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 寄りたい場所があったので、新橋駅の前で車を停めてもらい、そこから地下鉄の銀座方面に向かった。このまま自宅に帰ったところで眠れないし、何か気が紛れることをしたかった。  ――さっき僕、ナツ、と普通に話してたんだよな。  別れ際に丁寧に挨拶をして、車で降りるまでは役に徹していられた。外じゃなかったら今頃、床を転がってジタバタして、部屋の中を無意味にぐるぐる歩き回っていただろう。今になって、手にじんわりと汗をかいていた。 (ぁ、ナツ……本当、肌、白くて、ツヤツヤで。まつ毛長くて、ぅ。やっぱり、神……だぁ)  目的地に向かう足は自然と早歩きになっている。雑踏を進みながら、しばらく夜風に当たっていると、やっと人に見せても引かれない顔に戻った。朔良の感情を揺らして人に見せられないような顔にするのは、今のところ、この世でナツだけだ。  朔良は、その足で母親の経営しているミニクラブに向かうため夜の並木通りを歩いた。喪服のままだったが周囲にスーツ姿の人が多く特別目立つこともない。  地上八階、地下一階のビルは母の持ちビルで、高校までは場所柄もあり近寄りもしなかったが、大学になってからは何度か足を運んでいた。二階に母の店がある。  裏口から店に入りバックヤードからホールを覗くと、母親が背中の空いた黒のドレス姿で客と談笑していた。とうの昔に不惑を過ぎているが、化粧が上手いからなのか、少しも衰えたように見えない。  親に対して使いたくない言葉だが、いわゆる美魔女って奴だろう。人に好かれる愛想笑いに思わず眉を顰めた。ため息を吐いたタイミングで母と目が合ってしまう。 「――あら、どうしたの朔良、何か用事?」  朔良に気づいた母は、他の女の子に席を任せてバックヤードにやってきた。薄暗い廊下で向かいあうと、母親の白い肌がキラキラと発光していた。何だか悍ましい化け物か何かを見てしまった気分になる。 「用はないけど、店手伝おうと思って。暇だから」 「変な子、いつも用事がないと来ないのに」 「無職だから、社会勉強」  アイドルのナツに会って興奮してるから気を紛らすために来た、などと言えるわけがない。そもそも自分がナツのファンなのも、ましてやゲイなのも母には話していない。 「ふーん。社会勉強って、で、その喪服も社会勉強?」 「多分、そんなところ」  また危ないことしてる、と呆れ声と共に肩をすくめられた。以前、大学の演劇サークルのつながりで、代行会社のバイトをしていると説明はしたが、裏の仕事だと、あまりいい顔をしない。 「危ないことはしてないけど」 「やっぱり朔良って、あたしに似たのかしらねぇ」   真っ赤な口紅の唇をへの字にして女子高生みたいな変顔をされた。 「似てないよ」 「似てるわよ。親子だもの」 「え、どこが」 「恵まれた環境に胡座をかかないところ」  褒め言葉で貶された。働かなくても生きられるのに、と暗に言われている。欲しいと思えば何でも手に入る境遇なのに、朔良は、それをしない。 「もしかしてX建設、入らなかったの怒ってる?」 「いいえ、あなたの人生だもの。危ないことしないなら好きにしたらいいわよ。役者だって、やりたいならやればいいし。普通に働きたいなら働けばいい」 「じゃあ、なに?」 「なんか、あたしと同じところで足掻いてるなぁって、それだけよ」  普通とか些細なものとか、当たり前の「何か」にばかり憧れて執着している。  目の前の母親は、華やかな芸能界にいたのに、働いてお金を稼ぎたくなったからと、今は銀座でクラブを経営していた。芸能関係者がよく訪れる隠れ家的な店は、母の大切な城だと聞いている。  別に働かなくても親の財産だけで生きていける。それなのに、親子揃って、目の前にある楽で安全で堅実なものを、決して手に取ろうとしない。 「仕事探しているならパパに相談したら? 少なくとも、あたしよりは堅実に生きられるわよ。電話したら喜んで飛んでくると思う」 「死んでも嫌。あの人、才能ない人が嫌いなんでしょ。会っても、なんか、いつも馬鹿にされるし」  朔良が間髪を入れずに拒否すると、母親は、元芸能人とは思えない、ごく普通の人みたいな馬鹿笑いをした。バックヤードとはいえ、今の声は店まで聞こえただろう。  芸能人を辞めた母を捨てたのが、朔良の父親だ。子供の頃は何者でもない朔良でも、未来に対する期待から興味を持てただろうが、今の朔良なんて会ったところで虫ケラ以下に思うはずだ。  虫ケラにも、虫ケラなりにプライドがあった。わざわざ笑われるために会いになんて行きたくない。 「かわいそ、あんなに朔良こと溺愛しているのに、一生伝わらないのね」  そう言うと母は店に戻っていった。お客たちとくすくす笑い合う声が背中から聞こえる。どうやら新しい客が来たらしく、また母親の年齢にそぐわない、甲高い声が聞こえた。  そのまま裏のスタッフルームへ入ると従業員の崎田がいた。小さな店なので裏方は崎田一人しかいない。ボーイと言っても年は若くない。目尻が垂れ下がった中年の男だ。ミニキッチンの換気扇の下で、タバコをくわえ、気だるげに天井を仰いでいた。 「おー、さっくん、遊びに来たのか。ケーキあるよ?」  朔良は部屋に入ると隅にある木製のコートかけにジャケットをかけた。振り返ると崎田は久しぶりに孫にあった祖父のように相好を崩した。馴れ馴れしい呼ばれ方は、最初こそ律儀に嫌がっていたが、子供の頃からの付き合いだし、もう最近は諦めている。 「遊びに来たんじゃなくて、店の手伝いです」 「そうか偉いねぇ、じゃあ、そこに置いてる料理テーブルに持って行ってくれる? おっちゃんが顔だすより、お客さんも若い子の方が喜ぶから」  崎田は昔、母のいたアイドル事務所でマネージャーをしていたらしいが、母とどういう関係だったのかは知らない。あまり深く追求したくないし、おそらく、今後も尋ねるつもりはない。物心つく頃から知ってるし、なんなら父親より見た顔だと思う。  父には成人するまで、月に一回の面会日くらいしか会ってこなかった。 「これ、着ていいですか」 「おう、いいよ」  一着だけある店用の黒のベストやエプロンは、自分以外が着ているのを見たことがない。私服で店に出るわけにはいかないので、それに着替えると、鏡の前に立ち、髪を適当にワックスで上げた。 「ところで、さっくん。さっき廊下でミカさんに話してたの無職って本当? 大学で勉強頑張ってたのにねぇ、不況かな」 「別に、不況とかじゃなくて」 「ん、どうしたどうした」  崎田は話題に飢えているのか、若者の悩み相談に乗りたそうに目を爛々とさせていた。付き合いは長いが、悩み相談をするような間柄でもない。  油断も隙もない。危うくあれこれ聞き出されるところだった。  もし話せば、その話題は流れるように母親に共有されてしまうのを朔良はこれまでの経験上、身を持って知っている。 「なんでもないですよ。これ、持ってきますね」  適当に相槌を打って逃げるように、スタッフルームを出た。
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