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少年は名前を名乗らなかった。それでいて、自分は桜の妖怪であると主張して譲らなかった。少年があまりにも真面目に言う為、藤之助も呆れ果て、終いには怒る気力を失くしていた。春の陽気に当てられて意味不明な事を言い始める輩もいるのだ。
少年は、花が咲く頃に人間が集い、笑って騒ぐのは何故なのか、ずっと知りたかったのだと言う。
一体何がそんなに楽しいのか、いつか自分もそれを確かめてみたい──。そう願い続けていた少年は、ある日不意に『自分が桜である』事に気がついた。
人間は自分を見て騒いでいたのだと気がつくと同時に、ますます何が楽しいのか知りたくなった。彼は長い年月の中で、枝に止まりに来る鳥や獣たちから情報を集め、様々な試みの末に、とうとう人間へ変化する術を覚えたのだ。
桜の妖怪は大喜びし、それから人気のない夜には度々少年の姿に成って、人間の様に見様見真似で踊ってみた。
「……ところが、全く面白くないんだよ」
それまで目を輝かせて語っていた少年が、急に肩を落とした。
「さっぱりわからない。人間は何が楽しくて花見なんてするんだ?何が楽しくて、あんなに笑い転げているんだろう」
話半分で聞いていた藤之助も、少年があまりに暗い顔をするので流石に可哀想になってきた。元よりこの少年が桜の妖怪だなどと言う妄言を信じるつもりは無い。目の前の少年はどこからどう見ても普通の子供なのだ。
藤之助はなるべくこの少年を傷つけないよう言葉を選んだ。
「そうさなぁ。そもそも花見は楽しいものだが、無事に冬を越せた祝いの意味もあるし、満開美しい桜を愛でるという意味もある」
「うつくしい?桜が?」
少年は心底不思議そうに首を傾げた。
「そうとも。満開の桜の勇壮さと儚さと言ったら……いや、某が説明するのも野暮と言うものだな。そうだ。お前も花見に参加したらわかるんじゃないか」
少年は目を大きく見開いた。
「俺が?花見に出ていいのか?」
「別に悪さをしなければいいんじゃないのか。この村の花見は盛大と聞いているし、子供の一人や二人増えても問題無いだろう」
「ああ、お侍さん、ありがとう!俺、もう誰かを驚かせたりしないで、花見の日までじっとしておくよ!」
それがいい、と藤之助が答える前に、突風が桜の林を駆け抜けた。舞う砂埃に思わず目を閉じる。
風が収まり、藤之助が瞬きして辺りを見回した時には、少年の姿はどこにも見当たらなかった。
──本当に桜の物の怪だったのか。それとも手の込んだ悪戯か。
背筋に寒いものを覚えながら、藤之助は桜の林を後にした。
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