第15話

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第15話

 二葉は、驚きのまま三角座りをしたまま同僚たちを見上げた。  橘はともかく、田端はわかっていてやってきたといった様子で、空っぽのブルーシートの上で座り込んでいる二葉を見て、「一人っきりで可哀想。売るものもなかったの?」と含み笑いをしながら口元を歪めていた。商品も何もない状態だったから、まさか全部売り切れたとは考えず勘違いをしているらしい。  そういえば、二葉が持っていたフリマのチラシを見られていたことを思い出し、なるほどと心の中で頷く。「おい、離れろよ」と橘は田端の胸から腕を引き抜き、距離をとった。「なんでもないから」とどこか早口で二葉に声をかけて、そのまま去っていってしまった。  田端も橘の背中を追いかけたが、途中ちらりと振り返って、やっぱりにやりと笑った。  色んな思惑がありそうだが、二葉としてみればどんな反応をすればいいのかわからなくてちょっとだけ困る。  そうした後ですぐにユウとアッキーがやってきた。パックに入ったやきそば、たこ焼き、飲み物とお祭りには欠かせないラインナップばかりで、荷物を持って場所を変えることにして、ミモザの木の下で食べるご飯は格別で、楽しい思い出ばかりになった。さすがに次の参加は勘弁やでとユウがアッキーに言っていたので二葉も頷いたが、でもやっぱり、一年後くらいにはまた来てもいいな。と思ってもいた。こうして、みんなで綺麗なミモザの花を見たいとも願った。  次の日、会社に行くと珍しく田端が何度も話しかけてきたし、橘から無意味な内線もかかってきたが、「仕事中ですので」と伝えて電話を切った。二葉の内線には事務手続きの確認のために各部署の人から連絡がくる。無意味な時間を使って他の人の迷惑をかけたくなかったし、効率よく仕事を進めないと、残業時間が発生してしまう。水曜日に【自由時間】に行くためにはこんなことをしてられないのだ。  そうこうしている間に、また一週間が経過して、土曜日になった。ちょっと前からカレンダーには、赤印でこの日の予定を書き込んでいた。  ざわつく駅の雑踏の中で、ふう、と二葉は緊張して息を吸い込んだ。  腕時計を確認したが、待ち合わせにはまだ時間がある。だからまだ落ち着いて……と自分の胸をさすりながら待ち、しばらく。改札口を通る一人の女性に声をかけた。 「鳩美さん!」  彼女はきょろきょろと周囲を見回していたが、二葉の姿に気づき、ぱっと顔を明るくした。ショートカットの丸顔で、笑うととても愛嬌がある。高校生の息子がいるなんて思えないほどに小柄で童顔だ。 「二葉、久しぶり!」と低い背を伸ばすようにちょこんとつま先立ちをして、ぱたぱたと大きく手を振る彼女がいつも通りで、ちくりと痛むような罪悪感と同時に、懐かしく温かい気持ちが溢れた。 「鳩美さん、せっかく千葉から来てくれたのに本当にこんなところでいいの?」  荷物も大変だったろうし、と気遣うように二葉が声をかけると、「もちろん! 家じゃでっかいやつらを放って行く機会もないし。それに二葉のお家でっていっても掃除とか出迎えの準備とか面倒でしょ? 別にそんなこと気にしてくれなくてもいいんだけどさ」と、ころころと笑う。  二葉と、叔母の鳩美は駅近くのカフェに移動していた。店内でも席は余っていたが、せっかくのお天気だからと鳩美はテラス席を希望した。コーヒー専門のチェーン店で二葉も何度か利用したことがある店だったが、メニューを見てわたわたしていたところを後ろから鳩美がはきはきと店員に質問していつの間にか注文が終わっていた。  そんな相変わらずな、はっきりとしてさっぱりとした叔母のことを二葉は心の底では憧れていてすごく好きだった。物心つく前に母を、そして中学二年生のときに父を亡くして行く先もない二葉を引き取ると真っ先に声を上げたのも彼女だ。鳩美には、感謝してもしきれないと思っている。  でもそんな明るい彼女と、その家族たちに囲まれていると唐突に胸がぎゅっと痛くなることも多かった。逃げ出して、一人になりたかった。でもそうすることは鳩美たちを否定するようでずっと、ずっと苦しかった。こんなことを思う自分なんて消えてしまいたい。そう何度思ったことか。二葉の声が小さかったのは、きっとそんな無意識があったのだろう。 (でもユウさんが、言ってくれた。私は鳩美さんが嫌だったんじゃない。ただ、一人も好きなだけだって。みんなといるのも好き。でも、そうじゃないときも好き)  この数ヶ月。二葉の中で少しずつ、毎日の中で降り積もったものがある。