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「ちわす」
「あ、何ー、お昼は禁止だよ」
扉を開けるなり、司書さんは柔らかく笑ってそう言った。
「見に来ただけッス」
「それなら、どうぞどうぞ」
図書委員は、今日は3年生の担当みたいだ。大して人のこない昼休みの初めだからか、受け付けで静かに勉強している。
きょろりと見回すと、あ、いたいた。
「よ」
前までは心臓バクバクだったのに、もう声をかけることに躊躇いはなかった。
が、俺が来たことに気づかない。突っ伏したまま、風でその緑色の髪が揺れている。
ここは図書室だ。大きな声を出したくなくて、ほんの少し上下するその背中にメロンパンを置いた。
もぞ、と動いてしかめっ面を見せる。あ、顔に寝跡。
「デコ真っ赤」
落ちそうになるメロンパンをキャッチして、改めて深山の腕の上に乗せた。
「あ?……お前かよ」
寄せられた眉間のシワが、するりと解けた。眠そうにぐんと背伸びして、メロンパンを「何これ」と鼻で笑う。
「昼食べた?」
「食ってねえ」
「いる?」
「お前んだろ」
いいよ、とぶっきらぼうに言う割に、メロンパンを突き返す動作は緩やかだった。
「いーよ。食ってないんでしょ?外行こうぜ」
昼前に来たのは見えていた。それから1時間は経っている。どうせ余っても俺のおやつになるだけだ。
「だるい」
「図書室はメシ禁止」
「んだよ」
「行くぞ」
腕を引っ張ると、思ったよりも軽く持ち上がった。なんだよ行く気じゃん。先導して図書室から出ると、やはりすぐ後ろに深山が居た。
こう見ると…デカくね?藤城より一回りデカい。
「…何。やめんの?」
「やめないやめない!外行こ」
しまった、圧倒されていた。ずんずん進んで階段を2歩下がる。俺の外への渇望が相当嫌みたいで、深山ははあと溜息をついた。
「無理。ここでいい」
「ええ?」
深山は躊躇なく階段に腰を下ろした。長い脚が3段以上使って放り出されているのを見ると、遺伝子の違いを恐ろしく感じる。
…まあ、パン食うくらいここで良いか。仕方なく隣に座った。やっぱり俺のほうが1段少ない。
「深山デカいよね」
「何が?チンコ?」
「あっは!でかそー」
不意を突かれた下ネタに思わず腹を抱えて笑うと、深山も珍しく笑った。サンキュ、と一言いってメロンパンをかじる。俺もひとまずはこのコロッケ焼きそばパンを胃に仕舞おう。
「…末藤は何で俺居るって知ってんの?」
「え?外歩いてたじゃん。なんか目立つなーって見てたら深山だった」
「あー。なる」
「つか髪ヤバいね?怒られないの?」
初対面の時にあった緊張感は、もう無い。意外と話せるやつだ。口悪いし顔は怖いけど、見た目ほど怒ってない。むしろ怒ってる感じを出せずに静かにブチギレる藤城のほうが怖いまである。
「怒られんじゃね?知らんけど」
「度胸あるー。なんかツヤツヤだよね髪。どーやってんの?」
「…美容院」
「へー、いくらかかんの」
「これは知り合いの練習でやってもらったからタダ。普通にやったら2万」
「えっすご!やば!買い物上手すぎる」
焼きそばパンを左手に持ち替えて、鮮やかな色のついた襟足を触った。女の子がよく遊んでいたリカちゃん人形みたいだ。
「あんま触…」
そこに、階段の下から歩く音が響いた。それが上靴の音だとわかるまで、深山はピタリと動きを止めた。俺はそんな事全く気にしていないので、髪を触り続ける。
隣を女子学生が上がっていった。深山はまたメロンパンをかじり、いよいよ俺の手を退けた。
「あんま刺激すんな」
「デリケートなんか髪の毛も」
「ああ」
「わりわり」
へー、すげーなー。結構おしゃれさんだな。手入れも気にすんのかぁ。
少しの間沈黙があって、それが少し居心地悪くなった俺は、特に話題がないので深山のことを根掘り葉掘り聞いた。流石にうざくなったのか、後半は生返事だ。
「おい。食い終わったんなら戻るぞ」
「えー図書室じゃ喋れんじゃん」
「だからだよ」
「ちなみに、寝るとこでもないでーす」
「チッ」
「おーいー。待てって」
そのままズルズルと引きずられるように階段から上がると、ちょうど図書室の前にある時計に目が行った。
「あ。やば。俺次体育かもしんね」
「あっそ。俺は寝るわ」
「いや寝るなっつの!本読め本!んじゃまた放課後寄るわ!」
どうせ居るんだろうなとそう言い捨て、慌てて階段を登った。なんか深山が言った気がしたが、どうせ別れの言葉だろうと、適当に返事をした。
おにぎりを口に詰め込みながら着替えて外に出ると、もう宇留田や藤城は授業前のグラウンド2周をやり始めているところだった。
「スエちゃん遅ーい」
「宇留田達が早いんだろ」
何故かそこから全力疾走勝負が始まって、体育が始まるまでにはヘトヘトになっていた。
「今日から持久走な」
