それでも愛しています

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好きだったんだと思う。 付き合って二年。別れる直前の三か月は顔を合わせる度に口論になっていた。 言われて、言い返して。その後、一人になるといつも泣いていた気がする。 ひどい交際だった。もう限界だと思った。 だから別れたのだ。 それなのに優しかった頃の神崎の夢ばかり見てしまう。 酷い頃を知っているのに、何をされたかを分かっているのに。 それなのにまた夢の中で神崎に会いたくなる。 ありえない夢を繰り返し見る度、死にたくなる。 高校三年の終わりから大学二年の初頭にかけて。 久宿は神崎という男と交際をしていた。 同じ野球部に所属する神崎は新入生にもかかわらず、 部内でもすぐに注目を浴びるほどの魅力的な投手だった。 もの静かで意志の強い瞳が美しい。精悍な男だった。 だからこそ弱小中学で三年を過ごした久宿のような保守が バッテリーを組めるなんて思ってもいなかった。 青天の霹靂なんて受験で覚えただけの言葉を体感して、 久宿は呆然としていたことだけを覚えている。 黒々とした神崎の瞳とぶつかり微かにたじろぐ。 しかし、神崎は久宿から目を反らさず、静かに笑った。 「一年同士よろしく」と気さくとは言えないまでも 優しい声で久宿の肩を叩いた。 神崎は本当に良い男だった。 ずっとバッテリーを組んでいられるように 久宿が努力を重ねた三年の始まりは 思えば出会った瞬間からだった。 一目で神崎に魅力に憑りつかれてしまったのだ。 惚れていた。恋なんて最初からしていたに決まっている。 ただ、最初から恋という名付けをしなかっただけだ。 久宿は結局オーバーワークで自身の肩を壊すまで、 神崎とバッテリーを組み続けた。 執念に近いひたむきすぎた練習量に できあがっていない身体が悲鳴を上げることくらい分かりきっていた。 しかし、神崎の投球を受ける資格を失うことに比べたら、 脆弱な身体の上げる多少の悲鳴なんて久宿には耳にも入らなかった。 その末路がこれだ。 医者は三年もよく持ったと呆れたし、 大学受験をする旨を伝えてあった学校側もあからさまにほっとしていた。 引退試合間近の木曜日。 久宿が肩を壊したことを伝えた日、神崎が初めて久宿の前で涙を見せた。 黒い瞳からこぼれる涙が光を含んでひとすじの線を頬に描いていく その様が美しいと感じた。 見惚れていたら抱きしめられた。 部室で誰が来るともしれないのに 久宿だけを思って泣く神崎の優しさに、久宿の視界もにじんでいく。 久宿は自分の為に泣いてくれる神崎と抱き合って、 何故神崎とのバッテリーにこだわり続けたかの意味をようやく理解した。 必死に止めようとしても涙が止まらなかった。 卒業式の日、思い出をくれといったのは久宿だった。 キスをしてきたのは神崎で唇を離すと久宿に愛を囁いた。 あとは落ちて腐るはずだった久宿の恋はとうとう神崎の手に落ちてしまった。 久宿がぽろぽろと涙を零すさまを神崎は目を細めて見ている。 夢のようだった。 好きという感情が更に強くなった。 思いが通じ合って幸せだった。 しかし、大学進学してあっけなく壊れた。 神崎のぎらついた視線を思い出す。 「久宿」 神崎の浮気を一度許してから、おかしくなった。 いつからか神崎は久宿に女の代わりを演じるように命じた。 久宿は逆らわなかった。 神崎を独占するためにそれが最善だというのであれば、何をするのもいとわなかった。 惹かれていた神崎に近付きすぎて 自身がおかしくなっているのはとうに分かっていた。 だからこそ久宿には神崎しかいなかった。 神崎が望むのであれば女性用の下着を身に着けて性交に応じたし、 甘ったるい嬌声も抑えることはしなかった。 自身にありもしない器官に性器を求めることなんて、 ありすぎて数えるのも莫迦らしい。 そういうセックスの時だけ神崎は饒舌になった。 久宿をなじる神崎の言葉に傷付けられながら 強姦まがいに犯されたことの方が付き合った後半は多いくらいだ。 悔しくて、恥ずかしくて、抱かれている間ずっと泣いていたこともある。 ひどいセックスだった。 しかし同時にひどく倒錯的でおかしいくらいに自身は乱された。 愛される形なんてどうでもよくなるくらい気持ちが良かった。 そんな経験を経たからこそ、久宿は絶望して今朝も日の出を迎える。 神崎の趣味で伸ばしたままの久宿の髪が朝日に透けて 飴色に淡く輝いている。 「っ……っふ、っ」 布団をかぶり、押し殺した久宿の泣き声を聞きつけて木佐木がやってきた。 猫っ気な黒髪は寝起きは寝ぐせがひどく、本当は目が悪い筈なのに 神崎を思い出させないようになのか コンタクトを付けた状態でしか久宿の前には顔を出さない。 「先輩、おはよ?」 面倒だろうにそんなことなどおくびにも出さず、 ぼろぼろと涙を零して布団を濡らす久宿の頬を指で何度もなぞって涙を拭う 木佐木は優しくその体を抱きしめる。 とめどなく落ちる幾筋もの久宿の涙に、今度は唇を寄せた。 生ぬるい舌の感触が久宿の目のふちをなぞる。 心の傷ごと舐めとってくるみたいな、 木佐木の近すぎるスキンシップが久宿は嫌いではなかった。 「んっ」 涙で濡れた声をひとつ零す久宿は木佐木にキスを強請られる。 同じベッドの上で、久宿は強請られるままに木佐木とキスをする。 ぬるい温度が溶け合って、長い時間をかけてゆるやかに重なり合う。 木佐木との触れ合いは生ぬるくて、あたたかい。 外では木佐木と出会った日と同じような強さの雨が降っていた。 「先輩、俺の処女あげます。  だからアンタがまともになったって思った時、もっかい告白させてよ」 誰にも言えず、もう限界を迎えたあの夜。 神崎に抱かれて「女」にされきった久宿に、自身を犯せと木佐木は迫った。 卒業式の日に憧憬の延長で告白までするような 直情な後輩が男の顔をしていた。 女しか抱いたことのないノンケの 端正な顔立ちをしたすらりと背の高い男が 久宿のために女役を買って出るなんて眩暈がした。 そして、自己の判断も付かない状況の久宿は あっという間にそれに呑まれてしまった。 犯す喜びを生まれて初めて知って、背筋が震える。 「きもちいいね、せんぱい。きもちいいの、うれしいね」 擦れた声で時折甘く声を上げながら木佐木が久宿に抱き着く。 久宿に覚えさせるみたいに木佐木は何度もその言葉を繰り返した。 神崎しか知らない身体が初めて、それ以外に染まった。 嬉しいはずなのに、果てしない罪悪感が久宿の胸を占拠した。 まだ神崎が好きなのだろうか。 木佐木を抱くたび、あってはならないはずの物足りなさを感じて。 久宿は泣いてしまう。
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