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──春宵には今しばし遠い。蒼穹の空には雲がほそくたなびいており、手を伸ばせば切れ端を掴めそうなほどやわい尾を引いている。私はあたたかい風の吹く公園のベンチで宙に向けて片手を伸ばした。尾を引いている雲の端を掴めたのならば、そのまま空へと連れて行ってくれはしないかと思いながら。
あたたかい風の吹くなか、桜の花びらが舞っている。満開にほど近い咲き具合だ。もう少し日が経てばお花見を目当てにこの公園に人の往来も増えてくることだろう。
「──」
茫洋と空を見上げる私のまなこには何もない。
寂しさも、孤独も、期待もない。
ただひたすらの空虚ばかりが満ちている。
乗せる感情のすべては冬に置きやってきた。
新たな季節を迎えるにあたって私はふたつのものを置いてきた。ひとつは没頭していた趣味である編み物。編み物が得意であった私は、しばしば歳の離れた妹に作品をプレゼントしていた。背の丈が伸びていくにつれ増えていく品を見るのは半ば自己満足に似た私の楽しみでもあった。だが妹が高校を卒業するため、今年で作品づくりも最後になったのだ。妹はこの春、慣れ親しんだ地を離れて遠くに旅立つ。
妹は私に言った。
「幸せになってね、おねえちゃん」
もうひとつは一冊の本。何度も繰り返し読んだために紙の角が取れて丸みを帯びたその本は、好きだったひとがいつも持っていた本。内容を聞けども「買って読んでみるといいよ」の一点張りで決して中身を教えようとはしてくれなかった。私はそれに対して文句ばかりを言っていたが、文字を愛するひとびとにしてみたら読者の鑑なのかもしれない。彼とは今年のバレンタインに離別を決めた。互いの価値観の違いによるものだ。
彼は私に言った。
「どうか今よりもずっと、幸せに」
──春は別れの季節だ、と。どこかの誰かが言っていた覚えがあるが本当にそのとおりだと思う。宙を舞う桜の花びらのように、掴もうとしても指の間からこぼれ落ちていく。地面に落ちた花びらは数多のそれに埋もれて区別がつかなくなっていく。
人も物も同じことかと、小さなため息が漏れた。
数多幾千の似たようなものに埋もれて消えていく。
記憶から薄らいでいく。
彼らの記憶から、私が薄らいでいく。
ああ、でも。でも。
たったひとつだけ、たしかなことがある。
「"ものは消えても愛した時間はそこにある"」
私は好きだった本の一節を諳んじる。幾度も読み返した本だ、このようなことは容易い。
抜けるような青空の下で向日葵と背の丈を競った時もあった。落ち葉を踏み締め小路を駆けたこともあった。寒さのなか身を寄せ合い、顔を見合わせ笑った時もあった。
たとえ私の作ったものが彼女の記憶の箱の隅に眠ろうとも、読んだ本が記憶の海に沈もうとも。共に過ごしてきた時間は確かにそこに存在しているのだ。
それならばそれでいいじゃないか。
その事実だけで充分過ぎるくらいに幸せだ。
暑い夏も、もの寂しい秋も、真っ白な冬も。
希望を謳う春も。
その事実を抱いて乗り越えていける。
「……今日の晩御飯、なににしようかな」
私はベンチからようやく腰を上げた。
そうしてゆっくりと家路を辿る。
頭上では、桜がやわらかく咲っていた。
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