私があなたに出逢った理由(わけ)

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               1 (つまんないの。早くチャイム鳴んないかなぁ)  桜井菜摘は頬杖をつきながら、校庭をぼんやり眺めていた。9月も終わりだというのに、まだ夏の陽射しが残っている。楽しい夏休みなんて、あっという間に終わってしまう。 もっとも、菜摘にとって夏休みが楽しかったかというとそうでもなかった。 ファーストフード店のバイトに明け暮れ、どこにも遊びに行く暇がなかったからだ。 そしてバイト代を全部はたいて、菜摘は以前から欲しくて欲しくて仕方のなかったディオールのウォレットを手に入れた。けれど、その欲しかったウォレットも、いざ自分のものになってしまうと魅力が半減してしまった。 (ヴィトンにしとけばよかったかなぁ。あ〜ぁ) 「菜摘、チャイム鳴ったよ。帰んないの?」 声を掛けたのは美樹だった。美樹は中学の時からの仲良しで、同じ高校に入り、2年になって同じクラスになった。 「シェイク、飲みに行こうよ。理奈も誘ってさ」  3人はファストフード店に入った。 「ねぇ、見て。今日のあたし、運勢いいんだ」 美樹はスマホで、今日の運勢を見ていた。 「どれどれ」 菜摘と理奈はスマホを覗き込んだ。菜摘は美樹のスマホが変わったことに気づいた。 「スマホ、また代わってんじゃん」 「そっ、いちばん新しいやつ」 「よくお金続くよね」 「パパが買ってくれんのよ。シャネルのバッグも買わせちゃった」 美樹にはパパ活の相手が何人もいる。お金欲しさにおじさんたちの相手をするなど考えられないことだが、美樹は割の良いバイト程度にしか思っていないようだった。 「菜摘もパパ活やればいいじゃん。月5、6回で10万は固いよ。他に食事やプレゼントもついてくるしさ」 (好きでもないおじさんたちと二人っきりで時間を過ごすなんて、どんな気がするんだろう) 菜摘はそう思ったが、バイトでもらう給料などたかがしれている。ちょっと我慢すれば大金が手に入る。それなら1回くらいやってみてもいいかもしれない、などと思いを巡らせていた。その時、美樹にLINEが入った。 「あたし、行かなきゃ」 「パパから?」 「違う、カレシ。近くにいるんだって、お先」 美樹は引っ越し荷物のような大きなバッグをかかえ、慌ただしく出ていった。 「美樹って、いっつも忙しいね。菜摘、彼とほんとに別れちゃったの?」 「うん…やっぱ、同い年の彼って子供っぽくて何かウザくない?」 「そお?幸介くんは大人よ」 「理奈の彼、けっこういーカンジだもんね。もしかして、ここに来ちゃう?」 理奈は照れたように微笑んだ。 カレシがいないのは自分だけ。別れたくて別れたわけじゃない。何となく口げんかが始まって、お互いに素直になれずそのままになってしまった。今、連絡をすれば元に戻れるのかもしれないけれど、それほど胸のときめいた相手というわけでもない。カレシくらいいないとカッコがつかないと思ったから付きあっていただけだ。 どうせならワクワクするほど人を好きになってみたい。 「あたし、先帰るね」  菜摘は店を出るとため息をついた。学校から家まで電車で2駅。 何となく帰る気になれず、家とは逆方向の電車に乗ると空いている席に座った。優先席だったけれど、空いてるんだから何も気にしなかった。 菜摘は占いアプリを開いた。どれもこれもパッとしない。信じてやっているわけではなかったけれど、せめてラッキーなことが書いてあれば少しは気分が紛れるのに。 ふと顔を上げると、目の前に立っていた年寄りと目が合った。菜摘は向こうへ行けと言わんばかりに睨みつけると視線を反らした。座りたければ他の席を探せばいい、座らないといられないなら電車になんか乗るな。みんな我関せずで自分のことしか考えていないのだから。  菜摘は終点の新宿で降りた。街中は人であふれ返っている。ショーウィンドウを覗きながら、あてもなくふらふらと歩き続けた。 欲しいものは山のようにあるけれど、それを手に入れるためのお金はなかった。 なんでお金がないんだろう、なんで欲しい物はみんなあんなに高いんだろう。 (あ〜ぁ、やんなちゃう…) 花壇の脇に座り込み、ぼんやりと人波を眺めている菜摘に男が声を掛けた。 「ねぇ、どっか遊びに行こうよ」 菜摘は頬づえをついたまま、視線だけをその男に向けた。男は、いかにもフリーターやってますという風情。ガムをくちゃくちゃ噛みながら、菜摘の前に座り込んだ。 「ねぇ、行こうよ」 「お金持ってる?」 「まぁ、少しなら」 「少しじゃダメ。バイバイ」 菜摘は立ち上がると場所を変え、また腰を下ろした。しらけた感情だけが、身体中を巡っているような気がした。周りにいる人間たちが、みんな馬鹿に見える。 突然電話が鳴った。 (なんだ、お母さんか) 菜摘は何のためらいもなく電話を切った。  バッグから今日学校でもらった進路希望調査書がはみ出ていた。進学か就職か、進学なら理系か文系か。3年になると細かく別れていく。 菜摘にはやりたいことなど何もなかった。将来のことなどどうでもいい。 高校を卒業したらなるようになるだけだ。今、この瞬間が楽しければそれでいい。  会社帰りのサラリーマンやOLが、吸い込まれるように駅へ向かう地下道に降りていく。 菜摘はパパ活アプリを検索し、アクセスした。  繁華街のドラッグストアは人でごった返している。菜摘は化粧品売り場に行き、口紅とマニキュアを何本か手に取るとレジへ向かった。 ところがレジに出したのはマニキュアが1本だけだった。支払いを済ませると菜摘は素知らぬ顔で店の外へ出た。  新宿駅東口、アルタの前。さっきパパ活アプリで知りあった男との待ち合わせ場所。 やって来たのは、いかにもスケベそうなおっさんだった。ぎらぎらとした視線を菜摘に向け、にやにやと笑っている。ちょっとヤバそうなオヤジだなと思ったが、お金のためだからその辺は目をつぶろうと自分に言い聞かせた。 菜摘はなるべく中年男の顔を見ないように答えた。 「1時間5千円だから」 「うん、わかってる」 中年男が菜摘の腕を掴んだとき、いきなり誰かがその中年男の胸ぐらを引き寄せた。 「オレの妹に何するつもりだ」 「いっ」 中年男は目を見開いて身体を硬直させた。その男の胸ぐらを掴んだのは、木坂献一という若い男だった。 長身で細身、長めの髪に濃いファッショングラスをかけた献一の手を引き離すと、中年男はあわてて逃げ出した。 突然のことに何が起こったのかよくわからなかった菜摘は、ようやく知らない男に邪魔されたのだと気づいた。 「なによ、あんた!」 菜摘は憤慨して献一に詰め寄った。 「せっかく金づる見つけたのにぃ」 献一は眉を寄せた。 「金づるなんて言い方よせ。そんなことやってなにが楽しいんだ」 「楽しくてやってるわけないじゃん。お金が欲しいの!」 「おまえねぇ、カネカネって金の悪霊に取り憑かれてんな」 「失礼な奴、なにが金の悪霊よ」 プィッとそっぽを向いた菜摘の前に、献一は回り込んだ。 「おまえ、さっき万引きしただろ」 「えっ」 菜摘はドキリとした。確かにさっきのドラッグストアで品物をポケットに入れたけれど、まさか見られているとは夢にも思っていなかった。 献一はそのようすを目にして菜摘の後を追ってきたのだ。 「返しに行こう。一緒に行ってやるから」 献一はムズッと腕を掴んで歩き出そうとしたが、菜摘はその手を振りほどいた。 「な、何言ってんの。マジうざい、何の話?」 「ドラッグストアで化粧品を万引きしただろ」 「してないし」 「嘘つくな、見てたんだ」 菜摘はそれを無視すると人込みに紛れようと走り出した。 「待てよ!」 後を追った献一は、菜摘が路地を入ったところでつかまえた。菜摘が逃げようとして振り上げた腕が、献一の掛けていたファッショングラスにあたって下に落ちた。 「!」 献一はそれを拾い胸ポケットに収めてため息をつくと、髪をかき上げ菜摘を見下ろした。 (うそっ、めっちゃかっこいいー) 菜摘は、献一がかなりイイ男だったので、思わず目を見張り押し黙ってしまった。 はっきり言って、めちゃくちゃ好みだ。 「悪いことをしたって自覚、ないみたいだな」 目をぱちくりさせて見つめている菜摘の前に身をかがめ、献一はその顔をのぞき込んだ。 「いいか、万引きは盗みだ。犯罪だぞ。人のものを盗んで、どうして平気なんだ」 「えっ、えっと」 とっさに菜摘は、何かまともなことを言わなければと焦った。せっかく出会ったカッコイイ男をここでみすみす逃す手はない。 「返しに行くから…」 「あたりまえだ」 「一緒に行ってくれんの?」 「あぁ」  さっきのドラッグストアの化粧品売り場へ行くと、菜摘は万引きしたものを返そうとポケットから出した。 「ちょっと待て。ここじゃなくて向こうだ」 そう言って献一はレジを指差した。 「なんで。返すんだからここでいいじゃん」 「違うだろ、ちゃんと店の人に謝れ」 「やだよ」 菜摘は化粧品を棚に戻すと、膨れっ面をした。 「やだ」 「ったくもう…」 献一はさっきと同じようにため息をついて前髪をかき上げると、出口に向かって歩き出した。 菜摘はあわてて後を追った。 (足、早…) 人込みをかき分けどんどん先へ行く献一を、菜摘は半ば駆け足で追った。それに気づいた献一は、鬱陶しそうな表情で振り返った。 「何やってんだ、家へ帰れ」 「だって」 「何だ」 「送って欲しいよ」 献一は腕時計を見るとチッと舌打ちをした。 「しょうがない奴だな」 菜摘は心の中で叫んだ。 (ラッキー!) ふたりは駅へ向かって歩き出した。 菜摘はひとりでにほころんでいる頬をぴしゃっと叩いた。年齢的にいっても、誰が見たって恋人同士だと思うに違いない。こんな出会い、ほんとにラッキー以外の何ものでもない。とにかく、何とかして次の約束を取り付けなければ。  電車に乗ると、菜摘はそっと寄り添うように近づき、献一を見上げた。 「補導員じゃないよね」 「あぁ」 「なんて名前?」 「人に名前を聞くときは、まず自分から名乗りましょうって、教わらなかったのか」 「それって、定番の言い回しだよね。あたし、桜井菜摘」 「木坂献一。おまえさぁ、化粧品や洋服以外に欲しいものないの?」 「あるよ。ブランドバッグも欲しいし、スマホだって新しいのに替えたいし、ゲームソフトとか推しのCDやDVDも」 「もういい」 献一は、馬鹿馬鹿しいといった表情で言葉をさえぎった。 (あれ〜、怒ったのかな) 黙っている献一の横顔を見ながら菜摘は口を開いた。 「あたし、カレシが欲しい。あたしとつきあって」 献一はふーっと息をつくと、あきれ顔で菜摘を見た。 「何言ってんだ」 やっぱり唐突すぎたか、と菜摘は思ったけれど、このまま通りすがりの人間で終わりたくなかった。献一みたいにカッコイイ男と付き合えれば、美樹たちにも自慢できる。 (どうにかして彼の気を引かなきゃ…どうにかして…) 駅に着いて電車のドアが開いた。突然、菜摘はホームへ飛び出した。 「なってくれないなら死んでやる!」 そう言ってホームの反対側の線路に飛び降りようとした瞬間、菜摘は息をのんだ。 その視界には、猛スピードで入ってくる特急電車が飛び込んできたのだ。 「…!」 その時、必死で追いかけてきた献一が、間一髪、菜摘を抱き留めホームへ倒れ込んだ。 肩で荒い息をしながら、献一は菜摘の両肩を押さえ込んだ。 「おまえ、いったい何考えてんだ」 「……」  駅長にこってりお灸をすえられた菜摘は、しょんぼり駅長室のドアを開けた。 すっかりあきれ返っている献一に、菜摘は頭を下げた。 「ごめん…なさい」 献一はホームのベンチに腰掛けると、菜摘にも座るように促した。 菜摘がおずおず座ると、献一は腕時計に視線を落とした。 「8時半か… どうする?帰るか?」 菜摘は自分がバカみたいだと思っていた。予定では線路に飛び降りたら、にっこり笑って献一に手を差し出し、ホームに引き上げてもらうつもりだったのに実際はこの始末だ。 カッコ悪いことこのうえない。 それでも何とかして、献一と繋がっていたかった。 「カレシになって…」 菜摘は蚊の鳴くような声でぼそりと言った。 「んっ、なんて言った?」 「あたしとつきあって!」 献一は頭痛でもしているかのように顔をしかめた。 (何なんだ、こいつは) それでもすがるような目で菜摘に見られて、正直なところこのまま放ってはおけなかった。また線路に飛び降りられても困る。考えあぐねた末にこう応えた。 「取りあえず、友だちからな」 我ながら恥ずかしい返答だと、心の中では赤面していた。 「えー、ともだちぃ。やだ、そんなの」 菜摘は口をとがらせた。 「逆の立場なら、おまえだってそう言うだろ」 「…そうだけどぉ」 「友だちなんて恥ずかしいとこから始めんだから、パパ活や衝動的自殺未遂は絶対にしないって約束しろ。それから万引きもだ」 「約束する」 献一は正面から菜摘を見据えた。 「軽々しく返事をしてるんじゃないだろうな。いいか、誘惑があるのは分かる。だが、誰も見ていないからって自分を甘やかすなよ。悪いことは悪いんだと、しっかり認識しろ。おまえが何かすれば、必ず見ているものがいることを忘れるな」 「……」 菜摘は目をしばしばさせた。 「脅しじゃないぞ」 「充分脅しだよ」 献一がふっと笑ったのを見て、菜摘の表情はいきなり明るくなった。 「木坂さんて大学生じゃない?どこ?」 「光ケ丘聖書学院」 「聞いたことない。てゆーか、何勉強してんの?」 「神さま」 「えー、なにそれ?」 「神学生なの」 神学生と聞いて、菜摘は胸がときめいた。そんな人間に、今まで逢ったこともなかった。 「ってことは、神父さまになるわけ?」 「カトリックではそう呼ぶけど。オレはプロテスタントだから、牧師」 「牧師!?うっそぉ〜、めっちゃかっこいー♡」 「そういうリアクションは初めてだな」 思いっきりはしゃいだキラキラ声を出す菜摘が、献一には何だか可笑しかった。 「清く、正しく、貧しいんだ」 「なんか、思い込み激しいな。まぁ、確かにオレは貧しいけど」 菜摘は瞳を真ん丸にして、献一を見つめている。 「神さまのこと知りたいか?」 神学生の献一にとって、神を語るのは至上命令だった。『すべての人に神の福音を述べ伝えよ』これが常に架せられている事柄だったからだ。 「木坂さんのことが知りたい。これから、家に行っていい?」 献一はぶっ飛んだ。今どきの高校生なんて、ロクなやつがいないとは思っていたが、ここまでくると言葉を捜すのも面倒に思えた。 (何を考えてんだか…) 献一の思いなど知ったことではない菜摘は、なおも言葉を重ねた。 「ねぇ、いいじゃん」 「オレはバイトへ行く途中なの。もうすでに遅刻だ」 そう言いながら献一は腕時計を人差し指でこつこつと叩いた。 遅刻と聞いて、菜摘は少し戸惑った。 「…バイトなのに送ってくれたの?」 「送って欲しいって言ったろ」 「そうだけどぉ…」 菜摘は、急に悪いことをしたような気になった。そして、バッグからスマホを取り出すと献一に差し出した。 「LINE交換して。ちゃんと帰るから」 「お嬢さん、貧しい神学生はスマホなんて持ってないの」 献一は、菜摘のスマホに電話番号を入れた。 「寮だから、3年の木坂って言えば呼び出してもらえる。ただし、夜は7時を過ぎるとバイトでいないけどな」 「寮?」 「じゃ、急ぐから」 「あっ、待って!」 菜摘はあわててメモに走り書きをした。 「あたしの番号。電話して」 「あぁ、主イエスの祝福がありますように」 献一は片手を軽く挙げてそう言うと、反対側のホームに入ってきた電車に飛び乗った。                2    菜摘の家は繁華街から電車で30分ほどのところにあった。 駅から歩いて25分。5階建てマンションの4階部分。サラリーマンの父親が購入した分譲マンションのローンはまだ20年も残っている。残業が減りボーナスも充てにできなくなった昨今、高額のローン返済のため母親もパートに出ていた。3LDKの部屋のために両親がいくらの借金をしたのか菜摘は知らない。 とにかく、今はその価値もないバカ高いマンションに両親と兄の4人で暮らしていた。  通学のために駅まではいつも自転車を使っていたが、駐輪場の足りないこの地区では道路のあちこちに違法駐車の自転車が溢れていた。 朝、適当に空いている場所に自転車を止めるのは簡単だったが、帰りには二重三重に止められた自転車の中から自分の物を探しだし道路へ引っ張り出すのは至難の業だった。 乗れるまでに15分や20分かかるのは当たり前だ。 いつだったか本当にどこにあるのかが分からなくて、歩いて帰ったことがあった。 盗られたのかもしれないと告げると散々母親に文句を言われ、夜中になって父親が探しに行き置いた覚えのない場所で見つかった。  うんざりすることばかりの毎日だけれど、今日は少し違っていた。献一に会えたうえに自転車はすんなり見つかり驚くほど早く道路に出せた。なんてラッキーな日なんだろう。飛び上がりたくなるほど嬉しかったけれど、はしゃいだ気持ちを隠すようにして菜摘は玄関のドアを開けた。 「菜摘なの?」 母親が台所から顔を出した。 「遅くなるときは、連絡を入れなさいっていつも言ってるでしょ」 そう言いながら、不機嫌そうにため息をついた。 「電話かけたのに、切っちゃって」 菜摘は母親の言葉を無視して、リビングに入った。 「菜摘、聞いてるの?ちゃんと電話に出ないなら、携帯なんて持たせないわよ。毎月いくら払ってると思ってんの」 「っるさいな」 「ほんとに、この子は」 せっかくいい気分だったのに、母親の小言で半減してしまった。まったくこの人は子供に小言を言うしか能がないのだろうか。いや、子供だけではなく自分の夫にも顔を合わせれば文句を言っている。 「お父さん!菜摘に携帯の電源を切らないように言ってよ」 「あぁ」 「生返事ばっかりで、子供のことはわたしに任せっきりのくせに。いつもわたしが悪者じゃない。