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そして迎えた金曜の夜。
柾冬は定時であがるために持ち帰った仕事も手につかず、気もそぞろでキッチンに立っていた。
彼が来るかもしれない。
そう思っただけで他のことがいっさい考えられなくなる。
本当にこんなことは初めてで、我ながら子どもっぽいと思う。
先週は空振りに終わった。
今週は、会えるだろうか。
そんなことを考えていたら、包丁で指を傷つけてしまった。
絆創膏を探したが見つからず、仕方がないので消毒薬を振ったあと救急箱に入っていた包帯を右の人差し指に雑に巻いた。
料理中に指を切るなんて何年ぶりだろう。
本当にらしくない。
苦笑しながらも彼が好きなパスタを作り上げたタイミングで玄関チャイムが鳴った。
彼だ。
見なくてもわかる。
柾冬は早る気持ちを抑えながら玄関のドアを開けた。
彼が現れた途端、空気が変わる。
しんと冷たく澄んだ風を纏って彼が歩くと、誰も彼もが息を呑んでその美しさに釘づけになる。
ただ彼には人を寄せつけない冷たい雰囲気があるのと、壮絶なまでのその美貌のせいで、安易に近づこうとする者はいない。
だから柾冬は珍しい例だと言える。
「いらっしゃい」
ドアを開けると彼は真っ赤な鼻をして柾冬の胸に飛び込んで来た。
「今日、寒い」
確かに彼のコートも髪も冷たかった。
その細くしなやかな体を抱き止めて柾冬が言う。
「ちょうど今パスタが……」
言葉の途中で彼は体重をかけて柾冬を玄関の床の上に押し倒してきた。
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