第19話

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第19話

「わー、いいお天気になってよかったですね」 「ほんとよねー! ああんいい場所とれてよかったー!」  ぱちぱちと両手を合わせる二葉に肯定してくれるのは、今日も元気なアッキーだ。美智代やサチ、ユウはすでにシートの上に座っていて、それぞれ持ってきたお弁当を食べている。頭の上では、河川敷には春満開の桜が咲き誇り、まるで木の上に、わっさりとピンクの雪が降り積もっているようだ。風が吹くと可愛らしい花弁がちらちらと風に乗り、ぽとりと川に落ちて、さらさらと流れていく。太陽の光で、きらきらと川は輝いていた。  桜の季節になったらお花見をしよう、と言っていたのはサチだ。死んでしまった夫を思い出すことが辛くてずっと本物の桜を避けていたとも言っていたから心配していたのだが、ついてすぐに「綺麗ですねぇ」と嬉しそうに瞳を細めていたから、ほっとした。  美智代は美智代で、「自分のためにお弁当を作るなんて久しぶりで楽しかった」とにっかり白い歯を見せ笑っていて、ユウはいつも通り丁寧で、可愛いお弁当である。アッキーはまさかのハンバーガーで、ポテトつきだった。自由だが、美味しそうなのでこういうのもありかもしれない。  二葉も昼食はいつもパンを買っていたので、お弁当を作るのはほぼほぼ初めてで、そもそもお弁当箱がなかったので慌てて買いにいった。早起きをして作るご飯は大変だったが、慣れたらこれはこれでなんとかなりそうだ。せっかくだし、たまには会社のお昼にお弁当を持っていってもいいかもしれない。難しいそうだが、ユウと同じくお弁当袋を手作りして……と、夢が膨らんでいく。  初めは五人しかいなかった花見だが、いつの間にかどんどんと人は増えてきた。名前も知らない人もちらほらいるが、全員が【自由時間】の常連らしい。「シンちゃーん! あなたまたこけちゃったの!? 絆創膏持ってる!?」とアッキーが悲鳴を上げている声も聞こえる。大丈夫だろうか……?  お弁当も食べ終えて満足した気分でお腹をさすっていると、いつの間にか隣にいたのはユウだった。ビニールシートの上で靴を脱いで、片足を投げ出すように座っている。 「お弁当は食べ終わったの?」 「まあ、飯食うよりも花を見に来たつもりやから、そんなに作ってへんかったし」  そう言って、ぼんやりと桜の木を見上げる。 「……あれから、大丈夫なんか?」  実はこうしてユウと話すのは久しぶりのことだ。自宅でレース編みを続けていた二葉は中々【自由時間】に行く機会がなく、橘のことがあった次の週にはユウは、二葉たち総務部の四階から二階――つまり、もとの営業部に戻ることになったのだ。  もともと席だけを移動していただけで仕事内容も変わらず、総務部と営業部の橋渡しのような勉強期間としていただけなのだ。むしろ三ヶ月近くの期間と長いくらいだったと思う。  ユウが総務部から消えると、二葉の環境は一変した。個人がどの程度の仕事を持っているのかを常に上席が把握するようになり、さらに誰が、どの仕事をできて、できないことがあるのかの可視化が行われた。できないことが多くある人間は毎期ごとに、ある程度の成長がなければ評価にも関わってくるらしく、今まで二葉にまかせっきりだった周囲の人々も毎日あたふたとしている。  ただ、できなかったことがある日いきなりできるようになるわけではない。ならどうしたらいいかというと、一番簡単な解決方法はできる人に教えを請うことだ。二葉を無視していた田端の周囲の人たちも自然と二葉に話しかけるようになり、あれこれ教えてほしいとお願いされる。ユウには怒られてしまうかもしれない、と思いつつも相変わらず二葉はどんなことでも自分にできる限り丁寧に伝えた。それが周り巡って、いつかは二葉のためになると思っている。  田端と橘の二人が、お互いにどんな話し合いをしたのかは知らない。相変わらず田端は二葉にいじわるだがもともと気にしていないし、橘が内線をかけて業務の邪魔をすることはなくなったのでそれでいいと思っている。  話す必要のない人たちというものは存在する。そんな人たちに、限りある人生の大事な時間を割くことは、もったいないことだ。  それよりも二葉は、楽しいことや、幸せなことに目を向けて生きていきたい。  じっと考え込んでいた二葉を見て不安になってきたのか、「ど、どうしたんや? 僕、やっぱりいらんことしてもうたか?」とわたわたしていたので、慌てて首を振った。 「ううん、そんなことない。