だいたい、お父さんときたら…」 父親は母親の愚痴が始まると、決まって聞こえない振りをしていた。  テーブルにはひとり分の食事が用意されている。菜摘が食卓に着くと、母親はごはんをよそった。 「手ぐらい洗いなさい」 「いちいちうざいよ。汚れてないって」 母親は呆れて台所へ入った。父親はソファに横になって新聞を読んでいた。テレビからはニュースが流れている。 「お兄ちゃんは?」 「よその大学とコンパだって」 「コンパ?どうせ合コンだよね」 菜摘は箸を持ったまま立つと、父親の前に置いてあったリモコンを取りチャンネルを変えた。 「おいおい、変えないでくれよ」 「新聞読んでんだからいいじゃん。この番組見たいんだもん」 菜摘はテレビを見ながらご飯をかき込んだ。おかずにはいっさい手を付けず、海苔の佃煮と白米だけしか食べなかった。 菜摘は好き嫌いが多かった。野菜はほとんど食べなかったし、魚も嫌い。カレーやハンバーグなら食べるけれど、肉類にもたいして興味はなかった。 好きなものといえば、ケーキやお菓子、ポテトチップのようなスナック類。カバンの中にはいつもアメやチョコが入っていた。 食べ終わると、ごちそうさまでもなく片づけをするでもなく席を立つと部屋へ行った。 母親はいつものことと、何も言わずにテーブルを片づけた。  部屋へ行くと鞄を放り出し、制服のままベッドに寝転がった。菜摘は、知らず知らずのうちに顔がゆるんで、ニヤニヤしていた。 (『主イエスの祝福がありますように』だって。神学生なんて、なーんかストイック) あんなに素敵な大学生に巡りあえただけでもラッキーなのに、そのうえ神学生という特殊な環境にいる献一が、いきなり自分の心の大半を占めてしまったことにドキドキしていた。想像力だけで恋愛ができる恐ろしい年頃である。  「おっはよー」 校門近くで理奈と美樹を見つけた菜摘は声を掛けた。 「おはよ、何かいいことあったの?」 「なんで」 「すごく嬉しそうだもん」 「えへへ」 菜摘は昨日ふたりと別れた後、献一と出会ったことを大はしゃぎで話した。 「神学生?牧師?なにそれ」 「とにかくめっちゃステキなんだから」 「いいなぁ、菜摘。紹介してよ」 「そのうちね」 「キリスト教なんて、なんかいーカンジだよね。かっこいいって言うかさ。アーメンとかやちゃうんでしょ。教会で結婚式なんて憧れちゃうよ」 「今度いつ会うの?」 「わかんない。だって彼、スマホ持ってないもん。清く正しく貧しいんだから」 「きゃぁー!」 3人は焦点のずれたところで、すっかり盛り上がっていた。  授業中もスマホを机の上に出し、いつ献一からかかってきてもいいように待ちかまえていた。けれど、いつまで待っても献一から連絡のないことにしびれを切らした菜摘は、寮へ電話をかけた。呼び出し音が1回、2回……29回、30回… 誰も出ない。 菜摘は鼻息荒くふんと息を吐くと電話を切った。 「なによ!誰も出ないじゃん。この番号、もしかしてインチキ?」 決してインチキではなかったのだが、昼間寮には誰もいないことが多かった。 菜摘は、光ケ丘聖書学院を検索した。 「おんなじ沿線じゃん。ラッキー!」 そう言うと最後の授業が終わらないうちに学校を抜け出した。  光ケ丘聖書学院は、駅から歩くと結構な距離だった。閑静な住宅街のはずれにひっそりと門が開かれてる。 菜摘は校舎の入口に設置されてる案内板を見上げ、3年の校舎を探した。中に入ると、今どきめずらしいくらい校舎は古くてツンと鼻をつく油引きの廊下だ。休み時間なのか、わさわさと学生が廊下に出ている。 キョロキョロしている菜摘に、ひとりの女学生が声を掛けた。 「どうしました。どなたか捜してます?」 「えっと、木坂献一さん」 すると、彼女はにっこりと笑い、 「ちょっと待っててくださいね」 と、そのまま3-Aの教室へ入っていった。しばらくすると、献一が教室から出てきた。 「なんだ、おまえか」 少し驚いたように声を出した献一の後ろから、同級生の宇都宮了が顔を出した。 「ゆうべの子?けっこう可愛いじゃない」 了はつかつかと菜摘のところへ行くと、握手を求めた。 「ハレルヤ、宇都宮了です。よろしく」 「はぁ」 なんだこいつ、と思いながら菜摘はおずおずと手を出した。何でこんなところで握手なんだ。おまけにハレルヤっていったい何だ。  了は見た目、献一とは全く違うタイプだった。真面目そうで、さわやかな好青年といった感じだ。眼鏡の奥で、優しい瞳が輝いている。こっちもけっこうカッコイイ。 「おまえの客じゃないだろ」 献一はスッと菜摘の肩に手を回すと、外へ促した。菜摘は肩を抱かれて、ドキドキと 高鳴る心臓の鼓動を楽しんでいた。  校舎と渡り廊下をはさんで、教会が建っている。白い壁に濃い緑のとんがり屋根。お定まりの十字架。誰が見ても一目で教会だとわかる建物だ。ただ、その十字架の屋根を見上げて、菜摘は物足りない気がした。 (鐘、付いてないんだ…) テレビや映画に出てくる教会は、みんな鐘が付いていたと菜摘は思った。  献一が礼拝堂のドアに手を掛けようとした時、いきなりそのドアが開いて、初老の紳士が出てきた。 「あぁ、木坂君か。この間の聖霊についてのレポート、とても良かったよ」 献一は少し照れたように頭を下げた。 「そちらのお嬢さんは?」 「えっと…何だっけ」 ちらっと視線を向けた献一に、菜摘はぷっと膨れっ面をした。昨日ちゃんと名乗ったのに覚えていないなんて、ヒドイ。 「…桜井菜摘」 「よくいらっしゃいました、滝川です。木坂君が女性を連れてきたのは初めてですよ」 「あのー」 献一は余計なことを言うなとばかりに、口をはさんだ。 「ははは… 今度は礼拝にいらっしゃい」 軽く手を上げて背を向けた滝川牧師に、献一はゆっくりと会釈した。 「先生なの?」 菜摘の問いに、献一は頷いた。 「学院長で、この教会の主任牧師」 「ふ〜ん」 菜摘は上目で献一を睨んだ。 「ねぇ、名前くらいちゃんと覚えてよ。そーゆーのってムカつくんだけど」 「悪かったよ、桜井菜摘だろ。覚えた」 献一は、菜摘を礼拝堂へ招き入れた。 正面の窓が、大きな十字架の形をしている。高い天井、整然と並べられた木製の長椅子。ひんやりと澄んだ空気に、菜摘の心はキュッと引き締まるような気がした。  教会に入ったのは、初めてだった。他の場所とは違う雰囲気が、そこにはあった。 講壇の脇に、その場所にはにつかわしくなく、ドラムやギターが何本も置かれている。 「座れよ」 献一は、長椅子のひとつを指差した。 会堂内は菜摘が思っていたよりもずっと殺風景だった。大晦日、NHKの行く年来る年で毎年のように放送される長崎の浦賀天主堂は、もっときらびやかで厳かな感じがした。 「ねぇ、キリストとか、マリア像とか、ステンドグラスとか、そーゆーのないの?」 「ないない」 献一は、何を言ってるんだと言いたげな表情をしている。 「ミサの時、女の人はレースを頭にかけてるじゃん。男の人は何でしないの?」 「ミサねぇ。おまえ、カトリックとプロテスタントの違いがまるで分かってないな」 そんなことを言われても、菜摘には違いも差も分からなかった。同じキリスト教なのに何が違うんだろう。 「まぁ、カトリックは見た目からして、それっぽいけどな」 「なんでドラムなんかあんの?」 「バンドで賛美するんだ」 「賛美って?」 「神を褒めたたえる歌を賛美って言うんだ。賛美歌って言えばわかるかな。あれの現代版さ。バラードにポップスにロック、いろいろ」 「へぇ」 「で、アポなしで来るなんて、どうした」 「だって、電話もLINEもくれないじゃん」 「昨日の今日だぞ、なんか勘違いしてないか。それに学校は行ったのか」 「うん…」 菜摘は大きくため息をついて見せた。 「行ったんだけど、何となくつまんなくて」 「何となく、ね」 「だって、あんまり普通なんだもん。両親が揃っててアニキがいて、学校行って… つまんないよ」 「じゃ、どういうのならいいんだ。両親は離婚、兄貴はヤクザ、借金だらけで住むとこなくて」 「なにそれぇ、ありえなーい」 菜摘は献一の言葉をさえぎった。 「お金持ちがいい!大きな家に住んで、お手伝いさんがいて、欲しいものは何でも買えて海外旅行にも行って」 菜摘は、ひとりですっかり興奮していた。 献一は長椅子の背もたれに肘をつき、口の端で少し笑って菜摘をじっと見ている。 菜摘は、急に恥ずかしくなって口をつぐんだ。 「…あたしって変?」 「おまえの欲しいのは、物ばかりなんだな。愛とか希望とか、心の平安を求めたりしないのか」 菜摘は心がチクリとした。こんなことを言う人間に出会ったのは初めてだった。 「人間が生きていくうえで、いちばん大切なのは何なのかって、考えたことないのか。金だなんて本気で思ってるなら、もう一度考え直したほうがいい」 もっともだと菜摘も思ったけれど、素直に納得できなかった。 「お金だって大事じゃん」 逆らうつもりはなかったのに、思わず口をとがらせてしまった。 投げやりな菜摘に対して、献一はどこまでも穏やかだった。 「不満は欲があるから出てくるって知ってるか」 「欲のない人なんかいないよ。これがあったらもう少し気分がいいのにとか、楽しくなるのにって思うことがいけない?」 「聖書にさ、もうこれ以上ないってくらい良いことが書いてあるんだ」 聖書と聞いて、菜摘はごくりと生唾を飲み込んだ。 「【自分の持っているもので満足しなさい】って」 「え〜!」 菜摘は思わず声を上げた。 「反論の余地ないだろ」 「マジ意味わかんない!お金持ちも貧乏人も、その状態のままでいろって言ってるのと同じじゃん」 「ほんとにそう思うか?」 真顔で献一が顔を近づけてきたので、菜摘はキスをされるのかと思い、ドキリとした。 献一は、すっと立ち上がると講壇に向かって歩き出したが、そのそばで菜摘は自分の勘違いに気づき、ひとりで赤くなっていた。 「神以外のもので心を満たそうとするから、いつまで経ってもどこまで行っても満足できないんだ。神の愛はすべての人間に注がれているのに、みんな気がつかない」 菜摘はその言葉に、なぜか胸の奥が震えたような気がした。 (ああ、そうか。この人は牧師の卵なんだ。あたしのような俗人とは違う) けれど、牧師って本当はいったい何なのだろう。 「木坂さんって、聖書の通りに生きてんの?」 献一は、くるりと振り向いた。 「そうありたいと思ってる。難しいけどな。周りから言わせりゃ、オレなんか態度も言葉遣いも悪いし、とても神学生に見えないってさ」 そう言って肩をすくめた。 「神学生ってさ、7、3頭に黒縁眼鏡かけてて、聖書片手に説教しかしないカタブツってイメージあるよな」 「やだぁ、自分でそんなこと言ってるぅ」 菜摘はケラケラと声を立てて笑った。 「そんな牧師ばかりじゃ、つまんないだろ。神さまはいろんな人間を使って宣教すんだよ。元ヤクザの牧師だっているんだぜ。オレが7、3頭の説教野郎だったら、ここに来たか?」 「来ない」 「だろー」 確かにそうだった。献一は、今どきの女の子たちならキャアキャア騒ぎそうな不良っぽいワイルドさを持ちあわせていた。  静かにドアが開いて、30歳前後の女の人が入ってきた。深く帽子をかぶり、一歩ずつ足許を確かめるように歩いている。 「ハレルヤ」 その人は満面の笑みをたたえていた。 献一はさっと駆け寄ると、聖書を持ってやり座るように促した。 「身体の具合、どうですか」 「相変わらずよ。お祈りしたくて来たんだけど、いいかしら」 「オレたち、もう行きますから」 献一は、聖書を彼女の座った長椅子の上に置いた。 「そちらの可愛い人を、紹介してください」 「あっと、桜井さん」 献一に手招きされて、菜摘はそばまでやってきた。 「森田です。いつもはどこの教会にいらしてるの?」 「あたし、今日初めてで」 「そう、じゃ日曜の礼拝にはきっといらしてね」 森田は、優しい笑みを菜摘に向けた。 何のストレスも何の悩みもなさそうな森田のようすに、菜摘は少々不快感を感じていた。 (なんだ、この人) 「木坂くん、とっくにチャイム鳴ったけどいいの?」 「げっ、やべぇ」 献一は菜摘の腕を掴むと、礼拝堂を出て庭へ急いだ。 「これから奉仕作業があってさ。池の掃除」 「池のそうじ?」 向こうで了が手を振っている。 「献一!遅いよ。こっちこっち!」 献一も手を上げて、それに応えた。 「ひとりで帰れるだろ。じゃあな」 走り急ぐ献一の背中に、菜摘はあわてて声をかけた。 「待って、待ってよ!」 献一は、面倒くさそうに立ち止まると振り返った。 「まだ何か用か」 「ねぇ、見ててもいい?」 「掃除だぞ。おまえって、変な奴だな」 菜摘は献一の目の前に走り寄ると、じっと見据えて口をヘの字にまげた。 「変な奴?何それ、そーゆーのって、マジむかつくんだけど」 菜摘の妙な言葉遣いに、献一は少しきょとんとした表情を見せたが笑って答えた。 「見てるのは勝手だけど、適当な時間になったら帰れよ」 献一は池のそばまで行くと、腕まくりをし靴と靴下を脱いでジーンズのまま池に入った。 「着替えてこいよ」 了が、金魚すくい用に用意された網を手渡しながら言った。 「もう濡れちまった」 献一は受け取った網で池の中をかき回したが、そんなことで網にかかるドジな金魚はいなかった。 「こんな網じゃダメだって、毎回言ってんのにな」 「予算がないんだから、文句を言わない。網があるだけでも感謝しましょう」 文句を言いつつも、献一は目をキラキラさせながら、幼い子供のように金魚を追い掛け回していた。 菜摘はそんな献一をスマホのカメラでカシャカシャと撮っていた。 (かっこいー!かわいー!すてきー!) ボキャブラリィの少ない菜摘には、こんな言葉しか浮かばなかったが、嬉しくて仕方がなかった。早速、美樹たちに献一の写真を自慢気に送った。もちろん返信は、菜摘をおおいに羨むものだった。その返信に菜摘は今までにないくらい満足していた。  見回すと、あちこちで掃除や片づけをする学生たちがいた。献一の言う賛美なるものを口ずさみながら、みんなけっこう楽しそうだ。 (なんで、あんなに楽しそうに掃除なんかやってんだろ…) 考えてみると不思議だった。菜摘は学校の掃除で楽しいなんて思ったことは一度もない。 (へんなの)  菜摘は、ふらふらと学院の中を見て回った。古いけれど、よく管理の行き届いた校舎。広い敷地の丘には、寮らしい建物が見えた。きれいに刈られた芝生、大きな欅が心地よい陰をつくっていた。 その木陰では、迷って入ってきたらしい野良犬が気持ち良さそうに昼寝をしている。 菜摘は野良犬のそばへ行くと頭を撫でた。その犬はちっらと菜摘を見ると知らん顔をしてまた目を閉じた。首輪にはネームプレートが下げられ、“まめスケ”と書かれている。 「変な名前。おまえ、野良犬じゃなくて迷い犬なの?」 犬は日なたの匂いがした。  少し離れたところに何本も植えられているイチジクの木には、たわわに実がなっている。 菜摘は、イチジクの木を見るのは初めてだった。実の方は食べたことがあるような気がしたけれど、思い出せなかった。 「食べてみる?」 ふいに声を掛けられ驚いて振り返ると、そこには了が立っていた。 了はイチジクの実をひとつもいで、菜摘に手渡した。 「どーも」 「献一のこと、好きなの?」 「うん」 「どこが?」 「だってぇ、ルックスいいし牧師になるなんてカッコイイじゃん」 「それだけ?」 「んっ… てゆーか、まだよく知らないもん」 「でも、好きなんだ」 「そっ」 了は呆れたように、くすっと笑った。そこへ、腕まくりをした献一が走ってきた。 「まだいたのか。もう帰りなさい」 「掃除終わった?」 「あぁ」 「バイトの時間まで、どっか遊びに行こう」 了はニヤニヤしながら献一を見た。 「なんだよ」 「べつにー」 了には、ふたりのようすが可笑しくてしかたなかった。 献一はまくり上げていた袖を下ろした。 「もう夕食なんだ」 菜摘は、いぶかしげにスマホを献一の目の前に突きだした。 「だって、まだ5時じゃん」 「夕食は5時10分から。その後片づけて、風呂入って、6時半から祈り会がある。それが終わったらバイト。わかった?」 「神学生って忙しいんだ」 「まぁな」 菜摘は、献一と了の顔を見比べた。 「日曜日は?会ってよ」 「毎週土曜の午後から、隣県の教会へ奉仕に行くんだ。帰ってくるのは日曜の夜。だから無理だな」 それを聞いて、菜摘は口をとがらした。 「ありえなーい!放課後もなくて、夜はバイト、日曜はいない。いつ休みなの!」 「休みって…」 献一は、ポリポリと頭をかいた。 「そうだな、祝日くらいかな」 「祝日なんて、ずっと先だもん。友だちから始めようって言ったじゃん」 隣で了は、必死に笑いをこらえている。 「友だちから始めようなんて、そんな恥ずかしいこと言ったの?」 「るっせえな、了に関係ないだろ」 とうとう了は、こらえきれずに大笑いを始めた。 「ったく…」 献一は了をじろりと睨みつけると、菜摘をイチジクの木の反対側に連れてきた。 「明日3時頃ここへ来られるか」 「なに?」 「ビラ配りやるんだけど、手伝いに来るか?」 菜摘は返事の代わりに、にっこりと笑って頷いた。内心、嬉しくて飛び上がりたい気分だった。 「ねぇ、昨日のやってよ」 「昨日の?」 「ほら、主イエスのなんとかってやつ」 「あぁ」 献一は菜摘の頭に手を置くと、静かに目を閉じ祈り始めた。 「愛する天のお父さま、御名を崇めて感謝いたします。今日は、桜井菜摘さんをここへお送りくださってありがとうございます。どうか彼女が心を開き、あなたを知ることができますように。そして、あなたを信じあなたの救いの恵みに預かることができますように導いてください。このときを感謝し、尊きイエスさまの御名によってお祈りいたします。アーメン」 献一の祈りを、菜摘はきょとんとして聞いていた。何を言っているのか、さっぱり分からなかったのだ。けれど、献一が自分のために祈ってくれたことは、なんだか嬉しかった。  にこにこと帰っていく菜摘を見送ると、献一はため息をついて気だるそうに髪をかき上げた。