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満開の花を咲かせていた桜が散り、季節が夏へと移り変わり始めた頃——海人が海里の部屋を訪れた。
「今日から2週間。お世話になります」
リビングの端で正座をした海人が丁寧な所作で三つ指を付くと、そのままゆっくりと頭を下げる。
「そんなにかしこまらなくて良いよ。狭くて申し訳ないけど何でも好きに使って」
「ありがとう、助かるよ。それにしても、本当にいい眺めだね」
スーツケースを部屋の隅に置いた海人が窓の向こうの景色を見つめ、感嘆の息を吐く。
「でしょ。一人暮らしするなら絶対に海が見える部屋って決めてたんだ」
「僕の部屋からは無機質なビル群しか見えないからこんな素敵な景色を毎日眺められるなんて羨ましいよ。僕も引っ越して来ようかな、この街に」
「新進気鋭の画家である林仲大先生はこの街よりも大都会の方が似合うよ」
そうかなぁ。と小首を傾げている海人のスーツケースを運びながら寝室の場所を指し示す。
「こっちの部屋使ってね。普段は物置にしてるからちょっとごちゃごちゃしてるけど」
「布団を敷くスペースがあれば問題ないよ。わぁ、この部屋からも海が見えるんだね。最高だ」
普段は物静かな海人が窓辺に向かって駆け寄る姿があまりにも無邪気で思わず口元がゆるむ。
「やっといつもみたいに笑ったね」
海人は安堵の表情を浮かべると、壁に背を預けてその場に座る。
「海里も座りなよ。風が気持ち良いよ」
海人に促されるまま隣に座り、膝を抱えて丸くなる。
「俺、そんなに笑えてなかった?」
「うん。少しも笑えてなかった。そろそろ椛沢君と仲直りしたら?僕に手伝えることがあればなんでもするよ?」
海人の問いかけにしばらく思案した後、首を横に振る。
「言ったじゃん。もう一誠との友達ごっこは終わり。これ以上、自分の気持ちに嘘つくのは無理。
幸せボケしたデレデレした顔で、俺、志織と結婚するんだ。なんて報告されてもどんな顔したら良いか分かんない。
それに、俺が一誠を好きじゃなくなれば、両親も安心するだろうし……。だから、もう良いんだ。仕事頑張る。とりあえず、目下の目標は林仲大先生の個展を成功させること。俺、なんでもするから。仕事たくさん振ってよね」
懇願するように問いかけると、海人はふっと小さく笑みを溢し
「頼りにしてるよ」
と言って海里の肩をぽんと叩いた。
星月夜での個展が開催されるまでの2週間——海人がこの街に滞在することになった。個展の準備をしつつ、久し振りの休暇を楽しむつもりらしい。この機会に海里の部屋に遊びに行きたいと言った海人に
「じゃあ、うちに泊まれば良いじゃん」
と誘いをかけたのは海里だった。
一誠に絶縁を宣言してから1ヶ月——この部屋に染み込んでいる一誠との思い出を上書きする必要があると感じていた。
一誠が何かと理由をつけてはこの部屋で過ごしていたせいでリビング、キッチン、寝室。洗面所や過去の栄光をしまい込んだ物置部屋に至るまで、この家の至る所に一誠との日常が染み付いている。
一緒に暮らしていたわけでもないのに、どこにいても一誠のことを思い出し、その度に胸が痛む。こんな生活はうんざりだと思う反面、綺麗さっぱり手放すこともできない。優柔不断で女々しい自分が嫌になる。
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