夏休みに焦げに焦げた体育の繁田茂樹先生―通称シゲキックスが、顔色一つ変えずにそう言えば、ほぼ全員からエーと落胆の声が漏れた。やる気なのは陸上部だけだ。
「だりー」
「最悪」
「お前らもうあと一ヶ月も無いぞ。マラソン大会」
「んでまだあんだよ、令和だぞ」
「つべこべ言うな、俺より速く走れ」
無理だよ、シゲキックスフルマラソン出るレベルじゃん。
文句を言いながらも、結局やるのが男子高校生だ。グラウンドだけだと飽きる上に、外周だと狭い歩道が含まれるので、校舎を回り込むようにして2kmくらいのコースが設定された。
「うっし。勝つぞ」
藤城は割とウキウキしている様子だ。
「誰に?」
「クラス1位っしょ」
藤城は足が速いから狙えるな。俺は走るのキライだからゆっくり行こう。宇留田もどっしりしたタイプだから、まあ、宇留田に負けなきゃいいかな。
「並べー。いいか、男子3周、女子2周だ。タイム置いとくから終わったらメモっとけ」
スタート位置になんとなく並び、先生の掛け声と共に一歩を踏み出した。
おー、流石先頭集団。姿勢いいなー。俺も真似しよう。
ぞろぞろと塊になりながら、グラウンドを一周して、今度は体育館の横に出た。部室棟の前を通って校舎の奥に回り込み、テニスコートを通り過ぎて剣道場に行く。藤城を含む先頭集団とだんだん離れて、俺達は2つ目の集団に紛れ込んだ。
グラウンドじゃないからペース配分が難しい。実際のマラソンコースも学校から飛び出して地域を走るから、たしかに練習にはなっている。
草木で陰って、湿っぽい剣道場の裏を出た。砂利っぽい駐輪場を抜けるとまた校舎が見えてくる。
グラウンドの端から入って、二周してスタート位置に戻るとようやく2kmになる。俺達がグラウンドに入る頃には、藤城はグラウンドから出ていっていた。
はえー、7分切るのか…。
先頭が見える俺達は、それに引っ張られてペースが落ちない。だんだん息が上がってきて、初回だから手を抜くか、見栄張って食らいついていくか、己との戦いになる。
「(疲れた、だりー、あと2周ある、くそー宇留田に負けたくねえ)」
ごちゃごちゃした気持ちのまま、とりあえず遅れないように足を運んだ。2周目に入った安心感で集中力が切れた時、無意識に校舎を見上げると、三階の窓に何やら見知った顔が見えた。
あ、翠色だ。
「(深山じゃん)」
足に力が入る。楽をしたい気持ちより、早く2周目を終わらせたい気持ちが勝った。深山はこっちに気づかなかったようだが、もう一回前を走っていればまた見えるかも知れない。
観客がいると頑張れるタイプなんかな。まあ、サッカーしててもそうだったかも。練習試合だけ気合入るタイプ。
気づくと宇留田もいなくなっており、集団の先頭に一人立っていた。校舎の門を曲がると、はるか先の曲がり角に藤城が見える。必死に追いかければ、追いつきこそしないだろうが、藤城に『やるじゃん』くらいは言わせてやれそうだ。
グラウンドに出ると、藤城もいよいよ陸上部に離されていた。とはいえ、姿勢が良く息が乱れた様子もない。ぽつんと一人で走っている。俺も後ろに数人引き連れながら、独立して走れている。ペースを合わせる人が居ないから少し走りづらい。
グラウンドを回って校舎側に近づくタイミングで、あの窓を見てみた。あ、居る気がする、反射して見えにくいけど。もう一周する間に、俺は何度も窓を確認した。
3周目にちょうど突入した頃に、深山のいる図書室の窓が空いた。
お。やっぱり、深山じゃん。思わず手を振ると、深山も片手で返してくれた。
ラッキー!見てんじゃん!俄然やる気になって、俺の足取りは一層軽くなった。
飛ばしたのが裏目に出て、結局最後にダレて、宇留田には勝ちつつもゴール後にへたり込んでしまった。いつにもなく息が上がっている。くそ、涼しい顔しやがって、藤城め。
「よ。何分?」
そんな爽やかな顔をして聞いてくるな。
「19分…2秒」
「あー惜しい」
「うざ!お前速かったくせに。宇留田は?」
「俺35秒。最後スエちゃんクソ失速してたな」
「飛ばしすぎた」
「ドンマイ」
だっせーの、深山見てんのかなあ。なんか言われたらちとムカつくなー。深山もサボってなきゃ速そうだけど。
と、俺の中ではもう放課後に顔を出す予定になっていた。
「残り時間自由な」
15分ばかり時間が余ったためか、そう言ってボールの入ったワゴンを引き出してきた。
「え!ラッキー!サッカーやろうぜ?!」
「少年かよ」
宇留田に笑われながら一番乗りでボールを取り出して、リフティングして蹴っ飛ばす。同じサッカー部の他クラスの奴が受け取ってくれて、なんとなく人が集まって、なんとなくチームに分かれて。結局その後、深山の顔なんてちっとも見なかった。
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