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その夜、藤之助は愛刀を腰に下げ、厚木村から少し外れたところにある桜の林に向かっていた。
三日月が薄く光を放つ夜だった。提灯を掲げているが、その他に明かりは一切見当たらない。
厚木の桜は、田畑の途絶えた広い土地に、こんもりと山のように広がっていた。その中でも特に大きいものは厚木の大桜と呼ばれ、毎年満開の桜の下で踊り自慢の村人たちが得意の踊りを披露する。神社に奉納できるほど美しい乙女の舞いもあれば、ひょっとこ達による腹踊りもあるとあって、祭り好きの人々は感涙に咽び泣き、また息ができなくなるほど笑い転げる桜の下の踊りを楽しみに生活していると言う。
藤之助は歩きながら、自慢気に桜の事を話す源之丞の姿を思い出していた。
『あれは見てみないとわからないと思うんですがね。毎年、奇妙な気持ちになるんです。あの大きな桜の下で笑い転げる百姓達を見ていると、心の底から幸せな気持ちになるんですよ……』
なるほど。これほどの大きな桜が満開になれば、浮かれ騒ぐ気持ちになろうというものだ。藤之助は大桜を見上げて感嘆の息を吐く。枝葉の見事さだけ見ても、厚木村の人々がこの桜を大事にしていると伝わってきた。
蕾はふくらみかかっており、あと数日もすれば十分に花見ができるだろう。自分が『夜の桜を見てきたが何の問題もなかった』と源之丞に伝えるだけでいいのだ、化け狐退治を期待されている訳ではない。
藤之助の考え通り、林立する桜には何の異変も見当たらなかった。念の為にあちこち歩き回ってみたものの特段変わった物も見当たらない。
やはり本当に何かを見間違えたのだろうと結論づけた藤之助が踵を返したその時、視界の端に何やら白いものが掠めた。
咄嗟に提灯を掲げ「誰だ!」と怒鳴る。いつでも刀を抜けるよう右手を柄にかけたまま誰何するが何の反応も無い。見間違いか?しかしあの白い影はとても動物には見えなかった。
もう一度「出てこねば斬るぞ」と脅すと、漸く桜の幹の裏側からか細い声が聞こえてきた。
「わ、わかった。出てくる。出てくるから斬らないでおくれよ……」
藤之助が掲げた提灯の先に、裸足の少年がおずおずと現れる。あまりの素直さに藤之助は拍子抜けした。
「子供か?こんな夜更けにここで何をしている」
この子供が毎晩花見を楽しみにしている村人に悪戯を仕掛けていたのかと思うと、言葉の端々に怒りが滲む。藤之助の怒りを感じたのか、少年は震えながら頭を下げた。
「ごめんなさい!人間を驚かすつもりはなかったんだ。本当だよ。俺はただ……」
「ただ、なんだ」返答次第では拳骨の一つやふたつ食らわせてやろうと構えていた藤之助だが、少年は思いがけない言葉を返した。
「ただ、どうして人間は桜を見て騒ぐのか、知りたかっただけなんだ」
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