モルフォ蝶は空に舞う

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モルフォ蝶は空に舞う

 リィンと高い鈴の音が響く。  まるでどこかに誘うように。迷い子を導くように。  妖艶に響く鈴の音が近づいてくる。川辺に座る紗夜を見て、黒い着物を纏った少女は口元に笑みを浮かべた。新月の夜空に蠱惑的な青い蝶が煌めく。 『さあ、行こう?』  導き様に導かれるまま、紗夜は夜の道を歩む。先ほどまではっきりとしていた思考が霞を帯びたようにぼんやりとしていた。自分は何をするんだっけ、と少し考えたところでやめた。  須臾(しゅゆ)に過ぎ去っていく疑問と思考。頭を覆う霞が濃くなっていく。何でもいい。いいようにしてくれる。導き様が導いて、ひとりぼっちの寂しさから救ってくれた。だからどうなっても大丈夫だ。そう、ひとりぼっちは――寂しいのだ。  ふわりと漂う甘い香りに微睡んだ時だった。目の前に影がよぎり、頭を覆っていた霞がわずかに晴れる。曖昧だった視界の先にあった姿を見て、紗夜は声を上げた。 『蓮⁉︎』  紗夜と導き様の間に立つのは紛れもなく蓮だ。流れる汗を拭うこともなく、彼は導き様を見据える。 「導き様、お願いです。紗夜を諦めてくれませんか?」  導き様は蓮を見てふっと口元に笑みを浮かべた。それは憐憫と誘惑に満ちた笑みだった。 『救いは要らないの? 君だって――同じでしょうに』 「少なくとも、僕は要りません。もし、紗夜を諦められないなら、死ぬ間際にでも僕をそっちに導いてくれればいい」  唐突に割って入ってきただけでも驚いている最中、蓮の発言で紗夜は度肝を抜かれた。 『な、なに言って――』 「お願いします。僕も彼女も、少し時間が欲しいんです。妖にとってこの時間も人の一生も、些細なものじゃないですか」  紗夜の反論を言葉で退けて、蓮は導き様に訴える。導き様は一度笑みを潜めてから口元に指先を寄せると、再び唇に妖艶な色を乗せた。 『ふうん。そう。君がこちらに深い縁を持つなら、それはそれで面白いかもしれない』  瞬く間に導き様の手が蓮の首元に触れる。小さかった少女はいつの間にか妙齢の女性に変化していた。  首筋に青白い蝶の形が浮かんだ途端、それは滲むように消えた。黒衣の女はこの上なく楽しそうな声で囁く。 『妖に迷い惑わされて、揺蕩って。君の人生、これから楽しくなるよ?』  口元に笑みを浮かべたまま、導き様は陽炎のように消え去ってしまった。紗夜は虚空を見つめる蓮に血相を変えて詰め寄る。 『な、なんで、あんな約束なんかしたの!』 「もともと、僕は妖と縁があったんだ。それが濃くなっただけのことだよ」  『だからって――』  そこまで言いかけて、言葉が途切れる。  自分を止めるためだけに、避けていた妖と縁を結んだ。会ってほんのわずかしか顔を合わせていない相手になぜそんなことができるのか、紗夜には理解できなかった。 「……もし、申し訳なく思っているんだったらさ。少しだけ、僕に付き合ってくれない?」  穏やかな声に惹かれて紗夜は下がってしまっていた視線を上げる。蓮の真摯な目を見て、紗夜に誘いを断る術はなかった。紗夜は言葉なく頷き、 歩み出した蓮の背を追いかける。  しばらくすると少し離れた場所に捨て置かれた自転車があった。蓮に後ろに座るように促される。紗夜が乗ったのを確認して、蓮は自転車を走らせた。ちらりと前に視線を向けると、彼は紙を片手に持っていた。 『どこに行くの』  それに対する返答はなかった。その代わりに、離れないでという言葉が返される。紗夜は腰に手を回して無意識のうちに縋り付いた。形だけでもそうしていたかった。  どのくらい走ったのだろう。山の深いところまで来たと思う。既に死んでいるのに薄暗い山に不気味さを感じるんだなと、紗夜は一人心の中で笑った。自転車を降り、蓮が紙を頼りに道なき道を先導する。  視界が開けた途端、風が通り過ぎ、葉がさざめいた。  目の前には虹色の光が舞う湖があった。その中央には小さな社のようなものがあり、湖の周りには青い光を纏う花があたり一面に咲いていた。  綺麗なものを見た時には言葉をなくすものなのだと、そこで初めて知った。えも言われぬ光景に見惚れてしまう。 「昔、祖父によく連れてきてもらった場所なんだ。最近は全然来てなかったんだけどね。不思議な場所だなって思ってたけど、どうも神域ってやつみたい」  蓮の声に現実に引き戻される。彼は湖に目を向けたままで視線は噛み合わない。 『それが、ここへの地図?』  うん、という返事とともに蓮は地図に視線を落とす。紙はうっすらと黄ばんで皺が濃くついているが、しっかりと筆跡が残っていた。 「祖父が残してくれたものなんだ。