それはほんの少しの勇気だ。ユウの言葉をきっかけに、二葉は前を向くことができた。鳩美と向き合うことができた。  けれど就職をしてから鳩美の家に行く勇気がなくて、逃げてばかりだったから会うのは久しぶりで、やっぱり緊張してしまう。 「どう? 元気にしてる? 風邪とかひいてなかった?」 「私は大丈夫。鳩美さんは?」 「毎日元気よ! でも家には男ばっかり! 二葉がいないと、寂しいわ。……ごめんなさいね。こんなのいつも電話で話してるのにね、私も緊張してるみたい」  鳩美は、きゅっと口元をひきしめた。いつもにこにこと笑っている彼女も、二葉と同じように思っているのだろうか。そう思うと、なんだか不思議で落ち着いてくる。 「これ、この間二葉が頼んでくれたやつ。棒ってこれのこと?」 「うん、そう、ありがとう! ほんとにあったんだ……」  ゆっくりと二葉は手のひらを伸ばした。そして、しげしげと見つめる。  ――鳩美が鞄から取り出したのは、茶色い二本の棒だった。編み物をしない鳩美は不思議そうな顔をしているが、今の二葉にならわかる。これも、編み物の道具の一つだ。 『もしかしたらやけど、棒編みも、どっかにあるかもしれへんな。知らんかったら見かけはただのほっそい木の棒やし』 「ユウさんが、言った通りだ」  二葉が父の形見だと思っていたものは、格子柄の入れ物に入っていたかぎ針だけだと思っていたけど、記憶の中の父は二葉のためにセーターや、マフラーを作ってくれた。そのデザインが、どうしてもかぎ針だとできないものだと気づいて鳩美に確認してみたのだ。すると案の定、父の遺品の中に紛れていたらしい。 「私が鳩美さんの家に行くって電話したのに、ごめんね」 「何言ってんの! こっちに来るって押し切ったのは私でしょ! うふふ。休みの日に出かけるなんてこと主婦はそうそうできないからチャンスは逃さないのよ」  ぱちん、とちょっと下手くそなウィンクつきだったから、つられて笑ってしまう。 「あとは、二葉が子供の頃に着ていた服も私がとってたのよ」 「これ、覚えてる。懐かしい」  真っ赤な色合いが可愛らしい小さなセーターだ。丁寧に棒針で編まれていて、今となったらこれ一つにどれほどの時間がかかっているのか、大切に編まれたものなのかよくわかる。それなのに、男の人が編み物をするなんてとクラスの友人にからかわれたことが恥ずかしくて、二葉は父が作った服に袖を通すことはなくなった。  思い出すと、つんと鼻の奥が熱くなる。ひどいことをした。柔らかい生地をそっと握りしめ、喉から込み上がりそうな嗚咽を呑み込む。 (お父さんが作ってくれた服は、好きだったのに。いつか、素直になれたら言おうと思ってた。でも、そんなときは来なかった。そのとき、言わなきゃ駄目だったのに)  どれだけ後悔しても、時間が巻き戻るわけではない。性別なんて関係ない。編み物は、手芸は、素敵で楽しい趣味で器用な父が本当は自慢なのだと、きちんと伝えなければいけなかったのに。ず、と鼻をすする音が聞こえた。自分かと思ったら、鳩美だった。二葉と鳩美はお互いに同じような顔をしていて、指の先でわずかな涙をぬぐって、目を合わせて苦笑いする。 「鳩美さん、ありがとう。捨てられちゃったのかと思ってたから、こうしてもう一度父さんが作った服を見ることができて、すごく嬉しい」 「捨てるわけないじゃない! だって、こんなに丁寧に作っていて、可愛くて……。子供の服って不思議よね。並んでいると木の葉みたいに小さく見える。でも、ちゃんとしっかりと形になってるんだもの」 「本当に。デパートとか、ショッピングしているときに子供服のお店を通ったら、思わずびっくりしちゃう。すっごく小さいのに、しっかり作られてるんだって!」 「わかる、わかる!」  きゃっきゃと笑うように声を上げて鳩美と話した。もしかすると、こんなことは初めてのことかもしれない。それから仕事のことや、世間話、最近編み物をしているということ。話題は尽きなかった。楽しい時間はあっという間だった。テラス席の明るい光の中で美味しいコーヒーをゆっくりと飲んで話していると、とうとうきたか、という話題に移り変わってしまった。 「それで、最近彼氏さんとはどうなの?」 「あ、うん……」  彼氏と付き合うようになった、ということは鳩美に電話で話してしまっている。その彼氏、いいやすでに元彼となってしまった人は、今は二葉の同僚と付き合っている……と、いうことは中々言えない。色々心配をかけているという自覚があるため、あまりの言いづらさに喉の奥ががくん、と詰まってしまった気分だ。 「……ごめんなさい、もう結構前に、別れてました」  でも正直に伝えた。