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 深夜の冷気が体にまとわりついた。彼女は良秀の横を寄り添うようにして歩いている。  思えば、辰郎以外の誰かとこうして肩を並べて歩くのはいつ以来だろう。ましてや女の子と二人でなんて。いや、女の子……ではないか。  最初に彼女を見たときは完全にパニック状態だった。だが今は自分でも驚くほど落ち着いている。それどころか胸の軽さすら感じる。確かに彼女はどう見ても普通とは違う。だが普通かそうじゃないかなんて、もうどうでもいいことだ。  良秀の頭にバイト先の面々、そして辰郎の顔が浮かんできた。  そうさ、どうせ僕の人生なんて昔から——  そのとき彼女が自分を見上げていることに気づき、どきりとした。フードの中から彼女の目がこちらを見つめている。 「ど、どうかした?」 「かなしい?」彼女が言った。 「え?」良秀は甲高い声を上げた。「どうして?」 「そういうにおいがする」 「におい?」良秀は自分の脇に鼻を近づけた。確かにバイトから帰ってきてシャワーも浴びていない。  良秀は急に恥ずかしくなって顔を赤らめた。  嫌われたかも。 「においがかわった」彼女が言った。 「どういう意味?」 「いまはかなしくない」 「じゃあ、今はどんな?」 「わからない」 「そう……」  においで分かるのか。悲しい気持ちのにおいってどんなだろう?  人影のない通りの向こうにコンビニの明かりが見えた。夜風にさらされた体が芯まで冷えきっている。良秀は身震いをした。 「温かいものを買おうか」 「あたたかいもの」と彼女が繰り返した。  コンビニから誰かが出てくるのが見えた。派手な模様のセーターを着た大柄な男だ。良秀は反射的に下を向き、背中で彼女を隠すようにして道の端を歩いた。 「おい」良秀に気付いた男が投げつけるように言った。  良秀は聞こえない振りをして歩みを早めた。 「待て」男が良秀の前をふさいだ。 「なんですか」良秀は男の胸元を見ながら言った。 「実は、ちょっと君に相談があるんだよ」  良秀は泣きたい気分だった。どうして周りにはこんな人間ばっかりなのか。 「相談とか言われても……」  男は良秀の肩を強い力で掴んだ。「まあここじゃなんだから」  そしてコンビニの裏手、店内からも通りからも見えない死角に良秀を連れて行った。 「酒を買おうと思って出てきたんだけど、財布もスマホ忘れちゃってさ」  良秀は黙って下を向いた。 「ここで出会ったのも何か縁だし、ちょっと助けてくれない?」 「助ける?」 「君のスマホ貸してよ。QRコード」 「無理ですよそんなの」  良秀の脇腹を男が殴った。良秀は低く唸り膝をついた。 「こっちは困ってんだよ。人助けの精神はねえのか、ああ?」  そして男は身を屈めると耳元で言った。「素直になるなら今のうちだよ」  返事がないことに苛立った男は良秀の髪を掴むと思い切り引き上げた。 「返事しろよ!」  良秀はポケットからスマホを取るとそれを差し出した。 「いやあ助かるよ。そのスマホ、しばらく借りるけどいいよな」  男が満面の笑みを浮かべながらスマホに手を伸ばしたとき、良秀の表情が突如凍りついた。  男の背後に彼女がいた。フードを脱ぎ、顔が露出している。男は良秀の視線に気づいて後ろを振り返った。彼女の真っ白なが目の前にあった。 「なんだあ、こいつは」男は体を起こして彼女を見下ろした。「なに被ってんだ?」  彼女の顔に赤い亀裂が走った。亀裂はさっと横に広がり両目の下まで伸びた。すると彼女は男の襟を掴み、勢いよく引き寄せた。男は為すすべもなく彼女の前にひざまずいた。あまりの力に呆然とする男。  彼女の口が大きく開いた。その中に広がる真っ赤な空洞を見つめたまま男は言葉を失った。それは良秀も同じだった。半円を描く上下の顎から、めりめりと音を立て無数の歯が伸びてきた。鋭く尖り、すこし内側に湾曲している。 「なんだよこれ」  男が絞りだすような声で言った。それと同時に彼女の口が一瞬のうちに男の首を食いちぎった。二口目でみぞおちまで、三口目で足の付け根まで食べた。そのたびに彼女は豪快な音を立てて咀嚼し飲み込んだ。地面には接合部を切り離された両腕と両足が転がっていた。  良秀はベランダで見た虫の脚を思い出した。  彼女はそれらを一本一本拾い上げると、巨大なチュロスでも頬張るかのようにして最後まで食べ尽くした。
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