むしろ、ユウさんにはお礼を言わなきゃだめだなぁって改めて考えてたところ」  正直な気持ちを伝えると、ぴたりとユウは動きを止めて、「別に、なんにもしてへんわ」とつんと口を尖らせながらそっぽを向いている。マイペースなのに照れ屋という難しい人だ。忍び笑いをしたつもりだったのだが、気づかれてしまったらしい。むっとした顔をしたユウが、訝しむようにこちらを見ていた。 「それより、レース編みや。ちゃんとできたんか?」 「もちろん! 実は今日の朝できたばかりなんだ。それですぐにユウさんに見てほしくて……」と、二葉は急いでお手拭きで両手を拭って、近くになった自分の鞄を手前に引っ張り、中身をあさってむふりと笑う。 「……持ってきちゃった!」  ぱっと、ピンクの桜の中で、白いレースが美しくたなびいた。 「おお……」とユウは声を出し、「ちょっと、近くで見てもええか?」と確認する。  もちろん、と二葉は頷きユウにレースを差し出すと、彼はすぐに受け取ろうとしたが、はっとして手を拭いて、うやうやしく両手を差し出した。律儀だ。 「……すごいな。二鷹さんが作ってはるとこは何度か見たことがあったから、昔も丁寧に作ってはるって思ってたけど、今見るともっとやわ。全部をレース針で編んだら重たなるから、中心は軽い糸を使って棒編みで、そんで途中からは糸も変えてレース編みにしとる……。葉っぱのモチーフ編みもちまちま周囲につけとるし。よう、こんなもん編んだわ……」  漏れ出る声には呆れと感嘆と、両方の気持ちが入り混じっているらしく、ふるふると首を振って長い溜息をつき、にこりと笑って顔を上げた。「佳苗さんが編んだんは最後のエジングんとこやね。いいわ。めっちゃよく出来てる」と、ユウに太鼓判を押されるとほっとした。  返してもらったレースを膝の上に載せて、じっと見下ろす。ちらちらと、桜の花が二葉の膝に置かれたレースの上に落ちていく。 「ユウさん、あのね」 「ん?」 「前にも伝えたけど、私、父さんのことを知りたくて編み物を始めたの。鳩美さん……叔母は、父さんが私が着る服を編まなくなったのは、私が嫌がったからじゃない、勘違いだって言ってくれたけど、それが本当のことなのかどうかわからないもの。父さんが悲しい気持ちを隠して、鳩美さんにそう伝えただけかもしれないし。ううん、きっと悲しかったに決まってる」  ユウは二葉を見つめ眉をひそめたが、今は話を聞くことにしてくれたらしい。否定をしてほしくて話しているわけではなかったら、ありがたかった。 「だから、このレース編みをしながら、本当はどうだったのかなって、ずっと考えてたの。父さんの立場だったらこう思ったかなとか、そもそも、父さんって、どんな人だったかな、とか。でも、段々針を動かすごとに、しんと胸の中が落ち着いてきて、静かになって……」  ちらりと顔を上げて視線を上げると、隣のレジャーシートで、サチはアッキーと話をしていた。何を話しているかわからないが、二人は楽しそうに頬を緩めて、桜を指差し見上げている。 【自由時間】の店長であるサチは、いつも桜の刺繍をしている。亡くなった夫が好きだった桜を作ることで夫のことを思い出していると彼女は言っていたが、本当は夫のことを忘れるために手芸をしているのではないか、とも悲しげに呟いたこともある。  そのとき、二葉は何を言うこともできなかった。けれども今は、とてもよくわかる。  小さな白い折りたたみのテーブルの上に編み物を広げて、ゆっくりと指を動かしていると、不思議とたくさんの時間が愛おしくなる。  ちくたくと動く、時計の針。  ふわりと胸に広がるようなコーヒーの香り。  揺れるカーテンの向こう側からきらきらと通り抜ける、太陽の光。 「ああ、やっぱり楽しいなって……」  出来上がったレースを持ち上げ、はあ、と息をこぼして最初に感じたことだ。  父のことを知りたくて仕方なかったはずなのに、と今となっては申し訳なく、ため息ばかりこぼれてしまう。けれども、ぽつりとユウは呟く。 「二鷹さんも、同じやったんちゃうんか」  ぱちりと、二葉は瞬いた。 「……そうかな」 「知らん。でも、僕ならそうや」 「そっか」  答えはもうわからないけれど。でも、少しだけ父に近づけたような、そんな気がする。  膝の上に積もった花びらをそっと指先で取り除き、そのままいそいそとレースを鞄の中に片付けようとすると、「それ、ヴェールなんやろ。試着してみたんか?」と問いかけられたので、ぎくりとしてさっと視線を移動させた。 「なんやねんその反応。もしかしてまだしてへんの?」 「だ、だって、似合ってなかったら辛いし、勇気が、ちょっと」 「いや試着せぇへんと完成ちゃうやろ。長さが足りへんなら付け足さなあかんし」 「……そうだよね。