桑原も呪詛師。その話を荒唐無稽だと鼻で笑い飛ばすことはせず、新品同然の西洋人形が語る江戸時代の話に耳を傾けた。  だが。信じるか否かは別として、どうにも腑に落ちない点がある。  「でもあんた、トンカチで俺の頭を生卵みたいにしようとしたろ」  『うぬは本当に咒術を扱う人間か? 甚だ胡乱だな』  「さっきから一言余計だぞ。調伏してやろうか」  ここまでの高慢さを前に、桑原は先ほど聞いたばかりの過去が全て嘘なのではないかと勘繰ってしまう。  『まぁ、あの状況では致し方なしか。逆だ。あれはうぬを助けた。金槌を少しばかりひとところに留めたのだ。これには今しがた我が言ったさる事情が関わっている。うぬも命を狙われたことだ、話してやる。しかと聞くが良い。——それから、我のことは亜梨須と呼べ。生きていたころの名前など、既に掠れてしまって、読めやしないからな』
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