1397人が本棚に入れています
本棚に追加
広報担当のにこやかな人
「失礼します」
そう言って、谷重さんの横に並んで立った男性。
にこやかに人の良さそうな笑顔を見せる。
「ホテル・ザンビアンズ・アザリアの広報担当、薄井と申します。」
滑らかにお辞儀する所作は、正にビジネスマンだ。薄井さんからも名刺を頂く。
「この度はうちの従業員が大変ご迷惑をおかけ致しました。」
恭しくお辞儀する薄井さんの横で、谷重さんは『アレは俺のせいか?』と呟いている。
言いたい事も分かるので、身が縮こまる思いだ。
その谷重さんに、薄井さんはチロリと視線をやる。『余計な事は言うな』と言う視線のようだが、表情は相変わらず笑顔のままだ。
ちょっと胡散臭い人なのかもしれない。
今の私は『人間不信気味』なのだ。
「…おい、このお嬢さんは『無職』らしいぞ。都合が良かったな」
楽しそうに笑いながら、私の現状を躊躇いもなく話すのは止めて欲しい。
「…谷重さん…少し横で静かになさってて下さい。」
少し笑い気味に話す谷重さんを薄井さんは制止する。
しかし『都合が良い』とはなんだ。
「谷重から怪我については聞いていらっしゃいますか?右手首と右足首を捻挫していらっしゃいます。」
「あ、はい。聞き及んでおります。勝手に此方が転んだのに、大変ご迷惑をお掛け致しました。」
話の流れが分からないものの、謝罪は必要だ。話の流れのついでに謝罪する。
「いえいえ。ちなみに、治療に関わる事は当方にて負担致しますので、しっかり療養して頂けると幸いです。…その、お仕事も今はされていないとの事であれば、此方も安心して療養して頂けるというものです」
『無職』についてまでフォローされてしまった。
しかも何がか自然な言葉運びで、違和感もなく聞き入れてしまう。
薄井さんの柔らかな雰囲気のせいかもしれない。
「…あ、私は斉川優花と申します。仰る通り、現在は仕事に就いていませんので、お気遣いなく。自宅で療養致しますので、特に必要無いです。」
無職とはいえ多少の貯蓄はあるし、まぁ何とかなるだろう。
のんびりそう返すと、二人は自然を合わせため息をついた。
何故?二人のその様子が分からない。
「…斉川さん。右手、右足が使えない状況でおひとりは難しいと思います。あと、お願い事もございまして…」
「お願い事?」
「はい」
薄井さんはニコニコと私に笑顔で話す。
「実は当ホテルのスーシェフ・谷重ですが、勤務初日まであと1週間ほど『無職状態』でして…」
「俺は『無職』じゃねぇだろ」
谷重さんの返しに、薄井さんは『似たようなものでしょ?』と答える。
「丁度手が空いているのでございます。斉川さんのお手伝いをさせようかと思います」
「…は?」
「…あと当方の事情もございまして…」
薄井さんはこの言葉を言うと、少し困ったようなしょぼんとした仕草を見せる。
「…実は…谷重は先日当ホテルの名で雑誌の取材を受けておりまして、3日後にその雑誌が発売される予定になっております。」
その言葉に、私は『はぁ。おめでとうございます』と返す。どう返して良いか分からなかったが、間違いはないだろう。
「ホテルの名も出ている以上、出来れば『交通事故』などの情報が漏洩するのも防ぎたいと考えております。勿論、斉川さんがそのような事をするという話ではありませんので、誤解のないようにお願いします」
途中で『えっ?』という私の声に、薄井さんは即座に対応して話を続ける。
凄いな。反射神経が良いと言うか…。頭良いんだろうな。
ぼんやりそう思いながら、話を聞き続ける。
「まぁ、一石二鳥とでも申しましょうか。手の空いている谷重に生活の一部を手伝わせるので、斉川さんは安心して療養して下さい」
薄井さんは、有無を言わせない笑顔でそう言い切った。
最初のコメントを投稿しよう!