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慌てふためく浩紀の手からスプーンが奪い去られ、カラカラとかき混ぜる音がする。そして、ふんわりとインスタントコーヒーの香り。
「……麗子が過労で倒れて。住所変更してなかったから実家に連絡がきたの」
浩紀の手が引かれ、マグカップの取っ手を掴めるように導かれる。
「大阪の病院からね。――あなたと二人で暮らしてるはずなのになんで大阪、って訳が分からなくて……会社に電話したらあなたは辞めたって言うし。問い詰めたら麗子が全部吐いたわよ。洗いざらい。あの子、馬鹿だけど嘘も下手なの」
マグカップを握った手が小刻みに震え、コーヒーが零れるんじゃないかと場違いなことを考える。
温子の声も震えて聞こえるのは、俺の気のせいだろうか。
深々と息を吐くような音とともに、
「……嘘だったのね。全部」
と、半ば呆れたような声がした。
「……自由に、したかったんだ……」
見えなくなったのに、涙はいっちょ前に出るんだな、とどこか冷静に考えていた。
鼻水まで垂れている自分の顔を見なくて済むのは、良かったかもしれない。
「あなたって……ほんとに自分勝手で、人の意見聞こうとしなくて頑固で……。それは知ってたけど、嘘つきまでは知らなかったわ」
「温子……」
暗幕の向こうから、小さな笑い声と、鼻をすすり上げる音がした。
「……でも、エイプリルフールの嘘は、許してあげないとね」
温かくて柔らかいものが、浩紀の胸に押し当てられた。
懐かしい、温子の髪の匂いがする。
「家に、帰りましょう。――家事を、叩き込んであげるから。私が外で働いて、あなたが家事をする。逆になるだけでしょ?」
「……いいのか?」
「いいも何も、あそこがあなたの家でしょ。でも、帰ったことを後悔するくらい、私ビシビシやるから。覚悟してよ」
浩紀は空いた右手を、温子の背中に回した。
何度も夢に見た温子の体より、もっとずっと頼もしく感じられた。
―終―
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