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【池田の渡し】【遠く遠く】【音の無い世界】
見附側池田の渡しから対岸中野町村までの距離約800m、小天竜(18m)中洲を挟んで大天竜(45m)へと進みます。増水度合と流れの速さにより渡し場ポイントを上中下と切り替えていました。
遠近道印//作,菱河吉兵衛<菱川師宣> //画『東海道分間絵図』第3帖,板木屋七郎兵衛,元禄3(1690)序刊. 国立国会図書館デジタルコレクション 加工済
本来であれば東海道の延長線上に渡し場があってしかりなのですが、赤い矢印のように1.4km上流の池田村が渡船場になっています。
これは家康が池田村に渡船権利を与えていた為なのですが、その理由として一つの伝説が残されています。
1572年、この上流にあった二俣城を巡り徳川軍と武田軍との間で『一言坂(ひとことざか)の戦い』が起こります。この戦で敗走する事になった家康。急ぎ浜松に戻りたくとも天竜川を渡るための舟も船頭も見当たりません。
船頭たちは自分の村が戦場になる事を恐れ息を殺して隠れていたのです。
家康一行は池田村でやっと隠れていた船頭を見つけ、何とか舟を出して欲しいと願いました。切羽詰まった様子を見た池田の船頭達は腹を括り、家康一行を対岸へと送り届けることに。
それだけでなく、村に帰った船頭達は使った舟と櫓を寺の池に沈め武田軍の渡船を阻止します。後にその事を知った家康は船頭達の恩に報いるために池田村に渡方(わたしかた)を独占させたという事です。
伝説だという事ですが、受けた恩を忘れなかったと言われる家康らしいエピソードだなと思います。
文化12年(1815年)の渡し賃です。(1文12円換算です)
一人 36文 (432円)
荷物一駄(135kg) 90文 (1080円)
乗掛荷(馬に荷物と人)58文 (696円)
最安値の木賃宿でも50文から60文(600円から720円)でしたので、この渡船料金は旅人には安くはなかったようです。
【遠く遠く】
広重はこの絵で三段階の遠近法を用いて見る人の目を遠く遠く対岸へと誘っています。広重は西洋画の技術を躊躇いなく寧ろ積極的に吸収して自分のものにしています。東洋・西洋の技術を駆使して描いた風景画は写実的でもありどこか幻想的でもあります。
その不思議な感覚が古今東西の人々を魅了する理由なのかなと思います。
【音の無い世界】
決して色味が無いわけでもなく、動きもある、人数もそこそこ描かれている、にもかかわらず無音に近い静けさを感じます。
川霧が手前の人々の賑やかな声を吸収しているようなそんな印象なのですが、皆様はどんな風に思われますでしょうか。
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