するといつのまにか了が、献一の後ろに立っていた。 「完全に彼女のペースにはまってるね」 「おまえなぁ、真後ろに立つなよ。背後霊みたいなやつだな」 「背後霊だって。滝川先生が聞いたら、仏教的表現だって怒るよ」 「はいはい」 思ったほど関心のない素振りを見せる献一に、了は鼻先でフフンと笑って見せた。 「なんだよ」 「べつにー。まぁ、ノンクリと知りあう機会なんてそうないからね。いいんじゃない」 「おまえねー」 ふたりは食堂に向かって歩き出した。                3    菜摘は、スマホを見ながら走っていた。約束した時間は、もう過ぎている。 (やだぁ〜、着替える暇もなかったぁ。やっぱサボればよかった) 学院の前に来ると、紙袋を下げた献一と了がいた。 「ちょっと遅れちゃった。でも、授業はサボってないよ」 「じゃ、行こうか」 献一は歩き出した。 「ねぇ、どこ行くの。ビラ配りって言ってたっけ?」 「近所の女子大。これ撒くの」 了は紙袋の中から、紙を一枚取りだした。 それは了が奉仕のために派遣されている隣町の教会の特別伝道集会のチラシだった。 「女子大?」 献一は振り返ってサングラスを掛けた。 「オレたち見てどう思う?」 「ふたりともカッコイイ」 「だろ。オレたちは、学院の広報マンなわけ」 献一が髪をかき上げた隣で、了が微笑んだ。 「僕たちがチラシ配ると、女の子がたくさん教会に来るんだよ」 菜摘は、うぬぼれてるなと思いながら確かに言う通りだとも思っていた。 背広を着たオッサンが配っても誰も教会に行かないだろうけれど、彼らがいるなら行く気になりそうだった。 「けどそれってさ、サギじゃん」 献一は余計なことを言うなとばかりに横目でちらりと菜摘に視線を送った。 「動機は、何でもいいんだよ。オレたちは切っ掛けを作るだけさ」  女子大の前まで来ると、献一は門柱に手を当て何やら祈り始めた。了も目を閉じその祈りに合わせるかのように、時々【アーメン】とか【主よ】とか言葉を挟んでいる。 祈りが終わると、ふたりは袋からチラシを取りだした。 授業が終わって出て来た女の子たちは、全員嬉しそうに指しだされたチラシを受け取っていく。 (サギられてるとも知らないで、バッカみたい) 菜摘は壁に寄りかかって大好きなチョコレートをかじっていた。 「おい、ゴミを道端に捨てるな。常識のない奴だな」 献一は菜摘が捨てたお菓子の包み紙を拾うと、彼女のポケットに押し込んだ。 「なんでゴミを捨てて平気なんだ。ここはおまえのごみ箱か」 「いいじゃん、ちょっとくらい。あたしに説教しないでよ」 献一はその言い草にため息をついた。 「おまえってどうしようもないな。ほら、手伝え」 チラシの束を差し出した献一に、菜摘は舌を出してそっぽを向いた。 「何しに付いてきたんだよ。昨日ビラ配りだって言ったはずだ」 「あたしは見てるだけなの。なんなら、1枚もらったげてもいいよ」 献一は呆れ顔で菜摘にチラシを1枚渡した。 「どうぞ、お嬢さん」 「どっも」 チラシはいかにも手作りですといった安っぽいものだった。 伝道集会のためにメッセンジャーとしてハワイから牧師が来るというものだったが、中野裕二郎という日本人だった。なんで、わざわざハワイから日本人の牧師を呼ぶのだろう。どうせ呼ぶなら金髪青い目、バリバリのガイジンの方が絶対いいに決まってる。 「ねぇ、なんで?」 「さあな、そこの教会の趣味なんじゃないの」 「趣味で決めるわけ?」 「誰だって何だっていいんだよ。神さまはどんなものを使ったって働いてくださるんだから。なんなら、ナスのへただって」 「献一、言い過ぎ」 了にたしなめられ、献一はちょっとマズかったかと舌打ちをした。 「わけわかんなーい」 「いいから、おまえも友だち連れて集会に来い」 「だって、木坂さんいないんじゃん」 了はにっこり笑って自分を指差した。 「僕はいるよ。僕じゃだめかな」 「だめに決まってるじゃん。ばっかみたい」 ばっさり斬り捨てられて、了はすっかりいじけモードだ。献一は了の肩に腕を回すと、よしよしと頭をなでた。 「修行が足りないな」 「おまえって、仏教用語好きな。ちっとも慰めになってないよ」 菜摘はふたりを見ていて、にんまり笑った。 「ねぇ、ひょっとしてふたりはゲイなの?」 献一と了はその場で固まった。  女子大の前で一通り配り終えた献一たちは、駅へ来た。ここでも道行く人にチラシを配り始めた。  菜摘は手持ちぶさたでやることもなかったから、スマホの占いアプリを開いた。 今日のラッキーカラーは黄色。黄色のものなんて持っていなかったけれど、3日も続けて献一に会えたのだからラッキーこのうえない。 菜摘がにたにた笑っていると、肩越しに献一の怖い声が飛んできた。 「またパパ活じゃないだろうな」 くるっと振り向くと、菜摘はスマホの画面を見せた。 「違うよ、今日の運勢見てただけだもん」 とたんに献一の顔色が変わった。 「占いなんか絶対にやるな」 「えっ… なんで?」 「心が壊れる。悪霊憑きになってもいいのか」 「意味わかんない。なによ、悪霊憑きって」 献一は【こっくりさん】の話を持ち出した。 正直【こっくりさん】は怖い。 献一が小学6年の時、クラスでこっくりさんが流行ったことがあった。霊的な動きに敏感な献一には、それの及ぼす影響がどういうものだかよく分かっていた。面白半分に遊んでいるクラスメイトに、やめるよう再三注意をしたけれど誰も聞かなかった。それどころか、悪霊が憑くと言う献一をバカにし相手にすらしなかった。  何も起きなければいいと思っていた矢先、それをやって遊んでいた者のひとりが突然大声をあげ3階の教室の窓から飛び降りた。両足と腰の骨を折る重症だった。 本人は病院のベッドで泣きながら言った。 『だって、誰かが飛び降りろって言ったんだもん』 それはクラスで大問題になった。誰がそんなことを言ったのか、何時間ものホームルームがその話に費やされた。そこでも献一は悪魔のささやきだと説明したが、先生にも生徒たちにも【おかしな奴】というレッテルを貼られたうえに無視され、献一の言葉を信じる者はいなかった。  献一は自分で、飛び降りたクラスメイトの悪霊を追いだそうと病院へ行ったが、その子の母親に気持ちの悪いことを言わないでくれと追い返された。 たとえ悪霊を縛る祈りをしたとしても、あの頃の献一にはできなかっただろう。 悪霊を縛り追い出すには執り成しと充分な備えの祈りと、もうひとつ重要なのは追い出してもらう側にも信仰が必要だということだ。準備不足では返り討ちに遭うのが関の山。 あの時は、むしろ追い返されてよかったくらいだ。 「当たる占いほど危ない。本物が憑いてるから当たるんだ」 「本物って?」 「サタンさ」 「……」 突然、菜摘は大笑いを始めた。 「うっそ〜、やだ、何それ」 「冗談で言ってるわけじゃない。占いを信じる心の隙を突いてサタンは入り込んでくる。悪魔に来てくれってアンテナを張ってるのと同じ行為だ。占いだけじゃない、今流行りの殺人ゲームも同じだ。心の中に入り込まれたら、取り返しがつかなくなるぞ」  一時期少年犯罪が横行したが、あの時少年たちは口を揃えて同じことを言った。 《頭の中で声がした【殺せ】と》 あれは精神異常でも何でもない。占いやオカルト、戦闘や殺人ゲームに興じ、悪魔に蝕まれてしまったからだ。  真面目な顔でそう言われ、菜摘は何だか怖くなってきた。 「ほんとに?」 「オレが嘘つきに見えるか」 菜摘は首を振ったけれど、それでもにわかに信じがたかった。了を見ると、彼もそのとおりだと頷いている。  菜摘には何が何だかよく分からなかった。世の中がおかしいのか、彼らクリスチャンがおかしいのか…。占いはともかく、殺人ゲームは確かに人の痛みの分からない人間を作りだすと言われている。でも、悪い奴をやっつけるゲームは結構面白い。銃で撃ったり、剣でばっさり切りつけるのは、ゲームの中でもいい憂さばらしになる。 菜摘もそんなゲームソフトはたくさん持っていた。  献一たちといると、今まで当たり前だったことがとんでもなく具合の悪いことだと指摘される。パパ活は確かに後ろめたかったけれど、万引きだって罪悪感など微塵もなかったし、占いが心の隙をつくるなんて考えたこともなかった。 今まで誰も悪いことだと教えてくれなかっただけで、本当はとっても悪いことなのだろうか。  帰り道、自転車に乗りながら菜摘はポケットのアメを口に放り込んだ。が、突然自転車を止めて振り返った。少し後ろに、今捨てたアメの包み紙が風に飛ばされそうになっている。菜摘ははぁーっと大きく息を吐くと、自転車を戻してそのゴミを拾い前のカゴに入れた。 (何やってんだろ、あたし) 自分の捨てたゴミなど、気にしたこともなかったのに…。                4    光ケ丘聖書学院の朝は早い。毎朝6時から始まる早天祈祷会の賛美が、この学院の一日の始まりを告げる合図だった。 祈祷会が終わると朝食を食べ後片づけをし、各自部屋の掃除をする。8時10分からの60分授業が10分間の休憩をおいて3時限、昼食と後片づけをはさんで午後から1時限。 その後は実習やら奉仕やら毎日何らかのカリキュラムが組まれていた。  学院には祈祷室なるものが10部屋ある。人ひとりが入るスペースしかない、小さな部屋。イエスは、自分の部屋で戸を閉めて祈りなさいと言われた。祈りに専念するための小部屋が祈祷室だ。 昼休み、献一は毎日祈祷室に入り込んで昼寝をしていた。彼は夜警のアルバイトをしているのだが、そこでは3,4時間の仮眠を取るのが精一杯だったから昼休みは貴重な睡眠時間だった。 クラスメイトは皆献一のことを知っていたから昼寝を邪魔する者はいなかったが、今日は少々事情が違った。 慌てたようすで祈祷室のある廊下へ駆け込んできた了は、部屋の札を見回した。使用中の札が掛かっている部屋は4部屋。そのどこかに献一がいる。了はドアに耳を押し付けた。端の部屋からは、小さな祈りの声が聞こえている。次のドアも声が聞こえる。だが、みっつめのドアから聞こえてきたのは、いびきだった。 (見つけた…) 了はドアをバタッと開けると、献一をたたき起こした。 「献一、たいへんだよ!起きろ!」 「なんだよぉ」 献一は鬱陶しそうにあくびをすると、目を擦った。 「まめスケが車に轢かれた!」 「轢かれた!?」 献一は祈祷室を飛びだした。  校門近くまで行くと、大勢の学生が集まっていた。その中心でひとりの女学生が血まみれの犬を抱いて涙している。 「まめ…」 「ひどいよ。まめスケを轢いた車、行っちゃった」 献一は犬を受け取ると、そのまま動物病院目指して走った。  まめスケは去年の夏休みに共同奉仕で行った先の教会に捨てられていた犬だった。 みんなでもらってくれる先を捜し回ったけれど見つからず、すっかり懐かれていた献一が連れて帰ってきてしまった。こっちでも飼ってくれる人を捜したが見つからなかった。 献一は行き場のない捨て犬を自分で飼いたいと先生たちに頼んだが、とんでもないと一括されてしまった。すると献一は先生の前に捨て犬を突きだし、真顔で言った。 『では、先生が保健所へ連れていってください。可哀相に先生方のせいでこの犬は処分されるんですから、最期の面倒は見てやってください。この犬がいったいどんな罪を犯して処分されるんでしょうか。食用や害のためにと言うならイエスさまもお許しくださるかもしれませんが、この場合はどうなんでしょう』 この言葉に先生たちはたじろいだ。 『君は教師を脅すのかね』 結局、捨て犬は【寮の裏庭でつないで飼う】という約束で献一が責任を持つことになったのだが、いつのまにか学院の中を自由に動き回り、誰でも好きに可愛がってかまわない犬になっていた。    動物病院の待合室で、献一は頭を抱え込みまめスケが癒されるように祈っていた。 腹腔破裂に後ろ右足骨折の重症で、手術中だった。長い時間が経っているにも関わらず、一向に終わる気配がない。 「献一」 声を掛けたのは了だった。 「来てくれたのか」 「まめスケ、どう?」 「まだ分からん」 了が紙袋を出し振って見せると、中からガサガサチャリチャリと音がした。 「まめスケの病院代、学院中からお金集めた。飼うことにいちばん反対してた有賀先生が、いちばんたくさん献金してくれたよ」 「そうか」 献一は、ほんの少し笑顔を見せた。 「今、まめスケのために連鎖祈祷やってるよ。だから、絶対治る」 「あぁ」 「それにしてもひどい格好だな」 献一はそう言われて両手を上げた。手も服も血まみれでひどい状態だった。 「着替えてこいよ。それでご飯食べたらバイトへ行ったほうがいい」 献一が反論しようと口を開きかけたところへ、了は人差し指を差し出した。 「まめスケのそばにはイエスさまと僕がついてるから、献一は自分のやるべき責任を果たせよ」 「わるいな、了」 献一はすっと立ち上がった。  翌日の昼休み、献一は了とまめスケのようすを見に病院を訪れた。 小さな体は包帯でぐるぐる巻きにされ、傷を舐めないように首にはエリマキトカゲのような輪っかをはめられている。 まめスケは献一を見つけると、しっぽを振り嬉しそうに舌を出した。 「まめスケ、大丈夫か」 献一はケージに手を当てると祈り始めた。了も同じようにケージに手を当て目を閉じた。 怪我の状態は決して軽くはなかったが無事に手術を終え、まめスケは獣医も驚くほどの早さで回復していた。 「昨日はもうダメかと思ったけど、さすが学院の犬ね。今日はびっくりするくらい元気よ」 「連鎖祈祷の効果は絶大ですからね」 「ほんとに神がかりよね、あなたたちって。今度重症の動物が来たら、頼みに行こうかしら」 「先生に信仰があったら、治るかもね」 「そこが問題よねぇ」 3人が顔を見合わせて笑っているところへ、飛び込んできたのは菜摘だった。 「いたぁー!ここだぁ」 息を切らし、ごくりと唾を飲み込んだ。 「なんだ、おまえ。また、学校サボったのか」 「残念でした、今日は午前で終わりなの」 菜摘は夕べ、学院の寮へ電話を掛けた。その時に了から犬が車に轢かれた話を聞かされていた。 「怪我したのってどの犬?」 献一が指差すと、菜摘はケージを覗き込んだ。 この前学院の庭で昼寝をしていた変な名前の犬だった。包帯にうずもれた小さな体は、可哀相なくらい痛々しい。 「治るの?」 「大丈夫だってさ」 献一は腕時計に視線を落とすと、まめスケのケージに指を入れ鼻先をなでた。 「午後の授業が始まる。またな、まめスケ」 「菜摘ちゃん、どうする?」 献一は知らん顔をしていたが、了は菜摘に笑いかけた。 「もうちょっと、ここにいてもいいかな。終わったころ学院へ行く」 「いいわよ、奥にも入院してる子がいるから見せてあげるわ」 獣医はそう言うと、菜摘を奥の部屋に連れていった。 「一安心だね」 「あぁ、ほっとしたら眠くなってきたな」 献一は大あくびをした。 「いいよ、僕の膝貸してやろうか?」 「ばーか」 動物病院を出た献一と了は、学院へ向かって歩き出した。   「あなた、彼らのどっちとつきあってんの」 獣医は持っていたカルテから、菜摘に視線を移した。 「えっ…」 「違うの?」 そう言えばどうなんだろうか。とてもつきあっているといえる関係ではなかった。 菜摘が一方的にまとわり付いているというのが、正しい表現のような気がした。 「あたしは木坂さんが好きなんだけど、なんか相手にされてないってカンジで」 「彼らってほんとに好青年よね。イイ男だし優しいし。もう10歳若ければ、わたしがモーションかけてたかもね」 「どっちに?」 「どっちも良い子なのよ。タイプが違いすぎて選びがたいかな」 獣医は笑ってケージから1匹のネコを取りだした。 「牧師になる子たちって、なんか雰囲気が違うのよね。視点が違うのかな、絶対ネガティヴに考えないのね。俗っぽくないっていうかスレてないっていうか。真っ直ぐで自信あり気でキラキラしてる。何やっても受け止めてくれそうな感じがしない?」 「するする」 「時々ここへ来てケージに手を当てて、お祈りしていくのよ。でね、不思議なことに重症の子が回復したりするの」 「お祈りで治るの?」 「さぁ、分かんないけど良くなったりするわけ。不思議なのよね」 獣医の抱いているネコが、にゃあと鳴いた。  祈ったからといって、具合の悪い動物が良くなるなんてあり得ないことだけれど、彼らならそれも不思議なことではないような気がするのはなぜだろう。  授業の終わる時間に学院へ行くと、大きな荷物を抱えた献一とギターケースを持った了が見えた。 「ギターだ。それなに?」 菜摘は、献一の荷物を指差した。 「キーボード」 「それで、なにすんの?」 「まぁ、いいから付いて来いって」 近くの病院まで来ると、ふたりは立ち止まり顔を寄せ合った。 「何してんの?」 「祈るんだよ、備えの祈り」 「備えの祈り?」 「ビラ配りしたときもやってただろ。おまえ見てなかったのか」 ふたりは目を閉じ、それぞれ頭を垂れた。 「天のお父さま、またここへ送ってくださったことを感謝いたします。どうぞこの者たちの唇を聖め、あなたを語ることが出来ますように導いてください。あらゆる罪からあらゆる悪霊の働きサタンの攻撃からお守りください。そして、どうかあなたを信じる者が起こされますように。主の御名によって感謝します。アーメン」 ほけーっと眺めている菜摘の背中を、献一はポンと押した。 「なにボケッとしてんだ。行くぞ」 献一たちの【祈る】とうい行為は何度も目にしているけれど、いつ見ても変な感じだ。  ナースセンターへ行くと看護師たちがにこにこ顔で集まってきて、口々に彼らを歓迎した。 「いらっしゃい、みんな待ってるわよ」 「元気だった?もっと来る回数増やしても平気よ」 「後でわたしもに見に行くからね」 どうやら看護師たちは、献一と了が来るのを心待ちにしているようすだった。 学院の広報マンとはよく言ったものだ。ナースセンターの中には、教会案内のようなポスターが何枚も貼られている。 菜摘は病院での宗教活動はかなり制限されていると聞いた覚えがあったのだが、ここはどうなっているのだろう。  