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スターリーナイト
北国の春は、冬の間に身を縮めていた花の蕾を芽吹かせるほどには暖かいけれど、春と呼ぶにはまだ肌寒い。
朝、ベッドの上に身体を起こす時も、職場への行き帰りの道で春の花が蕾を膨らませているのを見上げる時も、北風の残りが首元を静かにくすぐっていく。
「すっかり春だな。最近、気温が高いからもうすぐ咲きそうじゃん、桜」
決して平坦とは言えない坂道を悠々と歩きながら、道の脇に植えられた桜の木を眺めている一誠の背中を睨みつけ、海里は大きめの声で意を唱える。
「まだ咲かないだろ。気温だってちっとも高くない。寒い。まだ、寒い」
首元に纏わりつく北風の残りを少しでも振り払おうと、できるだけフードを深く被り直す。すっかり雪も溶けてしまい、厚手のコートやダウンジャケットを着込んで街中を歩くのにはかなりの勇気を必要とする。
隣を歩いている一誠は、薄手の生地のパンツにTシャツ。その上にパンツと同じ生地のシャツを着て薄手のコートを羽織っているだけというかなりの薄着だ。その隣でダウンジャケットを着込むのは流石に気が引ける。
「あいかわらず寒がりだね、お前」
「寒がりで悪かったな」
「いや、なんも悪くないけど。そんなに寒いならちゃんと巻いとけよ、マフラー。あげたじゃん、去年の秋」
「は?もう雪も溶けたからマフラーなんてつけるなって言ったのどこの誰だよ」
海里の言葉に『どこの誰』が自分のことだと思い出した一誠が、両手に持ったエコバッグを軽く持ち上げ
「ごめん。俺だわ」
と言って高らかに笑い声を上げる。そんな柔らかな一誠の笑顔を見る度、本当にズルイ男だなと思う。
初めて会ったあの時から、何も変わっていない。海里の心をかき乱す笑顔。その笑顔を愛おしいとも、憎らしいとも思いながら、仕事終わりで疲労の溜まった身体に鞭を打ち、それなりに急勾配な坂をダラダラと登る。
視界の先では既に坂を登り切った一誠が、今か今かと海里の到着を待っている。お互い仕事終わりで、置かれている状況は同じだというのに、どうしてこうも歩く速度が違うのだろう。
一誠と出逢ったばかりの頃、彼の肌が透き通るほど白く、顔色の冴えない子どもだったことを話すと
「嘘。全然そんな感じしないね。今、めっちゃ健康的じゃん。体調良くなって良かったね」
と女の子たちが盛り上がる。女の子たちは、色白で不健康そうな一誠よりも、程よく焼けた肌とこれまた程よくついた逞しい筋肉を身に纏い、全身から健康です‼︎というオーラを撒き散らしている一誠の方が魅力的だと思うのだろう。
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