口の悪いスーシェフ

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口の悪いスーシェフ

「目が覚めたか?」 薄らと瞼を開いたと同時に、耳に届いたのは低めの声。 聞き覚えの無い、耳障りの良い声の主の姿は見えず、視界に広がるのは昼光色のLEDライト。 無意識に右手を額に持っていくと、右手首に巻かれた包帯が目に入った。そして、それと同時にズキッと痛みを感じた。 「いたっ!!」 「右手首と右足首を捻挫している。ショートコントを見るような転び方をしていた」 耳障りの良い声の主は、どうやら横にいた。 私はベッドに横たわり、その横に声の主が座っていた。 「あとは膝の擦過傷が少し。…おい、起きているんだろ?返事は出来るか?」 「…はい。ここは…?」 「ホテル・ザンビアンズ・アザリア。…の、医務室だ。」 天井を見上げている私の視界に、ぬっと現れたのは大柄の男性だった。 切れ長だけど小さくは無い、瞳に光を宿した強い印象を残す目は、威風堂々を表したかのようだ。 鼻筋が通り、形の良い唇から紡がれる声色はこの男性の色気が帯びている。 少し長めの髪の毛は整髪料で整えられ、横に綺麗に流されていた。 身に着けたスーツは男性似合っており、大人の男性の色香を醸し出すのに一役買っている。 「一応、ホテル在籍の嘱託医に診てもらっている。」 「…あの…、さっきの交差点で…」 男性の話を聞いて、もしかして、さっきの交差点で無様に転けた私を助けてくれた人なのではないかと思った。 「右折したら、派手に身体を捻りながら転けたアンタに遭遇した運転手だ」 続いて言われた男性の言葉に、ありゃりゃ〜と内心頭を抱えそうになった。 それはさぞかし驚いた事だろう。かなり迷惑を掛けてしまった。 「ご迷惑をお掛けしま…いったぁっ!!!!」 慌てて起き上がろうとして、右手をベッドに置き、更には右足を立てると激痛が走る。 「…捻挫をしていると言ったはずだが?」 男性は私の背中を支えながらも、呆れたように話す。 はい。聞きました。 自分の情けなさにションボリしながらも、ベッドの上に座ると改めて男性を見た。 少し野性味のある、正に男性って感じの人だ。 私の好みとしては、もう少し柔らかな印象の人が良いが、まぁ今は関係ない。 「…一応、ここの、オーベルジュ・ミュゲでスーシェフをしている谷重将悟という。」 男性はスーツの胸ポケットから名刺入れを出し、滑らかな動きで違和感もなく名刺を差し出した。 動きはビジネスマンの動きなのに、口調は砕けているし、何よりシェフだと言う。 とはいえ、名刺を出されれば条件反射で受け取るのが社会人だ。 先日までは会社に勤めていた私は、差し出された名刺を恭しく受け取る。 名刺には『ホテル・ザンビアンズ・アザリア』『オーベルジュ・ミュゲ スーシェフ』『谷重将悟』と書かれている。 「この名刺を受け取った当日に、こんな形で最初に名刺を渡すとは思わなかった。」 ため息混じりに話す谷重さんに、私は更に申し訳なさを感じる。 私の『運の無さ』に巻き込まれたこの人が可哀想だ。 「…とはいえ、怪我をしている。…何処かに行く予定だったのではないか?連絡する所などあるか?事故から1時間ほど時間が経っている」 「あ、旅行に行く予定だったので、仕事とかは大丈夫です。…キャンセルの手続きをすれば…一人だったので大丈夫です。」 ベッドの横に置かれた丸椅子に谷重さんは腰掛けながら、私の言葉に頷いた。 「では、怪我が良くなるまで仕事は休めそうか?」 「大丈夫です!!…無職なので」 続いた言葉に、私は勢いよく答えてしまう。 そして『あっ…』と言葉を詰まらせる。 『無職』なんて自慢にもならない。恥ずかしい限りだ。 顔が赤くなるのを感じる。 「…それは助かった。これからの事を…少し話をさせてもらいたい。」 『これからの事』とは? 私は首を傾ける。 確かに怪我はしてしまったが、どうにか家に帰れば良いだけでは無いのか? その私の疑問を感じ取ったのか、谷重さんはニヤリと笑った。 その時、私たちのいた医務室の扉が開いた。
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