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よく晴れ上がった空の下、巻いた筵を両脇に抱えた男たちが、桜の林へ続く道を何度も行き来している。遠くから望むと蟻の行列にも似たその光景を庄屋である源之丞は複雑な面持ちで眺めていた。
「とりあえず村の者には小童の悪戯だったと伝えていますが……しかし、桜の物の怪とはねえ」
腕を組んだまま振り返った源之丞の眉間には深いしわが刻まれている。数日前、藤之助から聞いた話が未だ信じられないと言わんばかりの表情に、藤之助も苦笑いを浮かべるしかない。
「逆の立場なら私も同じ事を考えます。しかしこんな嘘をついても仕方無いし、私も未だに化かされていたんじゃないかと思ってるんです」
「倉橋様を疑う訳じゃありませんよ。実際、あの夜から人影を見たって話がぱったり止みました。感謝してもしきれません」
「大したことはしてませんよ」
物の怪と言ってみたものの、藤之助自身あの少年が妖の類であると未だに信じられず、彼が花見に参加するかもしれないという話は源之丞に伝えなかった。とにかく奇妙な人影はいなくなり、桜が満開になる頃には村の雰囲気も花見一色になっていた。
有名な厚木の花見を見てみたいと願い出た藤之助に、「もちろんですよ。今年は盛大にやるつもりですからね」と、源之丞は二つ返事で承諾した。
かくして花見の準備が夜明け前から行われ、桜を取り囲むように並べられた筵の合間に太鼓が置かれ始めていた。村の女性は陽が登る前から料理作りに精を出しているらしく、煮物らしい香りがここまで微かに漂っている。やがて握り飯や焼いた魚がこれでもかと運び込まれてくると、早くも祭りのような騒ぎがあちこちから聞こえ始めた。
雲ひとつ無い青天の下に広がる桜の薄い白が、まるで雲海のように野原一面に広がっている。時々誰かの嬌声が弾けては、白に霞む空へ消えてゆく。なるほどこれが厚木の桜かと、季節に疎い藤之助ですらため息が出るような風情だ。
誰かが琴をかき鳴らし、その音にあわせて大地を震わせる太鼓の拍子が響いた。村の若い女性たちが踊り始めたのを見て、やんやと囃し立てるのは男たちだ。その側を、折れた桜の枝を手にした子供が駆け抜けていく。
誰も彼も日々の営みを忘れ、あちこちで笑い、酔いしれている。頭上に広がる桜はその一時の酩酊を許すように朗らかに枝を広げていた。
浮かれ騒ぐ人々を眺めながら静かに盃を傾けていた藤之助は、視界の端から現れた人影を見てギョッとした。
間違いない、あの少年だ。
桜と言うより濃い桃色の着物を着た少年が、出鱈目に手や足を突き出して踊っている。お世辞にも上手とは言えないが本人は至って真面目な表情だ。
見慣れない少年の存在に気がついたのか、周囲の大人達がその奇怪な踊りを見て笑い始めた。
「うわははは!なんだありゃ!おい、坊主!どこの子だ?」
「腰が入ってないぞ!蛸みたいな踊りだな!」
「そんな風に言うこと無いじゃない。一生懸命じゃないのさ。ほら、前見て、前!」
真剣な眼差しで踊る少年の姿を見て、周囲の村人達も野次を飛ばす。やがて少年の奇妙な踊りに合わせて笛や太鼓が鳴らされると、村人の一人が彼に白い衣を投げ入れた。少年は一瞬困惑したように立ち止まったが、直ぐに衣をひらひらさせて踊りだして、観衆からは一層の笑いが巻き起こった。
「いいぞ!これぞ桜の舞!」
「もっとやれー!」
集まった人々の喝采の中、少年は厚木の大桜の根本に辿り着くと、その場でくるりと回って群衆を見渡した。
手拍子はまだ続いている。踊り続けていたにも関わらず息一つ切らしていない少年は、自分に向く村人達の顔を眺めて「ああ、」と声を漏らした。
「なるほど……そうか」
始めて少年の顔に笑みが浮かぶ。春の空に似た、晴れやかな笑みだ。
満足そうに桜を見上げ、人々を一通り眺めた後、少年は得心した様子で頷いた。
「うん、確かに綺麗だ。これが春、これが花見か。ありがとう!俺、わかったよ!──あぁ、楽しいなぁ!」
唐突に少年が持っていた衣を天高く投げる。ひらひらと舞い落ちる衣は、途中で幾万の桜の花びらとなって人々の頭上に降り注いだ。
そして村人達の目の前で少年は消えた。まるで風に溶けた様にふっといなくなってしまった。
一瞬の間の後、花見の場は大騒ぎとなった。幽霊だ!いやあの子は神様だったんだ!と青ざめる者や、大桜に向かって手を合わせる者まで現れる始末だ。いつまでも落ちてくる桜の花びらを中を、人々は右往左往して今見たものの正体を語り合っていた。
ただ一人、彼は幽霊でも神でも無く、物の怪と言っていたんだけどなぁと複雑な顔をしていた藤之助の盃に、ひとひら、桜の花弁が舞い落ちる。
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