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海人との共同生活をはじめてから1週間。この共同生活は想像以上に快適だった。
大学時代から行動を共にすることが多かったこともあり、家から星月夜に行って仕事。星月夜から家に帰ってまったり過ごす、というパターン化した生活でもストレスを感じるどころか楽しく過ごすことができている。
自室で海人と一緒に過ごす時間が増える度に、一誠との思い出が少しずつ上書きされていくのを感じる。人は忘れていく生き物だ。いつかは一誠のことも忘れられる日が来るはずだ。
「ねぇ、海人。これってさ、これとこれで良いの?」
カウンターに向かいハイチェアーに座って作業をしている海人にタブレットの画面を見せる。
「うん。それで大丈夫だよ」
「じゃあ、これをこうして。こっちはこうして。こんな感じでいいかな」
「凄く良いと思う。やっぱり海里はセンス良いよね」
「そんなことない。俺は大学時代から何やっても海人には敵わないよ。どんな自信作を提出しても1番は必ず海人で、俺は次点にしかなれなかった。よし、できた。この調子なら個展の準備もあっという間に終わりそうだね」
「うん。準備が早く終わったらせっかくだし観光したいな。行ってみたいところがたくさんあるんだ。一緒に行ってくれる?」
「もちろん。案内は俺に任せてっ‼︎」
左手の親指を立てながらにっと笑みを浮かべると、カウンターの向こう側でコーヒー豆を挽いている明香と目が合った。その瞳は細められ、何かを訝しがっている様に見える。
「明香さん。なんですか、その顔。何か言いたいことでもあるんですか?」
あまりにも不可思議な表情に思わず問いかけると、首を左右に振りながら盛大に息を吐かれた。
「別にそういうわけじゃないんだけど。海里君って海人さんと一緒にいると良く笑うなぁって思ってただけ」
「そうですか?」
「そうだよ。一誠さんと一緒にいる時はそれこそいつも微妙な顔してた」
痛いところを突かれて言葉に詰まる。明香は一誠のことばかり見ているだろうと気を抜いていたのが仇になった。
「そ、そんなことないです、よ」
「そんなことあるよ。この2人、仲が良いのか悪いのか分からないなぁっていつも思ってた。正確に言うと一方通行って感じかな」
そんな風に見られていたなんて知らなかった。傍目には親しい友人同士に見えるくらいには、自分の気持ちを偽って行動できていると思っていた。明香が単に鋭いだけなのか、誰にでも分かってしまうくらい微妙な顔をしていたのかが気になってくる。
「海人さんも本当に素敵で魅力的だけど、個展が終わったら帰っちゃうし……。やっぱり一誠さんが店に顔を出さなくなったのは悲しいなぁ。一誠さんはうちの大切な常連さんだったのになぁ。一誠さん元気にしてるかなぁ」
恋する乙女さながら、胸の前で両手を重ね合わせたポーズで明香が通りに面したガラス窓に視線を向ける。
一誠が星月夜の大切な常連客だったのは紛れもない事実だ。毎日の様に星月夜でコーヒーを買い、そのついでに明香と世間話をしていくのがお決まりの日常だった。
あの夜を境に一誠は星月夜に訪れることはなく、その理由を作ったのは海里だということに明香も気付いているのだろう。
「すいません」
思わず謝罪の言葉を発すると、明香がゆっくりとした所作で海里を見る。
「私は謝ってほしいわけじゃないよ。一誠さんと何があったのかを説明してほしいだけ。私が2人のことに口を出すのはおかしいって分かってる。でも、知らないのって私だけだよね。海人さんは全部知ってるんですよね?」
カウンター越しにずいっと身を乗り出した明香に、作業の手を止めた海人が困った様に笑みを浮かべる。
「そうだね。僕は全部知ってる、かな」
「やっぱり。そんなのずるいよ。私は海里君の友達じゃないの?毎日顔を合わせてるんだから相談してくれてもいいじゃない。私だって2人が今どういう状況なのか知りたいっ」
「私も知りたい」
カウンターの中で地団駄を踏んでいる明香をどう宥めようかと思案していると、聞き馴染みのある声が店内に響いた。その声はひどく落ち着いていて、かえってこちらの緊張感を高める。
海里はこの声の主を良く知っている。
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