三人は小児病棟の談話室に入った。そこには子供だけでなくおじいちゃんおばあちゃんまでが、ごちゃっと集まっている。 「みんなお待たせ!」 献一がキーボードの用意をしている間に、了は歌詞カードをみんなに配り歩いた。 「はい、菜摘ちゃんもね。そこへ座って」 菜摘も歌詞カードを手渡され、分けもわからぬまま言われた通りに腰をかけた。 「今日は、“主の愛に”から賛美します」 献一がキーボードを了がギターを弾き始めると、部屋にいた者の多くが手拍子をし声を合わせて歌い始めた。立ち上がって歌う者や子供の中にはタンバリンをたたく子もいた。 (なに、この歌。曲は今風だけど、歌詞変わってる) 聖書を多く引用した歌詞は、菜摘にとって不思議なものに聞こえた。けれど、そう思っているのはこの中で自分だけのようだった。 2曲ほど歌うと、了が手を上げた。 「はーい、じゃお祈りしまーす。小さいお友だちは手を組んで目を閉じてね。いいかな?ハレルヤ恵み深い天のお父様、主のお名前を褒めたたえます。今週もこの場所でお友だちと一緒にイエスさまを賛美し、お話を聞く機会を与えてくださってありがとうございます。どうぞ、あなたがこの場にいてくださって病気や怪我で苦しんでいるお友だちを癒してください。そして、元気と勇気を与えくださいますようお願いいたします。イエスさまのお名前によって、感謝してお祈りいたします。アーメン」 最後の【アーメン】は部屋にいた菜摘以外の人間が全員声を合わせた。 祈りにも子供バージョンがあるんだなと菜摘はぼんやり思っていた。なんだか妙な空気が流れているような気がする。けれど、部屋にいるみんなは結構楽しそうで病人や怪我人ばかりのはずなのに、表情は穏やかだ。 いつの間にか部屋には医師や看護師、ヘルパーも集まってきていっぱいになっていた。  その後も何曲か賛美し、リードした了に代わって献一が子供向けのお話を始めた。 それはバビロンの王様が3人の若者を燃え盛る炉の中に放り込み、神さまを信じていた若者たちは火傷ひとつせずに神さまに助けてもらうという話だった。 菜摘は馬鹿馬鹿しくて聞いていられなかったが、子供たちは目を真ん丸にして聞き入っていた。 (なーんか、退屈) 菜摘は大あくびをしてはいたが、献一が話をしているのを見ているのは嬉しかったしキーボードを弾く姿を見られたのも嬉しかった。友だちに写真を送って自慢してやろうとスマホを出すと、隣に座っていた子供が覗き込んだ。 「話の途中でスマホなんか見ちゃいけないんだよ」 「え…」 菜摘は肩をすくめるとスマホをポケットに突っ込んだ。  片づけが終わると、献一と了は真っ直ぐナースセンターへ向かった。 「片づいた?ここに座ってね」 看護師は椅子をくるりと出した。小さなテーブルにはお菓子が山のように積まれている。他の看護師はコーヒーを入れると差し出した。 「ゆっくりしていってね」 ふたりは当たり前のようにコーヒーを飲み、お菓子を食べている。 「おまえも食えば?チョコ好きなんだろ」 献一にチョコレートを渡され、菜摘はおずおずと口に入れた。なーんか妙な雰囲気だった。ナースセンターはなぜか看護師でいっぱいになっていた。小児病棟の看護師だけでなく、他の病棟の看護師もワイワイガヤガヤ集まっている。 彼らの人柄なのか信仰のせいなのか、とにかくみんなが嬉しそうだ。帰る時もぞろぞろと病院の入口まで見送りに来て、見えなくなるまで手を振っていた。 「いつもあんななの?」 「オレたちは白衣の天使のアイドルだからな」 「うざぁ、自分で言うかぁ〜」 菜摘はべろっと舌を出した。 「時々、ファンレターもらうよ」 「お菓子のお土産ももらうんだね」 そう言って、了が持っている紙袋を覗いた。 「羨ましいだろ。やらないからな」 「いらないよ、こんなの」 「そんなこと言わないで、後で分けようね。菜摘ちゃんさ、急がないなら学院へ戻って晩ごはん食べていかない?」 「ホント!行く行く!」 了の誘いに、献一は思わずキーボードを落としそうになった。 「了、無責任な誘いかたすんなよ」 「なんでー、舎監先生と食堂のおばちゃんに声かければ、だめとは言わないよ。女の子ひとり食べる分くらいなんとかなるさ」 献一は頭を抱え込んだ。 「あのなぁ、晩飯の話じゃなくて、彼女、高校生なんだぞ。帰りどーすんだ」 「僕が送っていくよ。これも伝道の一環だって言えば、先生も文句言わないって。ねっ」 「ねー♡」 にっこり笑って頷きあう了と菜摘に、献一はあきれ返って言葉も出なかった。  寮の食堂で、献一はため息まじりに頬杖をついた。 (人の気も知らないで…) 菜摘は献一の隣にちょこんと座り、物めずらしそうに辺りを見回してた。 御言葉と呼ばれる聖書の言葉を書いた紙が、壁のあちこちに貼られている。 【神は、そのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった】 【裁いてはいけません。それは貴方が裁かれないためです】 【あなたが神を選んだのではありません。神があなたを選ばれたのです】etc‥ 「ハァイ、お待たせ!」 了は自分と菜摘の食事を乗せたトレイをテーブルに置いた。 「へぇー、寮のごはんってこういうのなんだ」 「食堂のおばちゃんのご飯はおいしいよ」 そう言いながら、湯飲みにお茶を注いだ。 「オレの分は?」 ふたりのようすを横目で見ながら、献一は手を出した。 「献一はお客じゃないだろ。自分で取りに行くの」 「ちぇっ」 献一は席を立つと、カウンターへ向かった。 「おばちゃん、全部大盛りね」 ご飯だけは自分で用意することになっていたから、献一はご飯茶わんを手に取ると、大きな炊飯釜のふたを開け目一杯山盛りによそった。 今夜のメニューは、豚肉の味噌焼き、マカロニサラダ、ほうれん草の胡麻和え、かき玉スープ。好き嫌いのない献一にとって、寮の食事は有り難いものだった。 「はい、ぜんぶ大盛り。あの子、木坂君の彼女なんだってね」 「えっ、違う違う」 「だって、宇都宮君がそう言ってたよ」 献一はトレイを置くと、了の隣にドカッと座った。そして了の頭を腕で抱え込み、耳元でささやいた。 「おまえ、食堂のおばちゃんにオレの彼女だって言ったのか」 了はにんまりして答えた。 「言った」 「何でそんなこと言うんだ」 献一はそのまま了にヘッドロックをかけた。 「げ〜」 ふたりがじゃれあっていると、オルガンの音が流れてきた。すると、ざわついていた食堂はとたんに静かになった。 食事の前には必ず賛美をすることになっている。 「これ、カルバリやまだ。聖歌だな、何番だっけ?」 献一に聞かれて、了はあわてて聖歌を開いた。 「えっと、…あった。399番」 了は開いた聖歌を菜摘に渡し、ここだよと指差した。 食堂にいる菜摘以外のすべての人間が声を揃えて歌いだした。 菜摘はそのようすにギョッとした。 いい年をした大人が、食事を前にお預けをくらい歌を歌っている。しかも、そのほとんどが聖歌本を見ずにソラで歌っている。 (…神学校って変なとこ) 菜摘は食堂中の人間たちを見回したが、自分以外に変だと思っている者はいないようだった。賛美が終わりようやく食べられるのかと思ったら、今度は祈りが始まった。 「愛する天の父なる神様、御名を崇めます。今日もここまでお守りくださって感謝いたします。あなたは日々の糧をもって私たちを養い育て、またあなたの働き人として立てるように訓練してくださっていることを感謝いたします。この食事を用意するにあたり労してくださった多くの方々に、主の特別な恵みがありますように。主の御名によって感謝していただきます。アーメン」 最後の【アーメン】は、病院の時と同じように全員が声を合わせた。やっと食事が始まったが、菜摘は妙に落ち着かない気分だった。 「食べないの?」 覗き込む了に、菜摘は箸を取った。 「ねぇ、アーメンってなんか意味あんの?」 「もちろんあるよ。アーメンって、そのとおりですって意味。祈りの内容はそのとおり、同意してますってこと」 「ふーん」 そう言いながら献一を見ると、彼は我関せずと言った風情でぱくぱくと食べることに専念していた。 菜摘はスープとご飯だけで箸を置いた。他はマカロニサラダを少しつついただけだった。 「お腹空いてない?」 「ん〜、そういうわけじゃないけど」 献一はちらっと菜摘を見て言った。 「好き嫌いしてるんだろう。偏食するなんて贅沢なやつだ」 「だって、野菜マズいじゃん。お肉だって味噌が付いてなきゃね」 了はにこっと笑って、ほうれん草の皿を菜摘の前に差し出した。 「食堂のおばちゃんのは、よそのと違うんだよ。絶対おいしいから食べてみたら?」 菜摘が首を振ると、献一はさっとその皿を取り上げ口に中に放り込んだ。 「オレが食ってやるよ。バイトしてると腹減るしな」 「腹減る?」 「そりゃあな、おまえみたいにチョコ食って遊んでるわけじゃないから」 「えー、ひどいよ、そんな言い方」 菜摘は良いことを思いついてしまった。 お弁当を作って夜食代わりに献一に食べてもらおう。料理の経験はほとんどなかったけれど、本を見ながらやればきっと大丈夫だ。菜摘はすでにどんなメニューにしようかとわくわくしながら考えていた。    了に駅まで送ってもらった菜摘は、家に帰り着くと早速弁当の準備に取り掛かるべく、母親の本棚を引っかき回した。 「何やってるの?ご飯は?」 「食べてきた」 また友だちとハンバーガーでも食べたのかと、母親は顔をしかめた。 「お弁当の作り方が載ってる本貸して」 「お弁当?やっと自分で作る気になったの。そうよね、高2なんだから自分のお弁当くらい自分で作ったってバチは当たらないわよね」 そう言いながら母は数冊の本を出し、菜摘に手渡した。 「あたしのじゃないって」 「え?」 「ちょっと持ってくの。これから作るから」 「持ってくって、お弁当を?ちょっと菜摘、あんた変なのと付きあってるんじゃないでしょうね」 「べつにー、誰だっていいじゃん」 「よくないでしょ。誰と付き合ってるの!」 「っるさいな」 菜摘は母親を無視するようにテーブルで本を広げた。 「菜摘!ちゃんと答えなさい」 とたんに膨れっ面をして菜摘は母親を睨んだ。 菜摘はイライラして今にもキレそうだったが、ちょっと待てよと思った。いろんな意味で母親を味方につけておいたほうが特かもしれない。お弁当しかり、出歩いて遅くなることしかり。相手が神学生の献一なら、きっとどんな母親でも反対しないに違いない。  菜摘は献一のことを話した。 「神学生?」 「そっ、牧師になるんだって」 「へぇ、牧師ねぇ。まぁ、神さまに仕えようって人なら間違ったことはしないんでしょうけど」 「しないしない。でさ、駅のホームで混んでるときに押されて線路に落っこちそうになったのを助けてもらったから、お礼にお弁当でも作ってあげようかなって」 「まぁ、そうなの」 菜摘は事実を相当脚色して話をした。 「今どき、携帯も持ってないくらい貧しいんだよ」 「へぇ、一度連れてきなさい、ね」 「そのうちね」 菜摘はぺろっと舌を出した。母親なんてちょろいもんだと、すっかり馬鹿にしていた。  新宿東口、雑居ビルが建ち並ぶ裏通りを抜けた辺り、中堅所のソフトウェア会社のビルが献一が警備のバイトをしている場所だった。 正面の入り口はもうすでに鍵が掛けられていた。菜摘は辺りを見回しながら裏口に回った。ドアの向こうは廊下に薄暗い明かりがついているだけでシーンと静まり返っている。そのドアの横の小さな窓からだけ、光が漏れていた。 受け付けのような窓を覗き込もうとしたとき、ぬっと太った中年男が顔を出した。 「何か用かい」 菜摘は驚いて思わず身を引いた。ぎらぎらと油汗をかいて、鼻の下にいやらしい髭まではやしている。男は小窓を開いた。 「こんな時間に若い女の子が何してんだ。遊ぶなら歌舞伎町か渋谷へ行きな」 離れているにも関わらず、息は顔をしかめたくなるほど煙草臭かった。 「えっと、木坂さんいる?」 「なんだ、あいつの知り合いか」 そう言うと中年男は奥に向かって声を掛けた。 「木坂、彼女が来てるぞ」 奥から出てきた献一は菜摘の顔を見ると「あれっ」と小さくつぶやいて薄暗い廊下に続くドアから出てきた。 警備会社の制服を着た献一は、妙にカッコ良かった。 「へぇ、いいじゃんそれ」 「いいじゃんはいいけど、こんなとこで何してんだ」 菜摘はにっと笑って、包みを差し出した。 「おべんと、持ってきた」 「え?」 「お腹空くって言ってたじゃん。だから、食べて」 献一は制帽を脱ぐとぽりぽりと頭をかいた。 「こんな時間にか。もう10時だぞ」 「学院から帰ってから作ったんだもん」 「ここ、誰に聞いた?了か」 「うん」 (あのバカ…) 菜摘は弁当の包みを押し付けるように献一に渡すと、にっと嬉しそうに笑った。 「じゃね」 献一はもう少し祈りながら時間をかけて考えていたことをやろうと思っていたのだが、了のおかげでそれは唐突に始まってしまった。  早朝、いつものように献一はバイトを終え、学生寮の部屋のドアを開けた。 学院の寮に個室はなく、どこもふたり部屋で広さは10畳程。2段ベッドが、ひとりに1台ずつあてがわれていた。他に衣装ケースと机、本棚が備品として各部屋に置かれている。 「お疲れ」 了は2段ベッドの上で、あくびをしながら目をこすった。 「わりぃ、起こしちゃったか」 「いや、もう時間だから。今日、早天の司会なんだ」 時計は5時半を回ったところだった。6時から始まる早天祈祷会は、3年生と4年生が持ち回りで司会をすることになっている。司会者は始まりの祈りをし賛美を何曲か選んでおかなければならなかった。  献一は着替えのために脱いだ上着をたたみながら了に目を向けた。 「おまえ、彼女にバイト先教えただろ。ゆうべ、弁当持って来たぞ」 「お弁当?へぇ、おいしかった?」 「ばか、場所なんか教えんなよ」 「マズかったかな」 「そりゃマズいでしょ」 献一はふーっと息を吐いた。 「導くには順序も準備も必要でしょうが」 「ふわぁ〜」 了は大あくびをした。 「おまえね、人の話は真面目に聞けよ」  その日の夜、菜摘はまた弁当を持って献一のバイト先へ行った。 「えへへ、おいしかった?今日も作ってきたよ」 献一に昨日の弁当の包みを渡されて、その重みに菜摘は思わず顔を見た。 「食べてないの?」 「あぁ」 包みを開けると、まったく手を付けていなかった。 「なんで?」 「オレの嫌いなものばっかり入ってたから」 「卵焼きも?」 「それは焦げててまずそうだった」 菜摘は口をヘの字に曲げ唇を噛んだ。 「せっかく一生懸命作ったのにぃ… ひどいじゃん。一口くらい食べてくれたって」 「嫌いなものは、食べられないだろ」 「もういいよ」 菜摘は逃げるように走り出すと、雑踏の中に消えていった。  献一にこんな仕打ちを受けるなんて想像もしなかった。言葉はきつくても、いつもどこか優しかったし気遣ってくれていたのに。 すぐに家に帰る気にもなれず、あてもなく繁華街をうろついた。ウィンドウに映った自分の姿は、たとえようもなく惨めに見えた。そんな自分が嫌で、街路の目に入ったごみ箱に持っていた弁当を2つとも投げ入れた。 すっかり肩を落として菜摘は家のドアを開けた。 「お弁当を渡すだけなのに、どうしてこんなに遅いのよ。ごはんは?」 「いらない」 「また友だちとファミレスなの?それならそれで連絡ぐらいしなさい。いつも自分のことばっかりで、食事の支度をしてる人間の気持ちも少しは考えなさい」 「……」 菜摘は部屋へこもった。誰かのために弁当を作ったのは初めてだったから、せめてほんの少しでいいから食べてもらいたかった。 本当に一生懸命作ったのに…。そう思いながら、さっきの母親の言葉を思いだした。 『食事の支度をしている人間の気持ちも少しは考えなさい』 自分や兄が食事をしないとき、母親はいつもこんな気持ちでいたのだろうか。ほんの少し理解できたような気がしたけれど、口惜しいのと悲しいのとで素直になれずにいた。  次の日も、その次の日も菜摘はずっと献一のことを考えていた。献一が嫌みであんなことをするはずのないことは分かっていた。献一の言動には必ずメッセージがある。会うたびに説教され諭され、違う方を向いていた菜摘は軌道修正をされている。 お弁当を食べなかったのも意味があるのだろうか。それは、あの時に感じた胸の痛みなのか。こんなことで献一と会えなくなるのは嫌だった。 「最近、菜摘ちゃん来ないね」 「オレはあいつの保護者じゃない」 「電話してみようか」 了はそう言うとスマホを出した。 「おまえ、いつのまに番号聞きだした」 「別に聞いたわけじゃないよ。携帯持ってるって言ったら、教えてくれた。でも、彼女変なこと言ってたな。『宇都宮さんは清く正しく貧しくないんだね』って。何のことだろう?」 「知るか」 すると、了のスマホが鳴った。 「あれ、噂をすれば、だよ」 菜摘からだった。 「あっと、えっと、木坂さんいる?」 了は口の端でにっと笑うと、携帯電話を献一に渡した。 「何か用か」 「この間は、ごめん。ちょっと、押し付けがましかったかと思って。あたしさ、なるべく家でご飯食べようかなって…」 いったい何を言ってるんだろうと思いながら、菜摘は言葉を探した。 「だから…」 「聖書にさ【自分のして欲しいことを人にしなさい】って書いてあるんだよ。ちょっと、それやってみれば」 「…うん」 「明日、また病院へ行くけど来るか?」 「いいの?」 「あぁ」 献一は切ったスマホを了に返した。 「なんだかんだ言って、献一の方から誘ってるじゃない」 「種蒔きさ」 了は笑いながらスマホをポケットに入れた。  人を導くのは難しい。人がひとり救われるのは、大変なことだと彼らはよく知っている。だからこそ、あわてず騒がずゆっくりやればいい。  菜摘の作った弁当を献一が食べなかった理由を彼女がほんの少しでも解するのであれば、それは充分意味のあることだ。いつか彼女が救われると信じて、祈りと努力を重ねればいい。