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ある夏の日。
君は僕と手をつなぐのを申し訳なさそうに断った。
家まで送ろうとしたけれど、その日も断られてしまったのだ。
「ごめんなさい、私。私あなたに何もしてあげられていない」
「いらないよ、君に何かをしてほしいわけじゃないから」
その時の彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。
僕が意気地なしだから、君にそんな顔をさせてしまうんだ。
勇気があれば、許嫁に面と向かって彼女をくださいと言えるのに。
彼女の両親に交渉だって出来るのに。
あぁ、僕はなんて無力なんだろうな。
「ねえマナ、僕のことは好き?」
「そんなの……ここで言えたものではないわ」
彼女の家がおそらく近づいてきた。
この次の信号を渡ったら僕たちの分かれる場所に着く。
「そうだよね」
僕はその時うつむいて、ふと立ち止まった。
「あのさ、マナ…」
本当は、ここで彼女に伝えるつもりだった。
でも、彼女は立ち止まらなかった。
僕の声なんて聞こえてないみたいに、青信号の横断歩道に足を踏み入れ、そしてこちらを振り向いた。
その瞳には光がなくて、僕は違和感を強く感じた。
瞬間、トラックがものすごい勢いで横断歩道に近づく。
マナは、それにも関わらずその場を動こうとしない。
「マナ!!」
反射的に体が動いたんだ。
考える暇などなかった。
彼女の手を強く引いて、思いっきり後ろに突き飛ばす。
尻もちをついた彼女は、そこで初めてトラックに気が付いたように見えた。
その顔に浮かぶ涙を一瞬視界の端にとらえて――――。
僕の意識はそこで途切れた。
本当は、言おうと思っていた。
『別れてほしい。僕のことなんて忘れて、幸せになってほしい』と。
マナのことが好きだった。
でも、両親と僕の間で悩み、苦しむ彼女を見ることに耐えられなくなった。
自分のことなどどうでもいい。
彼女が笑っていてくれたらそれでいい。
マナが幸せなら、僕はどうなってもいい。
これが、僕が人生で二度目に、そして最後に勇気を出した出来事だった。
気づけば天国で現世の様子を見ていた。
マナの苦しそうな表情を見て、自分の判断は果たして正しかったのかと不安になった。声は聞こえないけれど、今の彼女は幸せそうには見えない。
どこで間違えたんだろう。
どうしたらマナを笑顔に出来るんだろう。
無力感にさいなまれながら、何も考えずに過ごす日が続き、現世さえも見なくなってきたある日、偶然彼女が手紙をしたためる様子を視界の端に捉えた。
その絶望に歪んだその表情に、ほんの少しの希望が混じっていたから。
もう見られないと思っていた微笑みを感じたから。
あの日のことは、今も忘れられないんだ。
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