ゆき

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朝はしん、としていて心地が良い。  布団からゆっくりと出て、冷えた家の床や固まった戸をひとつひとつ起こす。それらの仕事は、丁寧にするほど一日の心持ちが良くなる。特に、裏庭に面した内縁の掃き出し窓を開けるのが、私は一番好きだ。どの季節も瑞々しくひんやりとした空気が乾燥した肌を撫でて、それを思い切り肺に入れる。そうすると、今日も生きる、という心持ちを穏やかに感じさせてくれるのだ。  今朝は、未明に降ったであろう雪が裏庭の枯葉や飛石を消していて、私はその一面に、にっこりした。初冬の冷え込みに窓を開けるのを躊躇い、代わりに少し眺めようかと立ち止まる。しかし、靴下を履いていても冷気はたまらない。足や手を擦り合わせながら、これは初雪だろうか少し思い当たってみる。 確か、山の上の方では降ったと言っていたか。  私はまた、丸く重ねた両手に、ほう、と息を入れて揉んだ。  ふと、春から秋にかけて枝葉に隠れている離れの小屋が、大きく見えることに気がつく。  離れの小屋は温室になっている。小屋と言うように小さく、もともと用具入れだった3畳か4畳を温室に建て直してから、気に入った植物を育てている。  また、冬の小屋は一層に眩しい。  温室なので積もる雪はなく、また日を取り入れるようにと、壁と屋根をガラス窓にしたので枝葉が遮らずに、照る太陽があれば必ず反射する。 今朝は冷えているし、室温の調節は上手くいっているだろうか。朝ご飯を食べる前に様子を見に行った方がいいかもしれない。  ひとまず、私は内縁を後にして、家のあちやこちやを起こして回った。  家は、時に表情がある。朝は東があたたかな光に柔らかく、西は余った光にぼんやりと重たい。対して夕は、東西逆である。  私は最後に、西にある洗面所で手と顔を洗ってから、静かな居間に戻った。  お気に入りの一人用ソファに掛けてある、綿入りのはんてんを手に取る。もう何年も着込んでいて襟元や袖元はくたびれみすぼらしくとも、しかし愛着のある羽織である。もういい加減に買い替えた方が良いだろうかとも思いつつ、肌に馴染んだ着心地に今年も身体を預けてしまっている。  それを羽織ってから、私は玄関から長靴を持ってきて、裏庭へ下りた。下りた途端に思い出す。 冬に呼気は白くなる。  思うと何度か、天に向かって長く息を吐いて遊ぶ。肌を痛める寒さに、顔をごしごしと擦った。  そうして、小屋に向かう。雪はほんの1センチか2センチほど積もっているだけで、すぐに溶けてしまいそうだ。  私は、小屋の二重の扉を素早く潜ってから、室温計を確認する。25.6度。湿度は68パーセント。 大丈夫そうだな。  体に優しい温度と湿度に、寒さで上がった肩がゆっくりと力抜けていくのを感じる。  小屋を見渡すと、翡翠葛がいくつか美しく花開いていて、私は喜んだ。本来の開花時期から大分ずれているのは、意図的にそうしている。白に染まる冬に寂しさを感じたのだ。翡翠葛、ブーゲンビリア、珊瑚刺桐と花開く様子はとても美しい。  翡翠葛へ近づいた。湖を彷彿とさせる青と、ハチドリのような鋭さを象る形にうっとりとする。  私は、思いつく。 そうだ。これを摘んで、雪にあげてやろう。  そうと思えば、私は早速がく片の付近に刃を入れて美しい水の色をふたつばかり掬ってやった。手のひらに載せてみれば、横たえた妖精のようだった。  私はそれを手に外へ出た。朝の雪原は優しく眩しい。さらに小屋の裏に回る。  ひとつの白樺の根元にしゃがんで、手のひらで包んでいた花をそっと、そこへ置いた。白に青のコントラストか美しく、見とれた。  私は、はっとした。  雪の、瞳である。雪というのは猫の名前で、白の毛並みに青の瞳が印象的な猫であった。それにしても、これは歪な瞳であったが、私は狼狽えてから、胸の奥がじんと熱く湿るのを感じた。  湧いて出てきた言葉は、 「ゆき。」 というふた文字であったが、それは、あの猫を愛おしく思って呼びかけるときの懐かしい、自分の声音だった。目を細めた。それから、猫の瞳のそばに手を添えた。ふわふわと柔らかな雪に指の節を痛めたが、構わなかった。  猫は3年前の初夏に亡くなった。家猫だったが、散歩に出かけることを私は止めなかった。あまり動かなくなってからは抱いて裏庭に連れて行き、枝葉を手繰り寄せてあげたり、花を摘んで嗅がせたりした。自然が好きなようだった。だから私は、白樺の根元に埋めることを選んだ。  白樺の根元にいると思うと、私は毎日そこへ通った。夏の白樺は、葉を茂らせて風に揺れる。それらの音は、猫の存在が消えた私の心の穴を、何度も埋めるようにして癒した。  そうやって白樺の根元で過ごす時間は、木枯らしに落ちた枯葉を踏む音になり、それから猫との思い出が穴を埋めるようになった頃に、すんとも言わなくなった。代わりに、幹の白が際立って美しく見えるようになった。  それから、私は家の面倒をよく見るようになった。長年放ったらかしていた倉庫に空気を通し、丁寧に手入れをした。何かに手をかけていると、また、寂しさは紛れた。  長年夢だった温室も叶えた。触れたことのない植物を目の前にして、愛おしく思った。  私は家の表情を、少しずつ感じるようになった。何十年も住んで見なれた家が新鮮に見えることがあるのだ。時には猫との思い出が蘇って笑うこともある。  しばらくすると、ぼたん雪が降り始めた。溶けるだろうと思ったら、もう少し積もるらしい。もう手の感覚はなく、私はやっと立ち上がった。  ある老夫が、白く、白く、雪の腹に抱かれている。 〈了〉
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