時をそなえるのは、ほかの誰でもない神御自身なのだから。                5    学生寮の2段ベッドで、了は寝そべってノートパソコンにレポートを打ち込んでいた。 了はせんべいをくわえたままキィボードを叩いていたが、気がつくとせんべいのかけらがパソコンの上に散乱していた。 「あちゃ〜」 そこへノックがした。 「はーい、どうぞ」 ドアを開けたのは寮母だった。 「木坂君いるかしら」 彼女が部屋をのぞき込むと、了が顔を出した。 「今日は、キルボルン先生のとこに行ってます」 「そう、お客さんなんだけど。どうしようかしら」 「お客さん?」  了が玄関に出てみると、菜摘が立っていた。濃い化粧、キャミソールに薄いカーディガンぴったりジーンズにおへそまで出ていた。 「あらら、菜摘ちゃん。すごい格好だね。献一と約束してたの?」 「してないけど、来ちゃった。祝日は休みでしょ」 菜摘は、真っ赤な唇で嬉しそうに笑った。髪にはメッシュまで入っている。 「あいつ、宣教師のとこでベビーシッターのバイトだよ」 「バイトぉ?」 「ちょっと、話してく?」  了は、菜摘を談話室へ案内した。大きなジャグがテーブルに置かれていて、麦茶がいっぱいまで入っていた。了が湯飲みにその麦茶を注ぐのを見て、菜摘は変な気がした。 (なんで、グラスに入れないんだろう) なぜだか、麦茶はグラスに注ぐものだと思い込んでいた。 了は了で、菜摘を頭の先から足の先まで何度も見直していた。 「今、そういう格好流行ってるの?」 「そっ、知らないの?テレビや雑誌によく出てるよ」 「テレビないから」 菜摘は目を丸くした。 「うっそー!テレビないのー!信じらんない、やだぁ〜。何でないの?」 今どきテレビがないなんて、菜摘には信じられなかった。 「そーゆーのって、ウザくない?」 「学院の方針だからね」 そう言いつつ、了も菜摘の言う通りだと思った。テレビくらい見ていないと、伝道するときに共通の話題を探すことすら難しい。 「牧師ってテレビも見られないんだ」 「そういうわけでもないんだろうけど、俗世と関わるなってことだと思うよ」 「牧師ってどういう仕事すんの?」 了は小首をかしげてにこっと笑った。  牧師は教会の管理人であり、メッセンジャーだ。 聖書を自分で解釈し理解することは難しい。牧師は神によって聖書を解釈し、それを分かり易く会衆に説く。神が何を望み、信じるものに何をせよと語りかけているのか、会衆と神の間に立ち通りよき管となるのが牧師の大切な仕事のひとつで、それが日曜日に行われる聖日礼拝だ。また信徒や求道者(まだ洗礼を受けていない者)の良き相談相手でもあり、聖書にそったアドバイスをし、クリスチャンとしての成長を促すための訓練もする。ときには外へ出ていって、神の存在を世の中の人間たちに知らせにも行く。無視されたり迷惑がられたり馬鹿にされたりは覚悟のうえでだ。 「仕事って言えば仕事だし、奉仕って言えば奉仕だし。微妙なとこだけど」 「ふーん、けっこうたいへんなんだ」 菜摘にはとても仕事をしているよう思えなかったけれど、そんなことをして生活する人もいるんだと知った。 「お給料とかあんの?」 「給料っていうか、謝儀っていう言い方したりするんだけど」 それぞれの教会に通う洗礼を受けた者を教会員と呼ぶのだが、彼らは毎月決まった額を献金している。それは教会全体の運営に使われ、その中から牧師に対して謝礼も支払われる。教会員の少ない教会は当然献金も少ないわけだから、教会でかかる維持費を支払うと謝儀の出ないところがあるのも事実だ。逆にたくさんの教会員のいるところは、牧師謝儀も充分に出されている。 「おんなじ神さま信じてても、差別があるんだ」 「差別じゃないよ。まぁ、何て言うのか、それぞれ神から与えられる境遇が違うって言うかね。信じて仕えていれば、いずれ祝福される。お金だけが祝福じゃないし」 「ねぇ、木坂さんてお金に困ってる?」 「なんで?」 「だって、いつもバイトしてるじゃん。ここ授業料高い?」 「タダだよ」 「ただ?」  平日の夜、献一はビル警備のアルバイトだ。神学生の授業料や食費・部屋代はすべて学院への献金で賄われている。しかし、小遣いまでは出ない。 一般的には、自分が籍を置いていた教会(母教会)から、サポートとしていくらかの金銭が出る。教会からの献身者、つまり牧師や伝道師、宣教師になるものを出すのはとても喜ばしいことなので、クリスチャンたちはサポートのための献金を惜しまない。神学生たちは、母教会からのサポートで自由に使える金を得る。  しかし、献一の場合は少々事情が違っていた。 献一の母教会は、片田舎の小さな教会で、…実を言うと教会という建物はまだなく、牧師一家が住んでいる借家の居間が教会代わりなのだが、そこで牧師一家5人と献一、献一の祖母の7人で、いつも礼拝を献げていた。ようするに、たったふたりしか信徒のいない教会だった。牧師は自分たちの生活を支えるために、宅配の仕事をしながら牧会生活を送っていた。だから、サポートどころではなかった。おまけに献一の両親は早くに逝き、祖母には仕送りをしてやる余裕はなかった。  学院では基本的にアルバイトは禁止されているのだが、事情が事情なだけに献一にだけ許可が出されていた。 最も献一がアルバイトをしている大きな理由は、年金生活を送っている祖母への仕送りと母教会へ献金をするためだった。手取り218,740円 そのうち10万円を仕送りし、残りのほとんどを献金していた。  菜摘は話を聞いて、深いため息をついた。 「お小遣い、ぜんぜんないじゃん」 「その中から毎週奉仕に行く教会の礼拝でも献金してるし、あいつがお金持ってるとこ見たことないかな」 「そんなに献金しなきゃいけない決まりがあんの?」 菜摘は、よく聞く新興宗教の寄附の話を思い出した。信者を騙して、お金を絞り取るアレである。 「それぞれ与えられた分に応じて、心に示された金額を献げなさいって、聖書に書いてある。献一は、その通りにしてるんだよ」 「いくらって書いてないの?」 「10分の1を献げるなら、あふるる恵みが神からある。マラキ書3章10節」 「10分の1?木坂さんは、もっとじゃん。てゆーか、なんでそんなに献金すんの?」 了は、にこりと笑った。 「それは、本人に聞くんだね」 「宇都宮さんも、いっぱい献金してんの?」 了はドキリとして、話をそらそうとした。 「図書室へ案内しようか」 立ち上がろうとする了の袖を、菜摘は引っ張った。 「行かない。ねぇ、宇都宮さんはぁ?」 了はまいったなぁという表情で、仕方なく座り直した。 「僕は仕送りとサポートで、5万もらってる。母教会に1万円、奉仕先の教会で毎週千円」 「ふーん」 菜摘は、何だか考え込んでしまった。せっかくもらったお金をそんなふうに使うなんて、信じられなかった。自分なら、全部欲しいものに注ぎ込んでしまうに違いない。 献一や了にとって、神様とはどんな存在なのだろう。  了はまめスケと一緒に、菜摘を近くの公園へ連れ出した。 そこは献一がベビーシッターのバイトをするとき、いつも子供たちを遊ばせに来る公園だった。  献一はまめスケが走り寄ってきたので了が来たのだと振り返ると、菜摘が一緒なのを見てそばへ来た。 「おまえら、デートか?」 菜摘はムッとした。 「意味わかんなーい、バカなんじゃない。デートなわけないじゃん」 献一と了は、その口の悪さにを思わず顔を見合わせた。 「おまえってほんっと、口の利き方知らない奴だな」 そう言った献一の後ろで、いきなり泣き声がした。振り向くと、宣教師の娘で3歳になるジョアンがころんでいた。献一はあわてて駆け寄るとジョアンを抱き上げ、スカートの土を払った。 「ジョアン、大丈夫だ。今お祈りするからね。どこが痛い?」 「ここ」 ジョアンは、泣きながら手で膝を押さえた。献一はそっとジョアンの膝に手を当てると、目を閉じた。 「天のお父様、感謝します。今ジョアンがころんで、お膝が痛いです。どうかイエス様、お膝の痛いところを治してください。イエスさまが癒し主であることをジョアンは知っています。どうか、あなたがジョアンの痛みを取ってください。そして、この後も楽しく遊ぶことができますようにお守りください。感謝してイエスさまの御名前によってお祈りいたします。アーメン」 ジョアンも涙に濡れた瞳を閉じて、献一に声を合わせた。 「アーメン」 「ジョアン、おいで」 了がかがんで手を出すと、ジョアンはその首に抱きついた。くりくり金髪に青い瞳、エプロンドレスを着たジョアンは、まるで人形のようだった。  そんなようすを菜摘はポカーンと眺めていた。【ころぶと祈る】という発想はいったいどこから来るのだろう。それに、あの金髪の巻き毛。 ハンサムなふたりに囲まれて、そこだけ切り取られた絵のようだった。 「ホギャー!」 泣き出したのは、ベビーバギーに寝かせられていた赤ん坊だった。 ジョアンの弟、5ヶ月のロビンだ。いつの間にかまめスケがベビーバギーによじ登り、ロビンの顔を舐めていた。 「まめスケ、だめだろ」 献一がまめスケを抱き上げて鼻先を掴むと、まめスケはすまなそうにクゥーンと鳴いた。 「赤ん坊って、ミルクの匂いがするからね」 了の言葉に抱っこされていたジョアンはにこっと笑った。 「ロビンね、おなかすいたの」 献一は急いで手を洗ってくると、ロビンのおむつを取り替えた。その手際の良さに、菜摘はすっかり感心していた。 「へぇー、そんなこともするんだ」 「何でもやるさ」 おむつを片づけると、今度はジョアンを連れてまた手を洗った。そしてバッグからビスケットを出すとジョアンに持たせ、哺乳瓶にミルクを作った。自分はロビンを抱っこすると器用にミルクを飲ませ始めた。 目を丸くして見つめている菜摘に、献一は言った。 「飲ませてみるか?」 「えー、マジぃ?それって、ちょーヤバイよ」 献一はため息をついた。 「日本語、ちゃんと使え」 「チョーヤバイ」 その言葉に、3人は振り返った。 「チョーヤバイ、チョーヤバイ」 ジョアンは、ビスケットを食べながら同じ言葉を繰り返した。 「ヤバいのは、こっちだ。先生、怒るぞ。了、何とかしろ」 「僕?」 「彼女、連れてきたのはおまえだろ」 「はいはい」 了はまいったという表情で眼鏡を押し上げると、ジョアンをブランコへ連れていった。  ロビンは勢いよく、ミルクを飲んでいる。ロビンもジョアン同様、抱き人形のように可愛かった。菜摘は、献一がミルクを飲ませているのを物珍しそうに、じっとのぞき込んでいた。 赤ちゃんなんて街中ですれ違うくらいで、まともに見たこともなかった。小さくて、やわらかそうで、いい匂いがした。 「えっと、やっぱ、やってみようかな」 菜摘は照れくさそうに笑った。 「あぁ、手を洗って来いよ」 菜摘は公園の手洗い場でしっかり手を洗うと、ベンチに座りおそるおそる手を出した。 献一はロビンを菜摘に抱かせると、哺乳瓶を渡した。ぎこちない手つきの菜摘に、ロビンはむずかりそうになったが、哺乳瓶をくわえるとちゅっちゅっと吸い出した。 胸に当てられた小さな手は、菜摘の洋服をしっかりと握っている。 菜摘はにっこり笑って、献一を見た。 「マジかわいー」 「だろ」 「あたし、赤ちゃん抱いたの初めて。こんなにちっちゃいのに、ちゃんと爪やしわがあるなんて変なの」 「ジョアンを見てくるから、頼むよ」 献一は、ブランコのところへ行った。  菜摘は不思議な気分だった。自分が赤ん坊を抱いていることも不思議だったが、彼らといるとほっとするような安心感が心を満たす。家でも学校でも、味わったことのないような感覚だった。                6  菜摘は学校から帰るとすぐ、クローゼットの中の洋服をぜーんぶベッドに並べた。 午後の空き時間に国立西洋美術館へレンブラントの宗教画を見に行くという献一と了に、菜摘も便乗することになっていたからだ。  菜摘にはレンブラントも宗教画もどうでもよかったが、献一と教会に関係のないところへ行けることが嬉しかった。本音を言えば献一とふたりきりの方が良かったけれど、了も優しくてステキだし、両手にイイ男というのも悪くないといい気分だった。 そこへスマホが鳴った。 「オレ」 献一だった。献一の方から電話をかけてきたのは初めてだ。 「どうしたの?電話くれるなんて、めっちゃ嬉しい!」 「今日、予定変えられないかな」 「えー、楽しみにしてたのにぃ」 「今夜前夜式があって、その準備をすることになったんだ」 「てゆーか、前夜式って何?」 「この世的に言うと、お通夜」 「誰か死んだんだ」 「あぁ」 菜摘は急に黙り込んでしまった。おじいちゃんが死んだ時のことを思いだしたのだ。 薄暗い家の中にはお線香の匂いがたちこめ、僧侶の読経が薄気味悪く響いていた。大勢の来客。初めて会う遠い親戚。お父さんの泣いている姿を見たのは、後にも先にもあの時だけだった。胸が締めつけれられるような嫌な感じ。どんよりとして、重たい空気がまとわりついていた。  こねこのミィが、車に轢かれた時も同じ感じがした。好きだった人や可愛がっていたものが死んでしまうのは、例えようもなく根暗い気分だ。 そう言えば、献一は両親を亡くしていると了が言っていた。ウザくても親はいないよりいたほうがいいに決まってる。 「怒ってるか?」 「そーじゃないけどぉ」 「じゃ、手伝いに来いよ」 「えー、なんであたしが手伝わなきゃいけないわけ」 「オレに会いたいかと思ってさ」 「んなわけないじゃん!むかつく」 ブチッといきなり電話を切られて、献一は思わず苦笑いをした。  菜摘はスマホを見つめながら、いきなりを切ったことをすっかり後悔していた。 (あんな切り方、するんじゃなかった…) 初めて献一からかかってきたきた電話だったのに予定の変更だなんてひどいと思っていた。おまけに献一の言葉は菜摘の気持ちを見透かしたようで、ほんの少し気に入らなかっただけだ。  菜摘はそっと教会の扉を開いた。大勢の人間が忙しそうに立ち働いている。 最初に菜摘をおおったのは、花の香りだった。むせかえるような花の香り。 これから死者を送りだそうとする場所には、につかわしくない匂いのような気がした。  会堂をのぞき込むと、講壇は白いユリと白い菊で埋め尽くされていた。ところどころにカトレアとデンファレが色を添えている。 突然、誰かが菜摘の肩をたたいた。驚いて振り返ると献一だった。 「来たんだ」 なんとなく気まずくて、菜摘は目をそらした。 「すごい格好だな」 菜摘はタンクトップの上から肩が出るほど襟ぐりの広い派手な色のセーターを着ていた。おまけにロングブーツにミニスカート。前夜式だと分かっていて着てくるような服ではなかった。 「せっかく来たんだ、今回は目をつぶろう」 献一は白いカーネーションを抱え直すと菜摘を講壇まで連れて行き、台の上に花を置いた。 「献花のためのカーネーションだ」 そこへ、花で飾られた写真が掲げられた。30歳前後の女の人。こんなに若いのに死んでしまったんだと思うと、関係のない菜摘までしんみりした気分だった。が、どこかで会ったことがあるような気がした。 「忘れた?初めてここへ来た時に会っただろう。森田さん」 そうだ、何の悩みもなさそうで嫌な感じがした、あの人だ。 「なんで死んだの?事故?」 「白血病」 「!…」 「ここで会ったとき、もう2ヶ月もたないだろうって医者から言われてた」 「うそ」 菜摘はショックだった。もうすぐ死ぬと宣告されている人間に対して、なぜ自分はストレスも何もなさそうだと感じたのか。なぜあの人は、あんなに優しい笑顔を他人に向けることができたのか。 「なんで… 意味わかんない」 泣くつもりなどなかったのに、涙が頬をつたった。なぜか自分は、愚かで優しさに欠ける人間に思えた。 「どうした?」 「なんでもない、なんでもないよ」 献一は菜摘を連れて、教会の外へ出た。北風が、枯れ葉を舞い上げた。 「人間の幸せって、何だと思う?オレ、森田さんを見てて、いつも思ってたんだ。あの人幸せだって」 「死んじゃうってわかってたのに、幸せなわけないじゃん」 「あの人には自分が満たされてるって、確信があったんだよ。いつまで生きるかが問題なんじゃなくて、今この瞬間も神にすべてを委ねているって確信があるから、いつ死んでもよかったんだ」 「わけわかんない、何でそれが幸せなのよ」 菜摘には、献一の言うことが全く理解できなかった。神に委ねるって、いったい何のことなのか。クリスチャンはみんないつ死んでもいいと思っているのだろうか。  明日結婚しようとする若いカップルも、もうすぐ子供が産まれてくる夫婦も、仕事に成功してこれからだと思っている実業家も、クリスチャンだと今すぐ死んでも心残りはないのだろうか。 「ねぇ、みんなそうなの?木坂さんもそう思ってる?」 「みんなとは言わない。信仰には段階みたいなものがあるから、クリスチャンの中にもこの世と信仰の狭間で迷ってる人間は確かにいる。いきなり雷が落ちたみたいにすごいといわれるような信仰者になる者もいれば時間のかかる者も、いろいろだ。けれど、少なくともオレは、神が今すぐ来いと言われるなら喜んで逝くさ」 「…」 菜摘はますます分からなくなっていた。 「なんで死んでもいいの?わけわかんないよ」 「聖書のいうこの世の死は、天の御国で永遠の命を与えられることを意味している」  天国には何の苦しみも不幸も人間が辛いと感じることは何もなくて、ただ主の御そば近く賛美の中で永遠を永らえる。これを信じることがキリスト信仰の本質だ。 この世は訓練の場で、いかに主に仕え神の教えをまっとうするかが試されている。 そのために日々祈り、聖書を読み礼拝し、主に喜んでもらえるよう努力するのだ。 「木坂さんの親もクリスチャンだった?」 「え?」 「死んだって宇都宮さんから聞いたから」 「あいつ、ずいぶんお喋りだな。あぁ、バリバリのクリスチャンだった」 「やっぱり、森田さんと同じようにいつ死んでもよかったの?」 「…そうさ」 献一は視線を落とすと、ため息をつき髪をかき上げた。