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3.
一睡もできないまま朝を迎えた。カーテン越しに黄色い日差しが差し込んでいる。
あの後、良秀は彼女の手を引いて部屋まで走った。驚きはしたが、どういうわけか少しも怖くはなかった。部屋に戻っても動悸は収まらず、寒くもないのに全身の震えが止まらなかった。それは恐怖のせいではなく、一種の興奮状態だったのかもしれない。粗暴な男が一人、彼女に食われた。思い出してもゾクゾクする。血の跡は残っているが、男の体はすべて彼女の胃の中だ。死体がなければ殺人は成立しないと聞いたことがあるが、本当だろうか。いずれにせよ自分たち二人に危険が及ぶことはないだろう。
腹の虫が小さく鳴った。良秀は今になってようやく空腹を感じてきた。そういえば昨夜から何も口にしていない。お湯を沸かしてカップラーメンでも食べよう。
床に手をつき立ち上がろうとしたところでふと横を見た。すぐ隣で彼女が眠っている。ウィンドブレーカーを着たままだ。上半身には乾いた血の跡が派手に残っている。
自分はどうしてこんなに落ち着いているのだろう。彼女を見ながら思った。目の前で人間が食われたというのに、今から普通にラーメンを食べようとしている。
良秀は呆れたように笑った。
しばらくして食事を終えた良秀は辰郎に電話をかけた。何度コールしても辰郎はでなかった。電話を切ると良秀は出かける準備をした。それから毛布を彼女の体にそっと掛けた。
「すぐに戻るから」
寝ている彼女に声をかけた。
玄関のチャイムを鳴らすと、意外にもドアはすぐに開いた。
「なんだ、いるじゃんか」良秀は言った。
辰郎は何も言わずに部屋の奥に戻っていった。良秀はその後について中に入った。
「大丈夫なの?」良秀が尋ねた。「体調でも悪いの? 由樹奈ちゃんも心配してたよ」
ベッドに腰をかけた辰郎は無精髭を生やし、目の下は真っ黒だった。
「寝てないみたい」良秀が言った。
「いや、別に」辰郎の言葉はまるでうわ言のようだった。
「それならいいけど」
何気なく部屋を見渡した。特に荒れている様子はない。部屋を一周ながめた後、良秀はベッドサイドに目を止めた。何かが落ちている。
「これって……」
ベッドに歩み寄りそれをつまみ上げた。見覚えがある。
「あの部屋にあった……」
脱衣所で辰郎が手にしていたあの下着だ。
「これ、持ってきたの?」
辰郎は答えなかった。
「どうしてこんなものを」
良秀が言うと、辰郎は下着を乱暴に奪い取った。
「なんでもねえよ」
「辰郎?」
「こういったものも金になるって言ったろ!」
辰郎はそう怒鳴ると奪い取った下着を放り投げた。
「分かったよ、ごめん」
「もう帰れよ」
「いや、あの卵のことなんだけど——」
「うるせえな、どうでもいいんだよそんなものは。帰れよ! ほら!」
辰郎は突き飛ばすように良秀を部屋から追い出した。良秀は無情に閉ざされたドアをしばらく見つめていた。
部屋に帰ると彼女はクッションに座っていた。
「なやんでいる」彼女が言った。
「まあね」良秀は上着を脱ぎ、彼女の前に腰を下ろした。「分かるの?」
「そういうにおいがする」彼女は昨日と同じことを言った。
「においか……」良秀は彼女の目を見据えた。「においで僕の悩み事が分かるの?」
「なやんでいることだけわかる」
「それなら昨夜のあの男はどんなにおいがしたの?」
彼女を責める気など少しもない。丸ごと食べられてしまったあの男と、こうして同じ部屋で向かい合っている自分との差について知りたかった。
彼女の目が少し潤んだように見えた。
「わるいにおい」彼女は言った。
「悪いにおい——」
「あのにおいがすると おさえられない」
「何を?」
「しょくよく」
悪意ある人間のにおいを嗅ぐと食欲が抑えきれなくなる。だからあの男を食べた。彼女はそう言っているのか。
小学校の帰り道、どこからともなく漂ってきたカレーのにおいを良秀は思い出した。人間の悪意が放つにおいとは、彼女にとってそういうものなのだろうか?
彼女は自分のお腹に手を当てた。その手を見つめていた良秀は気がついた。お腹が少し大きくなっている。僅かではあるが、昨日より丸くなっている気がする。まだ消化中なのだろうか。
さっきまでは辰郎に全て話すつもりでいた。だが辰郎を彼女に会わせてはいけない。辰郎はおそらく彼女の食欲を刺激してしまうだろう。抑えるこのとできない強烈な食欲を。
「こわがってる」彼女は良秀を見て言った。
「その通りかも」
「ふあん」
「……」
「においが まざっている」
疑いようがなかった。彼女はにおいで人を判別する。彼女の発する言葉は漠然とした内容にすぎないが、いま起きている感情の揺れを的確に捕らえている。それは相手の表情や言葉のやり取りから導く仮説ではなく、もっと原始的なにおいによる判断なのだ。
「僕はいつもそうだ。怖くて不安で……」
良秀はごく自然に話し始めた。
自分の人生、思いの丈を彼女に語った。
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