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「おい、三十嵐」
店を出て数歩で背後からハスキーな声を掛けられてはたと我に返る。あたしが替え玉を楽しんでいる間に自分のラーメンを片付けたのだろう右近堂さんが僅差で追いかけてきたのだ。
完全に忘れていた。否、思考から追い出していた。陽の者とあんまり関わるとせっかくラーメンで回復したメンタルがまた溶けてしまう。
っていうかあたしの名前覚えてたんだ。まあ、クラスメイトだしそりゃそうか。
現実逃避気味に無意味な思考を巡らしている間にも彼女はあたしの目の前まで来て右手を差し出す。
「さっきは助かった」
なんとなく誘われるように出した手に先ほど貸したヘアゴムが乗せられた。ああ、なるほど。律儀だなあ。
「安物だし、その、気にしなくてもいいのに」
「だが私に手持ちのヘアゴムが無かったのもそれをお前が貸してくれたのも事実だ。値段じゃないさ」
「そ、そう?」
「ああ、そうだ」
発する言葉に迷いが無い。落ち着いて、それでいて心地良い声だ。
「この辺りはそんなに治安も良くないだろう。駅まで送るよ」
なんだか男前なことまで言い出して返事も待たずに歩き出した。あたしは良いも悪いも無く慌てて追いかける。
「ええ、悪いよ……っていうか電車乗らないの?」
「うちは3区だから軽く走って15分くらいか。交通機関は使わないほうが早い」
「ソ、ソッカー」
高級住宅街じゃないですか。なるほどお嬢様だったわ。
「あの店、よく行くの?」
右近堂さんにばかり喋らせても悪いと思って聞いたけれども、何気ない雑談のようで答えは分かり切っていた。Noだ。そもそもラーメンを食べ慣れている感じじゃなかった。牛丼のようなご飯ものならまだしも女子なら汁物は髪の毛がどうしても邪魔になる。あのおぼつかない感じは間違いない。
「いや、前を通ったら三十嵐が見えたから初めて入った」
「あ、あたしですかあ!?」
初めてとは思っていたけどきっかけがあたしですかあ!? 予想の斜め上に飛んで来た球を上手く打ち返せない。
「ああ、学校の生徒が入ってる店だしそれなりに美味いのかと思ってな。席についてみるまではさすがにクラスメイトだとは思わなかったが」
「な……なるほ、ど」
あーびっくりした。目に付いたのはあたしじゃなくて制服だったわけだ。それはそれでほっとしたようながっかりしたような。
「三十嵐はずいぶんと慣れた感じだったが、ああいう店には詳しいのか?」
「ああいう?」
「ラーメン屋とか」
「まあ、詳しいと言えば詳しいかな」
家庭の事情でひとりでの外食も多目に見られてるし家族で外食する頻度もたぶん他の家庭よりは高めだろう。
「あ、もしかしてラーメンにおハマりですかあ?」
にたぁっと我ながら嫌らしい笑みを浮かべて覗き込んだ彼女は相変わらずの無表情だったが「そうだと言ったら他の店にも付き合ってくれるのか」と問い返して来た。
「え、ええ、あたし?」
「他に誰かいるか?」
「い、いないけど」
「実は道場の師匠から打撃対策に少し体脂肪を付けたほうがいいと言われているんだが、間食の習慣も無いし外食もそんなにしないから若干戸惑っていてな」
「はあ、それはまあなんというか……」
めちゃくちゃ気の無い返事を返しながらあたしはヌルい目で彼女の立派な双丘へ視線を向けた。大きさに限ればあたしのほうが大きいんだけど、彼女は他の部位の引き締まりがダンチだ。なんだろこれ、腹立つわー。
ともあれ。だ。
所詮あたしはオタク。専門分野を自慢し語らせてくれる相手を逃す手は無い。
「まあ、その、毎日ってわけにはいかないけど……まあ、うん。たまになら」
おずおずと答えたあたしに対して彼女は初めてとても感情的な、素直に評価するなら、そう、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「そうか、助かる」
うーんこれは、しばらくは退部を保留したほうがよさそうだ。そう思った。
漫研の居心地が良くなるわけでもないけれど、彼女の部活終わりを待つのに手頃な場所なのは確かだし。
みんなこうやって需要と妥協で居場所を作っていくのだろうか。あたしにはまだわからないけれども。
とにかく、明日からの日々を楽しみに駅で彼女と別れたのだった。
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