両親が死んだことに関しては、献一の中にほんの少し引っ掛かるものがあった。    その夜、献一はアルバイトに出掛けたが、菜摘は了と前夜式に出た。 なぜ前夜式に出る気になったのか、菜摘自身にもよく分からなかった。仏教のお通夜とどう違うのかという単なる興味本位だったのかもしれない。  キリスト教のそれは、お通夜と違い暗くもなく陰湿な感じもなかった。花の香りの中で奏楽と賛美がなされ、滝川牧師が祈りを献げた。故人の思い出が語られ天へ昇ったことを感謝し、参列者が順に献花をした。 「お葬式のときは何やるの?」 「キリスト教では告別式って言うんだよ。前夜式も告別式もそんなにやることは違わないかな」 前夜式は、なぜか菜摘に死ぬことは悲しいことではないと思わせた。 「告別式って明日でしょ。何時から?」 「10時だったかな。来る?」 「うん、だって土曜の午前中なら木坂さんいるじゃん」 「…だよね」 了はため息交じりに眼鏡を押し上げた。  告別式は前夜式と違い格段に参列者が多かった。 菜摘は人込みの中に献一と了を見つけた。ネクタイを締め礼服に身を包んだ献一はめちゃめちゃカッコよかった。了の肩に腕を掛け、気だるそうに前髪をかき上げている。 こんなに大勢の人間がいるのに彼らだけがピッカリと輝いて見えた。  菜摘は嬉しそうに駆け寄った。 「かっこいいじゃん、その黒服」 「黒服じゃなくて礼服」 「いいの持ってるんだ」 「もらい物だけどな、教会に礼服は必需品だから。年に1,2回は出番がある。ネクタイ替えるだけで結婚式もOK」 献一はそう言ってネクタイを指差し、ウィンクした。 「マジー?それってスーツ屋の回し者じゃん」 ケラケラ笑っている菜摘の肩に手を掛けると、献一は自分の前でくるりと回らせた。 「昨日みたいな格好だったら追い返そうと思ったけど、まぁ合格だな」 菜摘は制服姿だった。さすがの菜摘も告別式に制服を着てくるくらいの常識は持ちあわせていた。  時間になると会堂から奏楽のオルガンが流れてきた。 菜摘は献一に促されて、いちばん後ろの席に座った。花の香りが身体中を包み、何をどう考えても人が死んだようには思えなかった。 「御在天の父なる神よ、御名を崇め賛美いたします。森田聡子姉妹があなたの御元に凱旋したこと感謝いたします。姉妹を病の苦しみから解放し、あなたの愛の中で…」 滝川牧師の祈りが続く中、菜摘は小声で聞いた。 「ねぇ、凱旋ってどういう意味?」 「クリスチャンで居続けることは、この世では戦いなんだ。世の中に馴染んでしまえば聖日に礼拝を献げることすら難しい。すべての優先順位のいちばん上は神だ。それを死ぬまでまっとうしたってことは、この世の悪に勝ったってことさ。だから、この世での勝利をおさめたって意味で、天へ凱旋したって言い方をする」 献一の説明は、うまく理解できなかった。けれど、死ぬことは悲しいだけのことではないのだと、それだけは分かった。  泣いている人はたくさんいたけれど、昨日感じたのと同じように暗くやりきれない陰湿さはどこにもない。 故人は花で満たされ、親族と教会員の男性が棺を担ぐと賛美の中、外に待たせてあった真っ黒な霊柩車に運び込んだ。  菜摘はいつか見た映画のワンシーンを思いだしていた。やはり、今のように男の人が棺を担ぎ、静かに墓地まで列を作っていた。 こんなに綺麗な葬式いや告別式は見たことがなかった。神を信じて死んだ人は、これほどステキに見送ってもらえるのだと菜摘は妙な憧れさえ感じていた。    出棺と同時に学生と教会員たちは一斉に教会堂を片づけ始めた。 菜摘が突っ立って眺めている前で、あっという間に講壇の花が片づけられ、中央の通路に赤い絨毯が敷かれた。 長椅子の脇には、小さな花束がピンクのリボンでつながれ順に付けられている。 講壇横に飾られた花も、色とりどりの華やかなものに変わっていた。  菜摘はバタバタと忙しくしている献一をつかまえた。 「ねぇ、どうなっちゃってんの?」 「これから、結婚式があるんだよ」 菜摘は目を丸くした。 「告別式の後に結婚式やんの?」 「そう」 「なんか、それって変じゃん」 「別に、変じゃないさ。結婚式は事前予約が入ってるけど、告別式は突然だろ。こういうこともある」 確かに日本の常識で考えれば、結婚は神社、葬儀は寺と相場は決まっているけれど、教会はどちらも同じ場所で行う。そうは言っても今の今まで棺が置かれていた場所で、今度はウェディングドレスの花嫁が誓いの言葉を言うなんて、菜摘には考えられなかった。 なんとなーく、気持ち悪くないだろうか。 「本物の教会の結婚式って見たことないだろ。どうせ暇なんだから見ていけば」 「どうせ暇は余計だよぉ。木坂さんの知り合いが結婚すんの?」 「あぁ、宣教師の息子と牧師の娘。新郎はおまえの好きな青い目だ」 菜摘はペロッと舌を出した。  献一は笑いながら黒いネクタイを取るとポケットに突っ込んだ。代わりに地模様の入った白いネクタイを出すと、ワイシャツの衿を立てて結んだが、どうもうまくなかった。 「何か変だよ」 「ほんとだ」 菜摘の言葉を受けたのは、彼女の後ろに来ていた了だった。 了は献一のネクタイをほどくと、器用に結び直した。 菜摘はふたりを見て、これなら男同士の恋愛もありかも…と思いっきり妄想していた。 それほど、ふたりはふたりでいる時がいちばんステキに見えた。 「これでいいんじゃない」 「良い奥さんになれるぜ、了」 「ありがと」 菜摘はドキドキしながらふたりの顔を見比べていた。 「どうした、顔赤いぞ」 「へへっ」 菜摘は照れ隠しに笑って見せた。  真っ白なウェディングドレスに身を包んだ花嫁は背が低くで丸っこかったが、新郎は背が高く献一の言ったとおり綺麗な青い瞳をしていた。見れば見るほどアンバランスなカップルだった。  教会の結婚式はテレビや映画で何度も見たものよりもずっとシンプルだったし、絶対にあると思っていた誓いのキスがなかった。 「ねぇ、なんで誓いのキスしないの?」 「そんなもんするかよ。おまえテレビの見過ぎ」 テレビの見過ぎだろうが何だろうが誓いのキスがないなんて、菜摘にはぜんぜん納得がいかなかった。  式の後はティーパーティが催された。会堂の長椅子が片づけられ、テーブルがいくつも持ち込まれた。そこに並べられたのは教会員が手作りしたケーキやサンドイッチ、とりどりの菓子類だった。決して派手ではなかったが、暖かみのある和やかな良いパーティだ。 去年親戚の結婚式に出たときには、都内の有名ホテルで花嫁は何度もお色直しをし豪華な食事が出されたが、それよりもこっちの方がずっとステキだと菜摘は思った。 「クリスチャンの結婚式って、みんなこんなカンジなの?」 「だいたい、こんなもんかな」 献一は皿いっぱいの食べ物をぱくぱく口に放り込んでいたが、ふっと時計を見た。 「やべっ、そろそろ行かなきゃ」 そう言うと皿を菜摘の目の前に差し出した。 「なに?」 「食えよ、おまえにやる」 「え〜?」 「じゃあな」 分けも分からず皿を手渡されてあっけにとられている菜摘を置いて、献一は会堂を走り出た。 「献一、行ったんだ」 了は菜摘の持っている皿からサンドイッチを一切れつまんだ。 「木坂さん、どこ行ったの?」 「担当の派遣教会」 「あぁ、そっか」 「あいつが行かされてるとこ、遠いからね」 献一が毎週奉仕にいく派遣教会まで、片道3時間かかる。了のように近い教会なら日曜の朝、学院を出ても礼拝に間に合うのだが、遠い場所に派遣されている神学生のほとんどは、前日から出掛け帰りは日曜の夜になる。 「いっつも忙しいね」 「確かにね、よくもってると思うよ。今朝もバイトから帰ってきて2時間も寝てないんじゃないかな」 「へぇー」 愚痴ひとつこぼさず何に対しても精一杯の献一は、本当にステキに思えた。  ティーパーティが終わると、残りのケーキやお菓子が入った袋を中年の婦人が菜摘に差し出した。 「お土産にもらっていって」 菜摘はいらないと首を振ったが、その夫人は袋を手に持たせた。 「幸せのお裾分けだから、ね」 そんな平和な言葉、初めて聞いたなと思いながら菜摘は家へ帰った。 「何、これ?」 「お菓子もらった。手作りだって」 「どこでもらってきたの?」 「教会。結婚式があったから」 「教会って、神学生の友だちの?」 「そっ、お母さんにあげるよ。あたし、いっぱい食べたから。幸せのお裾分けだって」 そう言うと、菜摘は自分の部屋へ入った。 菜摘が母親に何かを持って来たのは初めてだった。 「幸せのお裾分け…ね」 母親は菜摘の嬉しそうなようすに笑みを浮かべた。  菜摘はたった1日で結婚式と告別式という、人生で大きな転機を迎えた人たちに立ち会った。どちらも今までに経験したそれとはまるで違っていた。同じ人間なのにキリストを信じる者とそうでない者とに、こんな大きな差があるとは思ってもいなかった。 特に告別式は別物かと思うほどだ。 花の香り、奏楽、会衆賛美。牧師は死んでしまった人のことを『天に凱旋したことを感謝します』と言った。死んだのに感謝しますだ。 菜摘は胸の奥からふつふつと沸き上がる優しい思いを感じていた。誰にでも親切にしたくなるような気分。ロビンにミルクを飲ませた時もこんな気持ちだった。  菜摘はできるだけ長い時間彼らと、献一といたかった。 一緒にいるときは自分を嫌いだと思わずに済む。自分を嫌な子だと思わずにいられる。 そんな場所は他にはない。 「へぇ〜、おんなじ日におんなじ場所で、結婚式と葬式やるんだ」 「葬式じゃなくて、告別式」 学校帰りに寄ったファンシーショップで、菜摘たちは喋りながら見て歩いていた。 「いいなぁ、青い目の赤ちゃんにミルクあげたり、関係ないのに教会の結婚式見れたり」 「神学生のカレ。カッコイイって、話ばっかでさ。あたしも連れっててよ」 「だーめ。あたしだけの王子様だもん」 「ずるいよ、菜摘」 「へへっ」 自慢気に笑って見せた菜摘の視線の先に、ピアスをポケットに入れる美樹の手が見えた。とっさに菜摘は、その手を押さえ美樹の耳元でささやいた。 「マズイよ、美樹」 美樹は何であんたが言うの、という表情で目を丸くした。 万引きなど日常茶飯事。何度も一緒にやっているし、捕まったことだってない。 「あんた、何言ってんの」 「あ…」 菜摘自身も万引きを止めたことに驚いていた。 「えっと…、もう卒業しようよ。こんなガキっぽいこと、ねっ」 美樹はしらけた顔でイヤリングを元の場所に戻した。 「別にいいけどさ」 「ありがと」 その言葉に、美樹は菜摘を睨みつけた。 「何それ、なんで菜摘がありがとうなわけ。神学生と付き合ってるからって、良い子ぶるんじゃないよ」 良い子ぶってるわけでも、何でもなかった。だた、瞬間的にまずいと思って美樹を止めた。一時的なスリルや心の高ぶり、満足感を満たしても、それは虚しいことだとみんな知っている。菜摘はもっと違うものを探したかったし、それを美樹や理奈にも分かって欲しかった。 献一から教えられたことを菜摘は一生懸命ふたりに話をした。心の奥が暖かくなる思いはどんなものなのか、足りない言葉で、それでも自分の気持ちを分かって欲しいと。 「菜摘はちょっと大人になったんだよね。言ってること間違ってないもん、ね」 理奈に同意を求められ、美樹はそっぽを向いた。 「お金ないわけじゃないから、やめてもいいけどさ。けどパパとのことはやめるつもりないから、菜摘にガタガタ言われたくない」 菜摘は頷いた。 「言わない。たださ、美樹が好きだから傷つかないで欲しいと思っただけ」 「傷つくわけないじゃーん」 美樹は鼻で笑うと店を出た。 理奈は菜摘の顔を覗き込んで、にこっと笑った。                7  献一は教務主任に呼び出されていた。職員室から出てきたところを、了がつかまえた。 「なんか、ヘマやったの?」 「いや、そうじゃなくて派遣教会の変更だってさ」 「変更?今頃?」 神学生の派遣教会は、年度末に各教会からの申し込みで1年間同じ学生に割り当てられることになっている。学年も半ばを過ぎての変更は、普通では考えられなかった。 「来週から春の台キリスト教会へ行くことになった」 春の台キリスト教会は、先月主任牧師が入院した。副牧師である夫人が替わって牧会を務めていたが、クリスマスが近づきひとりでは手に負えなくなってしまった。そこで、急きょ神学生の応援を頼んできたのだ。 「どこの教会も人手不足だからな」 「春の台ってさ、菜摘ちゃんちの方だよね」 「そうだな」 「これって、神さまの計画だと思わない?」 「どこが」 「どこがって分かってるくせに。なんでみんなの中から献一が行かされるんだよ。おまえが春の台へ行けば、菜摘ちゃん絶対教会へ来るよ。すごいよ、ひとり救われる」 「まだ、わかんねぇーよ」 そう言いながらも献一は了の言う通りかもしれないと思っていた。神の計画は巧妙で落ち度がない。後は受け取る側がいかに神の指示通り動くかだ。 「彼女に電話しようよ」 了がそう言いながらスマホを取りだしたのを見て、献一はそっぽを向いた。 「勝手にしろ」  土曜日の午後、菜摘は学院の教会へ飛んできた。 嬉しくて嬉しくてしかたがなかった。明日から献一は春の台教会へ行く。 ということは、日曜日に教会へ行けば一日中献一のそばにいられるし土曜の午後も学院に来ればふたりに会える。 大はしゃぎの菜摘を献一と了は苦笑いで迎えた。 「あたし、明日から毎週絶対教会へ行くね」 「はいはい、来てください」 「土曜の午後も、ここに来ていいでしょ」 「好きにすりゃいいけど、オレはベビーシッターのバイトに行くかもしれないぜ」 「あたしも手伝う。赤ちゃんがあんなに可愛いって知らなかったし、保育士ってちょっといいかな、なーんて思って」 「はいはい」 献一は了の肩に腕を回し、前髪をかき上げた。 「彼女、僕たちと関わったせいで将来の職業まで決めちゃったみたいだよ」 「好きにしてくれ。オレは知らん」 菜摘は本当にそう思っていた。 今まで将来の希望など何もなかった。なりたいものも、やりたいことも何もなくて、どうでもいいと思っていた。 けれど、今は本気で保育士になることを考え始めていた。些細な切っ掛けだったかもしれない。それでも献一たちに関わっていると、夢や希望が空から降ってくるようにさえ感じられる。 「ふたりはどうして牧師になろうと思ったの?」 献一と了は顔を見合わせた。 「だって」 「なー」 ニヤニヤ笑って答えないふたりに、菜摘はせっついた。 「ね〜、なんで?」 献一は長椅子に座ると、背もたれに両肘をかけた。 「献身しなさいって言われたのさ」 「献身って牧師になるってこと?誰に?」 「神さまに」 「……」 目が点になっている菜摘を見て、ふたりはまたニヤニヤ笑っている。 「意味わかんなーい。言われたってどういうことよ」 了は眼鏡を押し上げると、献一の隣に座り足を組んだ。 「牧師や宣教師って、自分の意志でなれるものじゃないんだよ」 神に献身するものは、神から選ばれなければならない存在だった。聖書を通して祈りを通して礼拝のメッセージやあらゆる機会を通じて、神は選ばれたものに語りかけられる。 【私についてきなさい】と。 菜摘には全く理解できなかった。神さまなんて見えないし、ほんとにいるのかどうかも分からない。 「そんなの、どうやって分かるの?」 「解るんだよ。言葉で説明できないけど、神さまの意志が解る」 「だから、オレたちはここにいるのさ」 もし神さまに呼ばれているのが分かったとして、献身したくなかったらどうするのだろう。その時はならなくてもいいのだろうか。 「まず、逃げられないね」 「逃げられない?」 「心を決めるまで、その思いにさいなまれる。クリスチャンが神の意志に逆らって生きていけると思うのか?」 それが信仰というものなのか。教会に顔を出してはいるものの、菜摘にとってそれは献一に会うため以外の何ものでもなかった。神の意志と言われてもチンプンカンプンだ。  自分とはあまりにも人間の種類が違う。いくら献一を好きになっても一生報われないような気がした。 献一は時間を確認すると、ワイシャツのボタンを上まで掛けポケットからネクタイを出した。了はこの前の告別式のときのように、献一の襟にネクタイを回すと綺麗に結んだ。 「いいんじゃない、男前だよ」 「サンキュ」 献一は立ち上がると、上着に袖を通した。 「えー!何々、スーツにネクタイなんて、どっか行くの?」 「あぁ」 献一が了に軽く手を挙げたのを見て、菜摘も椅子から立った。 「どこ行くの?」 「春の台教会さ」 「明日じゃなくて?」 「今日は挨拶。いきなり礼拝ってわけにもいかないだろう。クリスマスの準備もあるしな」 「ねぇ、教会に行くときは、いっつもスーツ着んの?」 「そうだ」 「カッコいい!」 歩き出した献一の後を菜摘は追った。 「あたしも行く」 了はふたりを見送ると、眼鏡を押し上げた。 「やれやれ」  日曜日、菜摘は9時に教会へ来るように献一に言われていた。 「こんな早いんじゃ、寝坊もできないじゃん」 ぶつぶつ文句を言いながら自転車で教会へ行くと、献一が玄関を掃いていた。 「よっ」 「掃除なんかするんだ」 「するさ、おまえも手伝え」 献一はほうきを持たせた。 「えー」 すると、そこへ副牧師である牧師夫人が顔を出した。 「おはようございます。もう始まりますよ、中へどうぞ」 菜摘はその言葉にへへっと笑って献一にほうきを返した。  一般礼拝は10時半からだが、CS(教会学校)は9時から始まる。 CSは年齢によって別れていて、菜摘は中学生と高校生が集まる中高科と呼ばれるクラスに入る。献一は菜摘が初めてなこともあって、中高科を担当することになっていた。 そこでは年齢の理解度に応じた聖書の話しをするのだが、普段の礼拝と違い質問などもしやすかった。けれど、菜摘にとっては何もかも分からないことだらけで、献一や了から多少話は聞いてはいたものの、まともに聖書を開いたのは初めてだった。 はっきり言ってつまらん話だ。救いがどーの、恵みがどーのと言われてもちっともピンとこなかった。  