使う予定は今のとこないし、あるかどうかはわからないけど、確認はちゃんとしなきゃ」 「それは知らんけども……」  くっ、と二葉は両目をつむり、レース、いやヴェールの端をちょんと指でつまんだ。そして、えいやっと勢いよく頭にかぶせる。ゆっくりと瞳を開いて、ほんの少し照れ笑いをしつつユウを見上げた。 「ど、どうかな……?」  そのとき、ふわりと優しい春の風が通り抜けた。  二葉のヴェールが桜の花びらとともに風の中をゆるくはためく。  遅れて、ざあざあと雨のように桜が散り、ユウは春の嵐の中にいるかのように、ぎゅっ口元を真一文字にした。 「ユウさん? やっぱり変だった?」 「い、いや。ええと思う。長さも丁度ええんちゃうやろか」  しかし耳もとをわずかに赤くさせつつそっぽを向いているユウの真意は、二葉には汲み取りづらい。妙な態度だ、と思うと同時に、使う予定のない花嫁衣装を身に着けているという自身の状況に、じわじわと恥の気持ちが膨らんできた。 「あ、えっと、せっかくヴェールを作ったんだし、他にも色々作れるのかな! 手袋とか、鞄とか、作ることができそうだよね、あっでも使う機会もないんだった!」  ごまかそうとすると言葉数が勝手に増えてしまうのは世の常なのだろうか。下手な会話を続けようとして、さらに穴を深めたような気がした。すごすご頭からヴェールを取ろうとすると、「待ち」と短く制止させられた。  ぬうっと、ユウが覆いかぶさるように近づいてくる。なんだろうと二葉は思わず身体を固くさせるしかない。ひい、と悲鳴を上げたくなるのに心臓はどきどきして、きゅんとする。いやきゅんって。  どうしたのよ、と自分自身に問いかけていたとき、ユウはちょいちょいと指を使って二間の頭の上から何かを取っている。桜の花びらがすでにたくさん落ちていたらしい。なるほど、と冷静になった。  二葉はそっと頭からヴェールをとって、折りたたみ、鞄の中に片付けた。 「うん。相手がいないのは大問題だけど、どっちにしろ作るならもっと上手になってからじゃないとね。次は棒編みも覚えたいな。まだまだできないことがいっぱいあるから」 「……なあ、それ、僕じゃあかんのか?」 「え?」  ぽつりとユウは呟く。なぜだかさっきよりもさらに真っ赤な顔をして、真面目な顔でじっと二葉を見つめている。そのあまりの神妙な様子に、どうしたのだろうかと会話の流れを思い出した。  口元に手を当てて、じっと考える。短い間だったが、相変わらずユウは緊張の面持ちで膝の上に置いた拳にぎゅっと力を入れていた。直前に自分が話していたことは、棒編みがしたいな、ということで。 「ああ、棒編みをユウさんが教えてくれるってこと?」 「えっ」 「できれば自分で頑張りたいなって思ってるんだけど、たしかにちょっと難しそうだからわからないところは助けてもらいたいかも……」 「それはかまわへんけどな。かまわんけどな」  なんだかちょっと歯切れが悪いように感じたので、もしかして違ったの? と問いかけようとしたとき、「いやーん! 若者たちー! 飲んでるぅー!?」とユウは思いっきりアッキーに突撃され、ぐふりと苦しげな声を出す。 「若者って、あんたも若者やろ……」と、久しぶりにユウの不機嫌そうな声を聞いた気がする。最初のときは怖い人だと思っていたのも、すでにもう懐かしい。 「やだ、何か私、タイミングが悪かったかしら? はあん! 酔っ払いの戯言だと思って許してちょうだいっ!」 「毎日酔っ払っとるようなやつが何言うてんのや」 「珍しくユウくんにオブラートさが何もなくてアッキーまじ超反省」 「せんでええ。楽しめ。僕の機嫌は僕がとる」  ユウは苦虫を噛み潰したような顔をしているが、「そういう意外とちょっとドライなところ、とっても好き!」と再度アッキーに正面から潰されていた。可哀想に。  ユウはアッキーの金髪頭を右手で押して、「やめろや!」と叫んでいる。  たくさんの桜の木の下に、ちょこちょことシートが敷かれていて、他の人たちはアッキーのようにお酒を飲んだり、美智代のようにご飯を食べたり、サチのように、ただじっと静かに花見をしたり、歌をうたったり。  みんな、それぞれが思う花見を自由に楽しんでいた。  さぁ、二葉はどうしよう。何をしたらいいだろう。そっと膝の上に手を置いて、きらきらと輝く川にちらほらと散るピンクの花弁を見つめた。  これからしたいことを考える。いっぱいありすぎて、考える時間ばかりが増えていく。でも、そんな時間すらもただ愛おしい。  青空の下で、たっぷりと太陽の光を浴びながら、二葉はうっとりと瞳を細めた。   了
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