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「自分の人生だからね」ママが隣の客に一生懸命語りかけている。店の客の声や歌でママとその客が何を話しているのかはよくわからないが「自分の人生」この言葉だけが香葉子の耳に飛び込んできた。頭の中がぐるぐるぐるぐる回っている。
「ママ、私、今度生まれ変わったら絶対男がいい。男になって俺の好きになった女に、その女が結婚していようが恋人がいようが関係ねぇ、その女に俺について来いって言って奪い去ってみたい。そんなことしてみたい」
「香葉ちゃん!そんな所でごにょごにょ言ってないで、もう遅いから家へ帰りなさい。歩君待っているでしょう」
カウンターでうつ伏せていた香葉子は起き上がり「私は好きな人ができてもね、その彼が本当に好きになった人と、どうか思いのままに人生を生きてほしいと願ってしまうのよ」と小声でママに言った。ママは「わかったから、もう帰りなさい」と香葉子を宥めた。
さよりママの店に香葉子を初めて連れて来たのは歩だった。歩は香葉子の職場の先輩で、香葉子が新人で営業部に配属された時の指導係だった。仕事帰りに何度か二人でママの店で飲んでいるうちに、香葉子とママは仲良くなり、最近は香葉子一人でスナックさよりへ訪れている。
千駄木の歩と暮らすアパートに帰ると、歩は月明かりの部屋で、ソファーに仰向けて横になり、両手を頭の後ろで組んで、天井の一点を見つめて起きていた。テーブルの上には香葉子の好きなものばかりが並んでいる。
「ただいま」
「香葉子」
「ママのお店に行ってたの」
「あのさ」
歩は酔っ払って帰ってきた香葉子に真剣な眼差しで近づき、淡い青色の小さな箱を開け、キラキラと光るキレイな物を香葉子に差し出した。そして香葉子が喉から手が出る程欲しかった言葉を口にした。
香葉子は胸が苦しくて言葉が出ずに俯いている。そして、キラキラと光るキレイな物を手に入れて、歩のその手を握り返したら、どんなに心が喜びで満ち溢れるだろうと考えたが、香葉子は一言「いらない」と言って家を出た。
「後悔なんて上等だ。私は不幸のど真ん中を進みたい」香葉子の目から涙が溢れた。
毎年12月になると日本橋人形町の歩道には沢山の提灯が並び始め、街が正月モードになる。今年もこの季節がやってきたな。仕事を終えた香葉子はそんな事を思いながら、今日もこの街の路地裏にひっそりと構えるスナックさよりへと向かった。
店に入るとママはカウンターでメロンを切り分けていた。今日もママの栗色パーマのショートヘアに真っ赤な口紅が良く似合っている。そして、ママのふくよかさが、より一層ママの優しさを現している。
「香葉ちゃん、昨日、香葉ちゃん帰った後、歩君お店に来たわよ。香葉子が家を出て行ってしまったって」
香葉子は黙っている。
「何があったか知らないけど、早く仲直りしなさいね。あんな長身でハンサムで優しい人、世界中何処探したっていないわよ。それで昨日は何処に泊まったの」
「箱崎のビジネスホテル。今日もホテルに泊まるけど、会社の寮に引っ越すことした。もう歩のいる所へは帰らない」
ママは困った顔をしていたが、香葉子は店を後にした。
それから数週間後、香葉子が浜町にある会社の寮に帰ると歩が待っていた。
「寮に引っ越したってママから聞いてさ、香葉子、俺、来月から名古屋に異動になるんだ。元気でな」
そう言って満面の笑みを浮かべた歩の余りの格好良さに香葉子は暫く見惚ていた。そして、歩が香葉子を抱き寄せ、歩の冷たい頬が香葉子の熱い頬に触れた時、香葉子は一瞬何が起きたのかわからなかった。
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