献一は忙しくバタバタしていたが、菜摘は後をついて歩き簡単な手伝いをさせてもらった。礼拝を休んだ人へ週報の発送をしたり、誕生日カードの宛名を書いたり、他愛もないことだったがウキウキするような楽しさを感じていた。 聖歌隊の練習にも参加した。神さまの歌にはあまり興味はなかったけれど、歌うことは好きだったから、美樹たちとカラオケにもよく行っていた。けれど、ピアノ伴奏だけでマイクもエコーもない賛美の練習は学校の音楽の時間を思いださせ、ちょっぴり苦笑いの気分だった。    飽きもせず菜摘は土曜も学院へ行った。いつものように寮を訪ねたが、その日は献一や了だけでなく、ほとんどの学生がいなかった。もう何度も菜摘と顔を合わせている寮母は笑って言った。 「明日からアドベントに入るから、みんな準備のためにそれぞれの派遣教会へ行ったのよ。しばらく忙しいと思うけど」 アドベントってなんだろうと思いながら、菜摘は春の台キリスト教会へ急いだ。  教会の玄関を開けると、献一が入口近くに台を置きリースを乗せ、赤いキャンドルを一本立てていた。 「明日からアドベントに入るからな」 「寮のおばさんも言ってたけど、何それ?」  アドベント(待降節)とは、神が人間としてこの世にお生まれになった日、つまりクリスマス(降誕祭)を待ち望むための準備期間のことを指す。 12月1日に最も近い日曜日がアドベントに入る日になる。日曜ごとにキャンドルを一本ずつ増やし灯をともす。4本目のキャンドルの立った日がクリスマス礼拝だ。そしてクリスマスイヴにリースの真ん中に立てる5本目のキャンドルは、世の光であるキリストを現している。 「クリスマスの意味、知ってるか?」 「知ってるよぉ、イエス・キリストの誕生日じゃん」 「おまえ、イエスが名前でキリストが名字だと思ってるだろ」 「え…違うの?」 キリストとはメシヤ(救い主)、つまりイエス・キリストとは救い主イエスとうい意味だ。キリストはすべての人間の罪をあがなうため、すべての罪を背負って十字架に付けられるために生まれてきた。  聖書ヨハネによる福音書第3章16節【神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである】 キリストを信仰することにより、すべての罪を許され、死んだ後、天の御国で永遠の命を神によって与えてもらう、その始まりがクリスマスの本当の意味だ。  献一は教会や神のことをできるだけ知って欲しいと、菜摘にいろいろなことをさせた。クリスマスシーズンだったっこともあって、仕事は山のようにある。 まずは教会の飾り付け。ツリーを出しオーナメントを下げ、タペストリーを貼り、教会の外にはキラキラの電飾をつけた。イヴ礼拝のプログラム作りや病床訪問の用のプレゼント、子供クリスマス会の降誕劇に使う衣装も教会員が手分けして縫うのだが、それも菜摘にやらせるつもりだった。 「おまえん家、ミシンある?」 「あったかなぁ」 そう言えば、母親が学校で使う雑巾を縫っていたことを思いだした。 「あったと思う」 「ちょっと、奉仕してみないか」 そう言うと、大きな生地を広げた。 「それってカーテンじゃん。どっかに下げるの?」 確かにそれはカーテンだった。教会員がどこからか廃品のカーテンをもらってきたのだ。 「何すんの?」 「降誕劇で使う羊飼いの衣装、縫ってくれよ」 「カーテンで?」 教会はどこも貧乏だからリサイクルやリメイクは得意中の得意だったが、やれといわれた菜摘は眉間にしわを寄せた。 「…それって、マジでありえないよ」 ミシンなど家庭科の授業でほんの少し使った程度で、縫えるとはほど遠かった。 「てゆーか、縫えないもん」 「ミシンあるんだろ。直線だけでいいからさ、頭と腕通す穴だけ開けといてくれれば。見本がここにあるし」 「やだよ」 「やれって」 「さっき、奉仕って言ったじゃん。奉仕は自分から進んでやるもんだってCSの時間に言ってたの木坂さんじゃん。これじゃ強制だよ」 献一はニヤッと笑った。菜摘も少しは教会の何たるかが分かってきたようだ。 「じゃあ、それは宿題だ」 「意味わかんなーい」 結局、菜摘は献一にたくさんの生地を押し付けられ縫うはめになった。 「お母さん、ミシンの使い方教えて」 「ミシン?何縫うの?」 「羊飼いの衣装だって」 「…?」 菜摘はことの成り行きを母親に話した。 「ひどいと思わない。あたしに押し付けたんだよ」 「けど、ちゃんと縫って持って行ってあげるつもりなんでしょ」 「だって、しょうがないじゃん」 母親はミシンの準備をしながら微笑んだ。 「菜摘、優しくなったね。以前だったら、こんなの知らん顔してたんじゃない?」 「…え、やだな、別になんも変わんないよ」 「今のあんたのほうが、ずっと好きよ」 菜摘はプィとそっぽを向いた。母親にこんなことを言われるのは、何となくくすぐったかった。    次の土曜日、菜摘は縫い上がった羊飼いの衣装を持って学院へ行った。 「今日はベビーシッターのバイトだよ」 「また、いないんだ」 了は菜摘の下げている袋を覗き込んだ。 「これって、降誕劇の衣装?」 「うん」 「見せて」 菜摘は袋から引っ張りだすと、広げて見せた。長方形に縫った生地に、よっつの穴があいている。 「これが羊飼いの服なわけ?」 「そっ、両腕と頭と足が出る穴がついてるだけ」 了は思わず吹きだした。 「笑うことないと思うんだけど…」 そう言いながら、菜摘も一緒に笑いだした。 「変だよね、こんなの劇の衣装じゃないじゃん」  それでも降誕劇の練習の時、羊飼い役の子供たちがそれを着て紐でウエストを絞るとけっこうさまになっていた。 その羊飼い役のひとりが、菜摘のそばへ来た。 「これ、お姉ちゃんが縫ったの?」 「うん」 「すごいね、こんなの縫えるなんて」 菜摘は身体中がドキドキしていた。たいしたことをしたわけではなかったのに、小さな子に尊敬の眼差しでお褒めの言葉を頂くなんて初めての経験だった。なんだか無性に嬉しかった。こんなことなら、喜んで引き受ければよかったとほんの少し後悔した。  菜摘が少しずつ変わってきていることを神に感謝しつつ、献一は黙ってそのようすを見ていた。                8    桜井家のリビングでは、菜摘の家族が揃っていた。 父親は目を閉じて腕組みをし、母親は湯飲みを握りしめていた。兄は視線を落とし、菜摘は唇を噛みしめ今にも泣き出しそうだった。 「本当にあんたたちには悪いと思ってるの。でも、もうどうしようもないのよ」 「なんでよ、何でそういうことになんのよ。親の都合で振り回されて、あたしはヤよ。絶対ヤだから!」 菜摘は家を飛びだした。 「菜摘!」 追いかけようとする母親を兄が制した。 「俺が行くから」 マンションを出たところで、兄は菜摘をつかまえた。 「お父さんたちだって辛いんだ。おまえも高2なんだから、少しは親の気持ちも考えてやれよ」 「お兄ちゃんはいいよ。大学生なんだから、こっちで部屋借りて残れるじゃん。けど、あたしはそうはいかないでしょ。ずるいよ、みんな!」 菜摘は兄の手を振りほどいて暗い夜道に消えていった。  菜摘の父親はこの春、リストラにあっていた。子供に心配をかけまいと菜摘にはリストラにあったことを話していなかった。 ハローワークへ通い新聞の求人欄を探し、求人雑誌を買いあさり何十件も面接の申し込みをしたが、50を目前にしての職探しは面接にこぎつけるだけでも一苦労だった。 まもなく雇用保険も打ち切られる。高額の住宅ローンを支払っていくにはある程度の収入を確保しなければやってはいけない。それが条件に入るとますます職はなかった。 母親のパートも就業時間のシェアが進み、厳しくなるばかりだ。これ以上ここでやっていくのは無理だと判断した菜摘の両親は、すべてを片づけて田舎に引っ込む決心をした。 今のマンションを売り払ってローンの返済に当てたとしても、まだ借金は残る。 それでも、このままここにいるよりは家業を継いだほうがなんとかなると判断したのだ。  人気のない路地を通って、菜摘は献一がバイトをしているビルの裏に入った。 警備員室の小窓から中を覗くと、椅子に座った献一が聖書を読んでいるのが見えた。 このままだともうすぐ献一と会えなくなる。神さまを信じていれば今夜のようなことがあっても穏やかでいられるのだろうか。献一が自分なら、こんな時どうするのだろうか。  じっと彼を見つめていると、ふいに献一がこっちを見た。 「えっ」 献一は立ち上がると、少し怒ったような顔をしてつかつかと小窓の方へやって来た。 「おまえ、またこんな時間にウロウロして何やってんだ」 献一は説教してやろうと菜摘の顔を覗き込んで目を見張った。頬に涙のあとがある。 「…しょうがねーな。寒いから取りあえず入れよ」 警備室に菜摘を連れてくると、献一は座るように促した。 「へぇー、警備員室って普通の部屋なんだ」 「こんなとこに女の子連れ込んだってバレたら、クビだな」 「クビ!」 菜摘は驚いて立ちあがった。  献一はココアを入れると、菜摘に手渡した。 「幸い今日は、相棒の上司が急病で休みだからよかったけど」 あの煙草臭いぎらぎらオヤジかと菜摘は顔をしかめた。 「それ飲んだら、帰れよ。タクシー呼ぶから」 「やだ!帰らない」 「だめだ、もう9時過ぎてる。子どもの時間は終わりだ」 菜摘はカップを置くと、ドアへ向かった。 「いいよ、もう」 「ちょっと待てって」 献一は菜摘の腕をつかんだ。 「おまえって、どうしてそう排他的なんだよ。人の気持ちとか、そういうの考えないだろう。母親が何か言うと、必ず文句を言うタイプだな」 図星を指されて、菜摘はますますへそを曲げた。 「木坂さんなんか、ウザイ、だいっきらい!」 「嫌いでもいいけどさぁ」 献一はため息をつき髪をかき上げた。菜摘は相変わらずの膨れっ面だ。 「しょうがない奴だな。遅くなるって家に電話しろ。ただし、今日中に帰れよ」 「…やだ」 「ん?」 「もう、あんなうち帰りたくない」 きゅと結んだ唇は、少し震えているように見えた。 「何かあったか?」 菜摘は目に涙をいっぱいためて激しく首を振った。田舎になんか引っ越したくはない。 けれど、菜摘にはどうすることもできない問題だ。もう献一に会えなくなるなんて口にしたくはなかった。 「座れよ」 菜摘は言われた通り腰掛けると、うつむいたまま両手を握りしめた。 「目を閉じろ」 献一はそう言うと菜摘の頭に手を置いた。 「恵み深い天のお父さま、御名を崇めて感謝いたします。主よ、心に重荷を負っている者が今ここにおります。あなたはすべてをご存知です。どうぞ、あなたがその御手を伸ばし彼女の重荷を共に負ってくださいますように。もし、これが試練ならば乗り越えられる力を与えてください。彼女があなたを信じるものになりすべてを委ねることが出来ますように、どうか特別な祝福をお与えください。感謝して主の御名によってお願いいたします。アーメン」 祈りが終わると、献一はそっと手を離した。  菜摘は胸を押さえるけられるような思いが、ほんの少し軽くなったような気がした。 どんな時でも献一といると気持ちが穏やかになるのは、彼が神に仕えようとする人間だからだろうか。 「冷めないうちに飲め」 菜摘は頷くと、ココアのカップを手に取った。 「おまえさぁ、オレと出会ったこと少しでも嬉しいと思ってるか?」 菜摘はドキッとした。これって、もしかしてコクられているのだろうか。 「お、思ってるよ」 「なら、どうして知り合ったのか考えてみろよ」 「あたしが新宿で万引きしたから」 「そういう意味じゃなくてさ。おまえって何か生きてんのが面倒くさいっていうか、つまんないって空気いつも出してるんだよ」 「え… そんなの出してる?」 確かにすべてがつまらないと思っていた。家も学校も献一に関わること以外は全部だ。 けれど、献一の前ではそんなつもりは全くなかった。むしろ嬉しい気持ちの方が大きかったのに、なぜ献一にはそのことが分かるのだろう。 「あたし、木坂さんといられるの嬉しいよ」 「同じ時代の同じ時間に同じ場所で共にいられるのは、神の計画だ。こうやって関われるのも、お互いにこの世に生まれてきたからだろう。それなら、生まれてきた事こそを感謝すべきじゃないのか?」 「生まれてきたこと?」 「そうさ。お父さんやお母さんが愛して慈しんでくれて、ここまで大きくしてもらったんだろう。すべて感謝だ」 「生んで欲しいなんて誰も頼んでない。やなことばっかだよ。お父さんはウザいし、お母さんは小言ばっかで、あたしの気持ちなんかどうでもよくて。自分たちでいろんなこと勝手に決めて、あたしはいつだって親の都合に振り回されて。だいっきらいだよ」 「オレといられるのが、嬉しいって言ったろ」 「…うん」 「生まれてこなきゃ、会えなかった」 「……」 菜摘は言葉がなかった。生まれてきたことを感謝するなんて考えたこともなかった。 ましてや親に対する感謝の気持ちなど、これっぽっちもない。親などうるさいだけのうっとうしい存在だとずっと思っていた。  献一はいつも誰も教えてくれなかった、人として大切なことを話してくれる。 親も学校の先生もこんな話はしなかった。菜摘のもっと素直になりたいという気持ちを引き出してくれるのは献一だけだ。  献一は立ち上がると、菜摘の頭をくしゃっと撫でた。 菜摘は嬉しかった。こんなに辛くやり場のない怒りを抱えている時でさえ、気持ちの奥がぽやっと暖かくなっていく。 「そろそろ見回りの時間だから、ここでおとなしくしてろ」 「え〜、こんなとこにひとりでいるのぉ!ありえなーい!」 「おまえなぁ、オレが仕事だって認識まるでないだろ」  なんだかんだ言いながら菜摘は見回りの献一について行った。 シーンと静まり返った人気のないビルの廊下は、思っていたよりもずっと不気味だった。献一の持つ懐中電灯だけが行く先を照らしている。菜摘はキョロキョロしながらも献一の制服の裾をしっかり掴んでいた。 献一は急に立ち止まると口の前に人差し指を立てた。それを見て、菜摘は小声で言った。 「なに?」 「足音がする… こっちだ」 献一は非常階段へ向かって歩き出した。ドアまで来ると、カンカンカンと階段を駆け上がる音が聞こえてくる。ドアを開け非常階段に出ると、上の方で靴音がした。 「ここで待ってろ。見てくる」 「やだぁ、ひとりじゃ怖いもん」 献一は顔をしかめた。 「しようがねぇな。気をつけて、そっとな」 菜摘は頷くと、献一の後に続いた。 冷たいビル風は容赦なく吹き付けてくる。凍るような手すりを頼りに屋上まで上がると、ふたりは辺りを見回した。 「木坂さん、あそこ」 菜摘が指差すほうを見ると、中年男が金網をよじ登っている。 (自殺するつもりだ!) 献一は、菜摘の肩を掴んだ。 「学院へ電話して、滝川先生に来てもらって。それから、警察にも連絡してくれ」 「えー、あたし寮の電話しか知らないよ。宇都宮さんにかけてもいい?」 「あぁ、すぐ来て欲しいって」 菜摘はスマホを取り出した。  献一はできる限り平静を保って、静かに男に近づいた。 「どうしたんですか、そんなとことに上って」 男はどきっとして、振り返った。 「危ないから、降りてください」 男は一瞬たじろいだが、無言のまま向き直ると金網の上へと手を掛けた。 「待ってください!」 献一はあわてて駆け寄り男の足を掴んだが、靴だけが脱げ落ち男は金網の向こう側へ降り立ってしまった。そうして、ゆっくりとビルの下をのぞき込んだ。 「これで、やっと楽になれる…」 男は独り言のようにつぶやいた。 献一も金網を乗り越えようと足を掛けた。すると、男が振り向いた。 「来るなよ」 男はそう言いながら、せり上がった縁に登った。もう後がない。 献一は男を見据えたまま、ゆっくりと足を降ろした。 (主よ、彼を助けてください。そのための言葉を与えてください。自分が今、語るべき言葉を与えてください。思いとどまるように彼の心に平安を与えて下さい) ごくりと生唾を飲み込んだ献一の身体には、冷や汗が噴き出していた。 「死ぬつもりなんですか。よかったら、理由を聞かせてもらえませんか。誰にも何にも言わないなんて、心残りでしょう?」  男は黙っていた。黙ったまま悲しげな目をして、献一を見つめた。 献一は言葉を探した。祈りながら必死で、引き止めるための言葉を探した。 けれど、焦る気持ちばかりが先走って神からの声が聞こえない。  男は口を開いた。 「もう疲れたんだ。会社を守ることが家族を守ることだと信じてた。だから何ヶ月も給料なしで頑張ってきたんだ。なのに社長の奴、有り金持ってトンズラしやがった。家のローンはまだ30年も残ってる。子どもだってこれから金がかかる。俺が死ねば保険がおりてローンも完済だ」 今この男に妻や子供の話をしても、自殺を諦める材料にはならないだろう。そんなことはここへ来る前に厭というほど考えてきたはずだ。 (主よ、言葉をください!) 献一は真っ直ぐに男を見た。 「あなたの最後の1日をオレにくれませんか。死ぬんでしょう?なら、1日くらい遅れたってどうってことないじゃないですか」 自分を押さえ込むように立っていた男は、目をシバシバさせぼそっと応えた。 「最後の1日をおまえに?」 「えぇ、オレにください」 「…何するんだ」  献一は身体中がまるで心臓になってしまったかと思うほど動悸がしていた。 この男の命は自分が握っているかもしれない。そんな恐怖が全身を襲った。 罪にまみれたまま死なせるわけにはいかなかった。自殺は神に対する最大の裏切り行為だ。彼は生かされているという事実を知らなければならない。せめて、それだけでも伝えなければ…。  献一はすっと息を吸い込んだ。落ち着いて、さも当たり前のことが起こっているかのように笑みを浮かべた。 「賭けですよ、大きな賭け。今までの罪が全部ちゃらにしてもらえる。こっちに来てくれたら話します。無駄に死ぬのを延ばしてしまったなんて後悔はさせませんから。それに賭けに勝てば、死ぬ必要もなくなる」 「……」 男は目を閉じて深呼吸すると、縁からゆっくり降りて金網に手を掛けた。  