僕より妖とか霊といったものをよく見てたから、色々書き留めてたみたい。その一つ。多分心配で残してくれたんだと思う。ここへの行き方も……忘れてたぐらいだから」  紗夜は蓮が持つ地図を見遣る。話ぶりからするといろいろな物を残してもらっているのだろう。それがとても羨ましかった。 『……そう。いいお祖父さんだね』 「僕さ、親に捨てられたんだ」 『え?』 「昔からこの世ではないものが見えた僕を気味悪がって、母親は家を出ていったらしい。持て余した父親は叔母の家に僕を預けた。それから親戚中をたらい回しにされて、祖父と知り合って引き取られたんだ」  思いがけない告白に紗夜は言葉が出てこない。蓮は紗夜の反応に構わず、彼女に視線を向けると続けた。 「どうして見たくないものが見えるんだって恨んだ。捨てた親や環境を憎んだ。そんな時に妖に(そそのか)されて、僕は呪詛(じゅそ)を吐いた。その呪詛を肩代わりして――祖父は死んだんだ。妖に触れたくなかったのも、自分の卑しさと祖父の死に目を瞑っていたかったから。ただ目を逸らし続けていただけなんだ」 『ごめん』  その言葉に価値がないことはわかっていた。けれど、言葉はとっさに口をついて出ていた。  蓮はわずかに目を見張り、微笑んだ。次いで笑みに憂いを乗せる。 「君は何よりも……自分のことを疎ましく思ってるんじゃないの?」  蓮の問いに紗夜は答えない。答えと同義であると汲み取ったのか、彼は続けた。 「僕も同じだよ。周りの人にも環境にも、恨みがあった。でも、僕は誰よりも僕自身を疎んでいた。なんで生まれたんだろうって。なんで周りを不幸にして、生きてるんだろうって。だから呪詛は……僕自身に返ってきた」  罪悪のような、自分という存在。そのせいで誰かの人生が翻弄された。  真相を知って、何も知らずに生きてきたことへの罪悪感が募った。誰かの不幸のもとに今の自分があると思うと、どうしても許し難かった。生きることが苦しくて仕方がない。自分がいなければよかったなんて仮定の話をしても何も変わらないけれど、そう思わずにはいられなかったのだ。他人や環境を憎む自分も嫌だった。  そうやって生まれた生きることへの苦しさと罪悪感は、自分だけのものだと思っていた。 「因果応報って、前に言ってたよね。その通りだと僕は思う。どこに向けても恨み辛みは全部自分に返ってくる。祖父が――お祖父ちゃんが最期にそう言ってた。だからさ」  蓮はふわりと笑った。  「話をしようよ。楽しい話を。……君の気が済むまで」 『……うん……』  きっと、縋り付きたかったのだ。なんでもよかった。たとえそれが善きものでも、悪しきものでも。  でも、できるならば。  よく似た疵を抱えた誰かに。側にいて欲しかった。  蓮に手を引かれ、湖のほとりに腰を下ろす。たわいもない話をした。食べ物は何が好きで何が嫌いか。得意なことや苦手なこと。学校の話や友だちの話。恥ずかしいけど初恋の話もした。  紗夜という存在は本来もうここにいるべきではない。この一晩は蓮がくれた猶予だ。彼がもたらしてくれた時間を余すことのないよう話を続ける。  気がつけば空は東雲色に色づき、やがて暁光が山中から現れた。夏の太陽は燦々としていて、いっそ清々しい。隣に立つ黒髪の少年を今更ながらよく見ると、格好いいなと思ってしまった。  ああでもこれは、ここに置いていこう。  君はまだ、ここで生きているから。 『たくさん話ができてよかった。よかったら私のこと、忘れないでくれる?』 「忘れないよ」  間髪入れずに返された答えがどこかむず痒い。紗夜は改めて蓮に向き直る。 『本当にありがとう』 「ううん。僕の方こそ――ありがとう」  そう告げると、少女は朝日に負けないぐらいの笑みを浮かべた。姿は宙に溶けるように滲み、蓮は空に消えていく光の煌めきを見届ける。  感謝しきれないのはこっちの方だよと、空を見つめながら蓮は思う。  袖が触れ合うほどの些細な邂逅。それでもこの件がなかったら、きっと自分は過去に目を逸らし続けていた。逃げて避けて毒を腹に抱えたまま、生き延びるだけだった。  ずっと疼く忸怩(じくじ)たる思いは、いつか痂皮(かさぶた)になって剥がれ落ちる。まだ到底治りはしないけれど、惑うばかりだった心は以前よりも地に足がついていた。  いま一度、蓮は地図を広げる。不思議なことに、地図はまっさらなひとひらの紙切れに成り果てていた。  きっと惑う者は自分たちだけではない。この縁で、彼女のように生と死の狭間で惑う人へ手を貸せるだろうか。導けなくとも、地図のように一つの標になれるだろうか。  まったくもって傲慢な願いだなと苦笑しながら、少年は一人、蒼穹を見上げた。
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