むしろ、やっと言えたという気分だ。付き合って、なんのイベントもなくお別れしました、とそこまで言う勇気はもちろんない、のだが。  鳩美はぽかんとした顔をしていた。 (そうだよね、早すぎだよね。でもこの間の田端さんと一緒にいるところを見ても、なんのショックもなく……ふられたのはこっちだけど、好きじゃないのに付き合って橘先輩にひどいことをしたと思うから、ふってくれて、よかったと思っているくらいで!)  頭の中は悶々と饒舌に会話しているが、実際の二葉は口元を一文字に引き締めて気まずそうにテーブルの上を見ているだけだ。というか、結構前に、と正直に言ってしまったが、そこまで言う必要もなかったな!? と後悔で暴れまわりそうだ。 「え、そ、そうなの……?」  困惑している声だ。だよね、と頷く。こんなの初めから彼氏ができたことを秘密にすれば良かった。でもいつも心配してくれていたし、安心させたくて……と、やっぱり心の中は言い訳ばかりだ。 「もしかして、私がいつも口うるさかったから、言えなかったの!?」 「でも鳩美さん、私別れたことに後悔はなくって、全然、あの……え?」 「彼氏できたの、とか。私、何度も聞いちゃってたわ……!」  鳩美はなぜか真っ青な顔をして、わなわなと震えている。どうしたんだろう、とぱちぱち瞬いてると、二葉が否定をしないことから確信を深めてしまったようだ。「あの、違うよ、そんなことないよ!」とはっとして伝えても遅かった。「ごめんなさい!」と鳩美はそれはそれは見事に頭を下げた。彼女の小さな両手が、テーブルの上にちょんと重なっている。 「言うわ! ちょっと待って、持ってきたけどやっぱりどうしようって思ってたの、言うわ!」 「ひえっ、あの……?」  そして鳩美は勢いよく跳ねたように、ものすごい速さで顔を上げた。二葉は思わず椅子の背もたれにのけぞった。 「二葉が、この間電話で、編み物の道具で棒みたいなものが残ってないかって聞いたときに、多分あるって答えたでしょ? それで兄さんが二葉に作った服もちゃんと取ってるって伝えて、他にも編みかけのものもあるって言ったじゃない」 「う、うん……」 「あのときはうっかり言っちゃって、しまったなって思ったの。だから今日もどうしようと思ってて」  二葉は持ってきていた鞄のファスナーを開きつつ早口で説明する。そうだ、鳩美に、父が編みかけたものも残っていると言われたから電話では驚いて、『えっ。そう、なの……?』と変な声を出してしまった。  編み物好きだった父が残した、最後まで編むことができなかった作品。父の気持ちを想像して、鳩美から話を聞いた後に何度も色んなことを考えてしまった。ユウに、おかしなことを尋ねてしまうくらいに。  編みかけのものを誰にも触られたくないとユウは言っていたし、誰かに見られたいとも思わないだろうともう忘れようと思っていたことだ。  しかし鳩美はきゅっと口元を引き締め、えいやと鞄の上に引きずり出した。  ――とても綺麗なレースだ。  まず思ったことはそれだ。  大事に保管されていたのだろう。真っ白な色合いには変色一つない。万一がないようにと飲み終えたコーヒーを載せていたトレーを端に寄せて「これが、どうしたの?」と顔を近づけて見てみる。そして、はっとした。確かに頭部分は既製品のレースで出来ているようだが、途中からはとても細い糸でしっかりと編み込まれている。 「これ、もしかして、お父さんが……?」 「そう、すごく、細かいでしょ」  向こう側が透けるほどに、繊細なレース編みだった。  すでに大部分は作られているようだが、残念ながら途中で終わっている。糸も切られていない状態で、材料がなくて終えたというわけでもないらしい。つまり、と自然と二葉の顔がうつむいていく。  でも、と不思議な気持ちも溢れてくる、顔を上げると、鳩美は困った顔をしていた。一体、なんのために父はこんなものを作ったんだろう? 「兄さんったら、二葉の結婚式のヴェールにするつもりで作ったみたいなのよ……」 「へぇ、ヴェール。あの花嫁さんの頭にかぶる……って、ええええ!? 待って、私父さんが死んだときまだ中学生だよ!? あ、相手もいないし、っていうか、そういう年でもないし!」 「そうよねぇ。兄さんがまだ生きてるときに電話で『最近は二葉の結婚衣装を作ってる』とか言うから、私も同じことを言ったのよ! そしたら兄さんも自分もそう思うって笑ってたわ。使ってくれるかも、そもそも使う機会もないかもしれないけど、二葉のものを作るのが楽しくって、デザインを考えたらうっかり作り始めてたって」  最近どこかで同じようなことを聞いたような気がする。