さくら

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桜の木の下には、死体が埋まっている。 そんな話をし始めたのは、一体どこの誰だったか。 とある小説家の短編小説が元ネタだと、あの子は言っていた。誰の言葉であろうと、正直どうでもいいのだが。 がらんとした公園に佇む一本の桜の木を僕はぼんやりと見上げる。 誰が考えついたことかは知らないし、興味もないが、言葉自体はなかなかいい。 郊外にあるその公園には、僕以外に誰もいない。錆びついた遊具、かなり背の伸びた雑草。僕が幼い頃には友人と頻繁に遊びに来たものだが・・・時の流れとはこういうことだ。 ようやくここに来ることができた。 きっと誰の記憶からも消え去ってしまったであろうこの公園の桜の木を、それでも僕は覚えている。僕と、それから、あの子もきっと覚えてくれているはずだ。 誰もいないこの場所だからこそ、ゆっくり桜を眺められる。贅沢なことではあるけれど、その一方で僕は勿体ないとも感じていた。 こんなに綺麗なのに、誰も見に来ないのである。 川沿いにどこまでも続く桜並木は、確かに魅力的だ。それは分かる。 一面の桜、桜、桜。水面の向こうにまで桜が映り込み、風が吹く度に花びらが舞い散る。もちろん、それはそれで風流だ。 けれど、この桜はそれらの何倍も美しい。 どうして誰も分からないのだろう。どうして誰も気づかないのだろう。僕には理解ができない。 けれど、あの子なら・・・愛しいあの子ならば、きっと理解ってくれている。 小学生の頃から、彼女は周りと少し違っていた。 と言っても、悪目立ちしていたわけではない。寧ろその逆だ。 彼女は可憐だった。可愛らしい顔つきに色の白い肌、桃色の頬にさらさらとした長い髪。小さなことで声を立てて笑い、些細な変化によく気づく。更に勉強も運動も人並み以上にできるとあっては、もはや非の打ち所がない。 一体何をどうしたらあんな優秀なお子さんに育つのかしらねぇ、と母はしょっちゅう言ったものだ。比べられていい気はしなかったが、確かに子供だった僕も彼女の非凡さはよく理解していた。 今なら分かる。彼女のその並外れた人柄は、教育の賜物なんかではない。彼女自身の才能のようなものだったのだ、と。 言うまでもなく、彼女は常に多くの人に囲まれて育った。僕が彼女ならば、周囲の称賛に酔って自己中心的な人間に育ってしまったかもしれないが、彼女に限ってそんなことはなく、幼馴染だった地味な僕にも親切にしてくれた。 そんな彼女に、僕が恋心を抱かないわけがない。 「ねえ、知ってる?」 ある日、彼女は言った。 「桜の木の下って、死体が埋まってるんだって!」 下校しているときのことだった。 それまで一体何の話をしていたか、今はもう覚えていない。けれど、このときの会話だけはよく覚えている。 「何、その怖い話?」 「えっとね、小説家の人がそう言ったらしいよ」 「小説家?」 「んー、あたしも詳しくは分かんない。だけど、もしそれが本当だとしたら、桜の見え方って今までとちょっと変わってくると思わない?」 全部が全部、下に死体埋まってたら、何人死んじゃってるんだーって感じだけどねー。流石に嘘か。 あはは、と天真爛漫に笑う彼女の表情を見て、僕は気付いたのだ。 ああ、僕は彼女のことが好きになってしまったのだ、と。 けれどその気づきは、僕にとっては絶望でしかなかった。彼女のように誰からも好かれる人間が、僕を見てくれるはずがないのだから。 今僕がいるこの公園は、幼い頃彼女とよく遊びに来た思い出の場所だ。 成長して一緒に遊ぶことがなくなっても、春には必ずお互いの家族と一緒に花見に訪れた。 あの頃から、桜は本当に綺麗だった。だが、当時から花見客はほとんどいなかった。一人もいない今と比べればましかもしれないが。 桜並木なんかより、ここの方が綺麗なのに。そう母に言ってみると、母からはこんな答えが返ってきた。 「そう?お母さんはあっちの方が綺麗だと思うけどねえ。でもほら、ウチからはちょっと距離があるし」 驚いた。 母も、僕と同じようにこの公園の桜の木が好きだからここに来ていると思っていたのに、違ったなんて。 それから数年後、父の仕事の都合で引っ越しが決まった僕は、彼女と離れ離れになってしまうことになった。 きっと、僕にチャンスはない。そう分かっていたけれど、それでも僕は最後に自分の思いをさらけ出すことに決めた。 やらない後悔よりやる後悔とはよく言ったものだ。引っ越しをする前夜、僕は公園に彼女を呼んだ。 月の綺麗な夜だった。 桜は散りかけだったが、それでも素敵だった。いや、散りかけだったからこそ、と言うべきだろうか。 月の光に照らされて浮かび上がるその姿が言いようもなく美しくて、僕は息を飲んだ。 どうなっても構わない。今ここでこんな時間を過ごせていること、それこそが僕にとって人生最高の幸せなのたから。 そして、僕は──── 後悔はしていない。僕は微笑む。 久々に訪れた公園は荒れてはいたが、それでも変わらない、大事な思い出の場所だ。 今でも鮮明に覚えている。僕がしたことに気付いたあの子の表情を。 長い睫毛をたたえた目を見張り、口からは小さく吐息が漏れる。長い髪が散る花びらと共に風になびいた。 あんなに美しいものは、後にも先にも見たことがない。 彼女が声を発することはなかった。 ただ体を赤く染め、僕を見上げていた。 ああ、綺麗だ。 今の彼女を見ているのが自分一人だという事実は、僕を高揚させた。 高鳴る心臓を抑えながら、僕はかがみ込む。 こんなに近くで顔を見ることができるなんて、と思いながら、僕は彼女をじっと見つめた。こんなことが許されるのは、僕が思い切って行動したからだ。 指通りのいい髪を優しく触る。 僕の非力な腕では、思うようにすることができない。けれど、これだけなら・・・。これだけならば、きっと誰にも気づかれない。 どれだけ隠してもすぐに気づかれてしまうと、僕には分かっていた。そして気づかれたら最後、愛する彼女から引き離されると。 ならば、最初から隠さなければいいことだ・・・一部以外は。 運の良いことに、桜の木は遠い位置にある。そんな場所まで彼らは調べないだろう。 さっさと埋めてしまおう。気づかれないように、慎重に。 案の定、僕はあの子から引き離された。そして長い間会うことすら許されなかった。 だけど今日、ようやく再会できた。 そっと桜の木の幹に手を触れる。 「ねえ、桜。君はまだ、この下にいるのかな」 抜き取った髪の毛数本を、僕は桜の木の下に隠した。体をすべて埋めたとしても、きっとすぐに見つかってしまう。けれど埋めないのは勿体なさ過ぎる。なら、分かりにくいものを埋めればいい。僕はそう考えたのだ。 それが今もあるかどうか、今となっては誰も分からない。知っているのはあの子だけだ。 でも、これだけは自信を持って言うことができる。 「ねえ、桜。今君がここにいないとしても、あの出来事は現実だよね。だって、桜の木がこんなに綺麗なんだから」 あの出来事。 僕がこの公園で愛しい桜を殺した、あの出来事。
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