編み物好きはみんなそうなのだろうか。そして自分もそうなってしまうのだろうか……と一瞬遠くを見つめてしまう。 「でもほら、兄さんもまさか自分が死んだ後にこれだけ残るなんて思わないじゃない? 私もじゃうっかり編みかけのものも残ってるって言ってしまったけど、しまったわって電話を切った後に後悔したのよ。二葉もびっくりさせてしまうと思ったし……」 「あの、びっくりは、してるかな」 「そうよね。わかる。でも、作りかけでも、すごく綺麗で。片付けたままにしておくことも、もったいなくて」  なんとなく、鳩美が言いたい意味はわかった。  価値があるから、もったいないと言いたいわけではない。美しいものが日の目を見ることなく埋もれてしまうことは辛い。そう思うほどに、持ち上げてみると光が透き通って降り注いでくるような、美しさがあった。 「もしそんな機会があったとして、花嫁衣装なんて自分で選びたいものだもの。兄さんだって、本気で考えてたわけじゃないと思うの。二葉には教えていなかったわけだしね。でも、それでも、きっと兄さんは、いつの日かあるかもしれない二葉の花嫁姿を楽しみにしてたのかもって、これを見ていると、私が、そう、勝手に考えてしまって」  ほんの少し、鳩美は声を震わせた。そして、す、と息を吸い込んで、「ごめんなさい」とまた二葉に頭を下げる。 「兄さんが見たかった二葉の花嫁姿を、写真だけでも兄さんのお墓に見せてあげたいって思ってたの。でも、でもね、私だって結婚して、子供を産んで、二葉もいてくれて、すごく幸せな毎日よ。でも、大変なことはもちろんあったし、結婚が絶対に幸せなことなんて言い切ることはできない。そんなの、人それぞれだもの」  だからね、と言葉を置いて、鳩美は二葉の瞳をじっと見つめた。 「二葉は、二葉だけの幸せを探してくれたらいいの。それだけでいいのよ」  ぐらぐらと、目の前が揺れているようだった。 「でも、私」と、勝手に声が上ずってくる。今までここだと立っていたはずの場所が、全然なんの意味もなくて、一人勝手に勘違いをしていたのだと恥ずかしくて、目頭が熱くなる。首を振った。  自分が幸せになるなんて、そんなことがあっていいはずがないと、なぜだか何度も叫びたくなる。どうしてだろう。 「お、お父さんが、作ってくれた、服を、私は嫌がって……」  そうして逃げているうちに、父は事故であっけなく死んだ。自分のせいなように思った。自分が、もっと父を大切にしていたら。 (私のせいで、お父さんは死んでしまった)  そんなことない、とわかっている。二葉に直接の原因はない。それでも、もっと自分が父を大切にしていたら結果は違ったのかもしれないと、母の姿さえも覚えてない二葉にとって、まるで自分自身が呪いのようにも思えた。  だから、ずっと編み物を避けていた。父を知りたいと編み物をして、楽しい気持ちを持つ度に罪悪感が膨れ上がって、胸が締め付けられるように痛くなる。忘れかけていた気持ちが、むくり、むくりと大きくなり、今すぐに逃げ出したかった。 「私が嫌がったから、お父さんは、私の服を作らなくなったと、思うから……」  父の楽しみを奪ったくせに、自分だけが幸せになるだなんて、そんなことが許されるわけがない。 「……作らなくなったってどういうこと?」 「え? あの、私がお父さんが作ってくれた服を、嫌がったから、お父さんは編み物をしなくなって、あれ、でも、これ……」 「兄さんが編み物をしなくなった? 何言ってるの。じゃあなんでこのヴェールが、こんなところにあるのよ?」  その通りだ。二葉はきょとりとして気を抜くとこみあげてきそうな涙を、ごくりと呑み込む。 「というか、あの編み物バカがちょっと否定されたくらいでやめるわけないじゃない。それに、逆よ逆」 「ぎゃ、ぎゃく?」 「二葉が嫌がったから服を作るのをやめたんじゃないの。兄さんが作るのをやめたから、二葉が兄さんが作った服を着なくなったの」  結局、なんの違いもないように思って瞬くと、「あのねぇ」と鳩美は呆れたように腕を組んで、ふるふると首を振る。 「あなた、ものすっごく暑がりでしょ。大人になってもそうなんだから、子供の頃はもっとひどかったじゃない。それでも兄さんが編んだ服だからって真っ赤な顔で無理して着るから、やめたって言ってたわよ」 「え……? でも、私の記憶だと」 「それって何年前のことよ。小学校三年生とか、四年生とかそれくらいでしょ? そんな頃の記憶だなんて、曖昧に決まってるでしょ!」 「そん、え、ええ……?」
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