献一はじっとりと汗ばんだ手を握りしめながら、男が思いとどまってくれることだけを祈っていた。男がこちら側へ来たらこっちのものだ。その腕を掴んで絶対に離さないつもりでいた。自分に説得する力が与えられないなら、何とか滝川牧師が来るまで時間を稼がなければならない。  そう思った瞬間、男は登り始めていた金網から手を放した。 男の視線は、献一を通り越してもっと後ろを見ている。 献一が振り返ると、そこにはどうしていいのかわからないといった表情の警察官とスマホを握りしめた菜摘がいた。 「最後の1日はなしだな。やっぱり疲れたよ…」 そう言うと男はさっきまでいたビルの縁に足を掛け、諦めたようにふっと笑うと身体を宙に投げ出した。 「やめろー!」 男のいなくなった屋上に、献一の叫び声だけが響いた。  救急車は、サイレンを鳴らしながら遠ざかって行く。 献一は金網に手を掛けたまま、動こうとしなかった。 呼び出されていた滝川牧師は、献一の肩に手を置くと静かに口を開いた。 「神は時として辛い試練をお与えになる。なぜ君がこの場に居合わせなければならなかったのか、その答えはいずれ出る。これから牧師となって働くうえで、今回のことは必ず益になるはずだ。神は決して無駄なことはなさらない」 献一は唇を噛んだ。 (オレは、あの人を救えなかった。なぜだ、神は共にいると信じているのに。なぜ、聖霊は働かなかったんだ。オレの信仰の弱さゆえなのか。オレは…) 金網に頭をすり付け、こぶしを叩きつけた。  押し殺すようにうめく献一のそばで、菜摘は何と声を掛けていいのか分からず、じっとたたずんでいた。 こんな献一の姿を見ているのは嫌だった。 「桜井さんでしたね、ありがとう。お世話をかけました。お送りしますから、行きましょう」 「でも…木坂さんが…」 「大丈夫ですよ、神はどんな時も彼と共にいますから」 滝川牧師に促され、菜摘は屋上階段の入り口に向かって歩き出した。けれど、あんな状態の献一を本当にひとりにしておいていいのだろうか。  後ろ髪を引かれる思いで、菜摘は階段を降りた。  滝川牧師に送られて、菜摘は家に帰った。 牧師は今夜の出来事を菜摘の両親に話し、ショックを受けているだろうことを伝えた。  菜摘は部屋に閉じこもると、ベッドの上で膝を抱え小さくなった。 人が自殺をする場面に出くわしたことよりも、献一のあの姿の方がショックだった。 いつものサラリとした態度とはまるで違う、重くやりきれない雰囲気。 菜摘自身も大きな問題を抱えていたけれど、今は自分のことよりも献一の方が心配だった。  翌朝、献一はいつもの時間に帰っては来たが、ベッドの下段に腰掛けたままぼんやりしていた。 あの後、警察に散々事情徴収され昨夜は一睡もしていない。  夕べの一件は菜摘が了へ電話をかけたために、寮生は全員事の次第を聞いて取りあえずの内容は知っていた。  もうすぐ早天祈祷会が始まる時間だ。了は献一の聖書を差し出した。 「会堂へ行こう。祈祷会だけは無理しても出なきゃ」 「…そうだな」 祈祷会では学生たちが口々に献一の心の傷への執り成しをしたが、献一の気持ちは重いものだった。  その日の授業は、滝川牧師の計らいで休むように言われた。 「眠れそう?」 了は心配気に布団を掛けると、献一の額に手を当てた。 「何やってんだ?おまえ」 「熱、あるかなと思って」 「あるわけないだろ、ばか」 「だよね」 了は笑って梯子から降りると、教科書を持った。 「愛してるぜ、了」 「僕もだよ」 了が出ていくと、献一は両腕を頭の後ろで組みふーっとため息をついた。 みんなの前ではできるだけいつものように振る舞おうと自分を煽ってはみたが、それすらもこれ以上は辛くて無理なことのように思えた。  あの中年男の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。あの悲しげな目…。 まるで、自分があの男を見殺しにしたような気分だった。いくら考えても、あの場面で死ぬことを止められなかったのは、自分の責任のような気がしてならない。なぜ神は救いの手を差し伸べてくれなかったのか。なぜ聖霊は働かなかったのか。もしかすると、それは献一自身の信仰のせいなのか。  身体は疲れて眠いはずなのに胸に重石を乗せられたようで、とても眠れる状態ではなかった。  突然、ドアが開いた。 献一が驚いて起き上がると、ドアから顔を出したのは菜摘だった。 「やっぱりここにいた♡」 「な、なんだ、おまえ」 菜摘は教室には行かず、真っ直ぐ寮のこの部屋に来た。献一は絶対にここにいるような気がしたのだ。 「どうやって入った?ここ男子寮だぞ」 「誰もいなかったよ」 「マズイだろ、それって。後で舎監にどやされんのオレだぞ」 菜摘は下唇をぷっと突きだし、膨れっ面をした。 「心配して来てあげたのにぃ」 献一はやれやれといった表情をすると、上着を着て菜摘を外へ連れ出した。 献一の気持ちとは裏腹に、空はよく晴れてこの季節としては暖かだった。 「学校、サボるなって言っただろ」 「サボってないよ。今、試験休みだもん」 校舎のはずれまで来ると、献一はベンチに座った。まめスケがそばへ来て足にすり寄ったが、献一はただそれを黙って見ているだけだった。やりきれない思いが気持ちの全部をおおっていて、菜摘の相手をしてやる気にもなれなかった。  菜摘は、献一の前に突っ立ていた。 「木坂さんのせいじゃないよ。だから、そんな顔しないで」 献一は空を仰ぐと目を閉じ、深いため息をついた。そして、立ち上がると菜摘の肩をぽんとたたいた。 「悪いけど、オレちょっと寝るわ」 そう言うと寮へ戻っていった。  取り残された菜摘はまめスケを抱き上げ、ベンチに座ると頭を撫でた。 「まめスケ、木坂さん元気ないね。あたしも嫌で悲しいこといっぱいあるんだよ。田舎へ引っ越すんだって。学校も変わらなくちゃいけないくて、大好きな木坂さんにも会えなくなる。でもさ、自分のことばっか考えてちゃいけないって思ったから…。木坂さんがそう教えてくれたから、だから…」 いつのまにか頬をつたっていた涙を、まめスケがぺろぺろと舐めていた。 菜摘は、まめスケを抱きしめて泣いた。涙が止まらなかった。 「木坂、来ないな。やっぱ、調子悪いのか」 「目の前で飛び降り自殺されたんじゃな。木坂でなくてもショックだよ」 「宇都宮くん、木坂くんはどんなようす?」 夕食の時間を過ぎても献一は食堂に現れなかった。心配した了は食事を持って部屋へ戻った。 献一は朝からほとんど眠れないまま、ベッドに横たわって天井を見つめていた。 「献一、起きてる?」 「あぁ」 「夕飯、持ってきたよ。おばちゃんがおにぎり作ってくれた」 「おまえが食えば…」 「食べなきゃだめだよ。朝もろくに食べてないし、昼だって」 「断食祈祷さ」 「うそつけ。いいから降りてこいよ」 言われるままに、献一は2段ベッドの上から降りてきた。髪には寝癖がつき、ぼんやりした表情で了と目を合わせないようにしていた。 「食べさせてやろうか」 「……」 いつもなら、『バーカ』と突っ込みが入るのに今日は黙ったままだ。 「そろそろ風呂の時間だけど、どうする?」 「おまえ、入って来い」 「うん…」 了は着替えを用意すると、ぼんやりしている献一におにぎりを持たせた。 「少しでもいいから、食べて」 黙っている献一を置いて了は部屋を出た。あんな状態の献一を見たのは初めてだった。  風呂を出て祈り会の後、了はもう少し献一をひとりにしておいてやろうと部屋には戻らず、談話室にいた。すると携帯電話が鳴った。 「あたし、菜摘」 「やぁ」 「木坂さん、どうしてる?午前中会ったとき変だったから」 「来てたの?」 了はため息をついた。 「相当まいってるよ、あいつらしくない。夕べ、最後はどういう状態だったの?」 あの時、了と警察に電話した後、男がビルのいちばん縁に立って献一と何か話しているのが見えた。しばらくして男が気を取り直したのか、こちら側に来ようと金網に手を掛けたとき、近くの交番から警官が来た。 「その人、お巡りを見たとたん登るのやめて、いきなり飛び降りちゃった。木坂さん、金網にしがみついたままで牧師が来ても動かなかったんだよ。自分のせいであの人が死んじゃったと思ってるのかも知れない」  時計は9時を過ぎていた。了は談話室を出ると、そっと自分たちの部屋のドアを開けた。真っ暗な中、ベッドを覗くと献一の姿はなかった。 (どこ行ったんだ?) 今夜はバイトも休むことになっていたから、出掛けるところなどないはずだ。 了は上着を着ると、外へ出た。  祈祷室のある校舎は真っ暗で、今夜祈っている者はいないようだった。了は校舎の隣にある学院教会へ入った。教会には非常灯以外の明かりはなかったが、会堂の扉を開けると長椅子に人影が見えた。献一だ。彼は頭をたれ、両手を握りしめていた。 了はそれを確認すると、扉を閉め部屋に戻った。    献一は遅くに帰ってきた。ベッドに入ってもやはり同じ思いに捕らわれる。 あの目だ。あの男の悲しげな目が脳裏に焼き付いている。 慰めの言葉をかければ良かったのだろうか、それとも共に痛みを分かち合えるような言葉を探すべきだったのだろうか。どんなに悔やんでも悔やみきれない。 「献一、献一!」 了に揺り起こされ、献一はふっと目を覚ました。 「大丈夫?ずいぶんうなされてたよ」 「…あぁ」 起き上がった献一の額には、汗がにじんでいた。 「今日土曜だし、気晴らしにどっか出掛けようよ。菜摘ちゃん呼んでさ」 献一は視線を落とすと、首を振った。  了は、ここまで献一が落ち込むとは思ってもいなかった。いつでも誰よりも自身あり気に真っ直ぐ主を見上げていたはずなのに、この打ちのめされようはどうだ。 献一の顔を両手で挟むと、ムズっと自分の方に向けた。 「これ以上自分を責めるな。自分をさいなむ思いはサタンの囁きだって知ってるじゃないか」 「……」 「そうだろ。悪魔の言いなりになってどうする」 献一はわずかに頷いた。 確かに了の言う通りだ。だが、分かってはいても悪魔の囁きは時間を追うごとに大きくなっていく。 《あの男を見殺しにしたのは、おまえだ》 繰り返し繰り返し、頭の中で声が響く。おまえだ、おまえだと…。  献一は了の誘いを断り、東京の郊外まで来ていた。人に道を訪ねながら辿り着いたのは、立派な寺だった。  今日ここであの男の葬儀がある。 寺に近づくに連れ、献一は動悸がし頭痛を覚えた。 偶像や汚れた霊のある場所に、気づかず近づいても必ず現れる症状だ。占い師や悪霊に憑かれた人間がそばに来ても同じ症状が出る。 生まれる前から、霊的に聖い環境で育った献一の反応は敏感だった。  ここは寺。自分から偶像に近づいたのは10歳の時以来だ。    献一の両親は敬虔なクリスチャンだった。生活の優先順位のいちばんはいつも神だ。 例えば学校の運動会は日曜日と相場が決まっていたが、日曜日は礼拝がある。 当然礼拝が優先され運動会には午後からの参加ということになるのだが、献一の両親はもっとすごかった。何日も前から日曜の運動会が雨で順延になるようにと祈り、実際献一が学校に上がってから日曜日にセットされた運動会はすべて雨が降り、月曜に順延になっていた。 テレビや雑誌のマンガにまで目を光らせ、妖怪や占い、殺人、暴力、ホラーやオカルトその類いが出てくるものはすべて見ないように制限していた。 また、幼いころから神社や寺に行ってはいけない、偶像に近づいてはいけないときつく躾けられていた。だから、盆踊りにも神社の縁日にも行ったことがなかった。  学校の校外学習で神社仏閣への拝観が組まれていたときなど、献一の親は『うちの子供はクリスチャンですから拝観はしません』と先生に電話をかけるほどだった。 みんなが拝観している間、献一は神社や寺の外でひとりで待っていた。 彼にとって、それは当たり前の行為だったのだが、友だちが盆踊りに行ってお菓子をもらったとか縁日で金魚すくいをしたなどの話を聞くと、やはり子供だった献一にはとても楽しいことのように思えた。  10歳の秋、その誘惑は突然訪れた。 『献ちゃん、一緒に縁日に行こうよ。ヨーヨー釣りして、リンゴ飴食べよう』 いちばん仲の良かった友だちからの誘い。行ってはいけないことは百も承知だった。 偶像に近づくなど、汚れた霊のただ中へ入っていくのも同然だ。霊的に何が起こるか分からない。サタンが、聖い献一を見過ごすはずはないのだから。 それでも献一の幼い心は、ヨーヨー釣りやリンゴ飴の誘惑に勝てなかった。  母に公園へ遊びに行くと、嘘をついて縁日に出掛けた。 神社の参道に入ったとたん、なぜだか頭がくらくらした。頭痛もしていたはずなのに、今まで経験したことのないほど賑やかで心惹かれるものに、すっかり気持ちが占領されていた。輪投げ、射的、くじ占い、わたあめ、金魚すくい、見るものすべてが物珍しく楽しいものに思えた。 親に嘘をついたという罪悪感が、ドキドキ感を助長させていた。 教会のイースターやクリスマス、バザーともキャンプとも違う楽しさ。秘密めいたそれは献一の知らない世界だった。  家に帰ってくるなり、献一はトイレに駆け込んだ。ひどい吐き気がし、おまけに熱まで出した。と、同時に深い後悔に襲われた。 親にはばれなくても、神は献一のしたことを全部見ておられる。親に嘘をついたうえに、初めて神を裏切ったという思いが身体中をおおった。 (イエスさま、もう二度とあんな場所へ行ったりしませんから許して下さい) 毎日毎日、献一はそう祈った。けれど、重苦しい気持ちはぬぐい去ることができなかった。  それから数ヶ月ほど経ったある日、献一の両親が事故で急死した。 教会の会堂に安置されたふたつの棺の前で、献一は嗚咽をこらえた。 両親が死んだのは、自分が嘘をついて縁日に行ったからだ。あれほど行ってはいけないと言われていた神社の境内に足を踏み入れ、偶像に加担した人たちの店で自分の好奇心を満足させた。 神さまは献一に重い罰を下され、それに両親が巻き込まれたに違いない。 (イエスさま、悪いのはボクなのにどうしてお父さんやお母さんを連れていったんですか?悪いのはボクです…)  前夜式の後、耐えきれなくなった献一は牧師にすべてを告白した。 『先生、イエスさまに許してもらえるように一緒にお祈りして下さい』 『そうだね、お祈りをしよう。でも、お父さんやお母さんが天の御国へ行ったのは、献一君のせいじゃないからね』 『ボクのせいだ、ボクが嘘をついて縁日に行ったりしたから…』 牧師は、献一を抱きしめた。 『違うよ。神は愛する子を訓練されるけれど、罰を与えたりはなさらない。お父さんやお母さんが凱旋したのは、神の計画だ。神の計画は壮大で、人間には計り知れない。今その意味が解らなくても、必ず理解できるときが来る。自分を責めてもイエスさまは喜ばれないよ。イエスさまは、献一君がクリスチャンとして強くなることを望んでおられる。この試練を乗り越えられるだけの力があるのを御存知だから、訓練を与えられたんだよ。厳しい試練だと先生は思うけれど、これを乗り越えれば祝福は何百倍にもなって君に返ってくる。聖書に書いてあるだろう【わたしはあなたと共におる。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、また雄々しくあれ】と。イエスさまが君に望んでおられることだ。心配しなくて大丈夫。神さまはどんな時も君と共にいて、必ず守って下さるから』 そうして、献一は母方の祖母に引き取られた。  寺の入口で、献一はその門を見上げた。大勢の弔問客で辺りはごった返している。 頭痛は、これ以上近づくなという警告だ。  なぜこんなところまで来たのかと、献一は自問自答した。あの男が死んだ後、どこへ行くのかを確かめたかったからかもしれない。いや、確かめる必要などない。自殺はこのうえなく重い罪だ。何がどうなろうと死んでしまえば救いに預かるチャンスは消える。 彼はゲヘナで、永遠の炎に焼かれるのだ。 そこへ追いやったのは、自分だという思いをどうしてもぬぐい去れなかった。  献一はひどくなる頭痛を感じながら、境内に足を踏み入れようとした。 「献一!」 その声に振り返ると、そこには心配して後を追ってきた了と菜摘がいた。 「…なんで、ここに」 了は献一の腕を掴むと、人込みのはずれまで引っ張った。 「あんなところへ入っちゃダメだ。備えも執り成しもないんだ。今のおまえじゃ、まともに攻撃をくらう」 「分かってる」 「分かってて、何で行こうとするんだよ」 献一は首を振った。 「しっかりしろよ、おまえはもっと強いはずだ。おまえが突き落としたわけじゃない。彼は自分の意志で飛び降りたんだ。神が献一という御使いを送ったにも関わらずだ」 「オレという…御使い?」 「そうだ、もっと霊的に考えろよ」 献一は座り込むと、頭を抱え込んだ。  菜摘はただ心配だった。ふたりの会話の意味がわからない分、余計不安になる。 「どうしちゃったの?木坂さんらしくないよ」 どう考えてもいつもの献一じゃない。あの出来事は菜摘の想像以上に献一を傷つけていたのだと、改めて感じていた。彼にこんな状態のままでいて欲しくはなかった。 けれど、どうすればいいのか分からない。  その時、菜摘は初めて自分の意志で神に祈った。 (神さま、木坂さんの信じてる神さま。あなたが本当にいるなら、木坂さんを助けて。大好きな木坂さんを助けて) そう祈ったとたん、押し出されるように口を開いた。 「あたしの友だち、みんな物欲主義で、お金さえあれば好きなもの何でも買えて、幸せになれると思ってる。あたしも、そう思ってた。でも、木坂さんは違ってた。お金じゃ買えないものの話ばっかりするよね。あたし、木坂さんみたいな人に初めて会った。人間は、もっと違うものを見つめなくちゃいけないって教えてくれた。あたしだって木坂さんに会ってなきゃ、自殺してかもしれない。何のために生きてんだか分かんなかったもん。もう、とっくにあたしを救ってるじゃん。だから、そんなふうに自分を責めないでよ。お願いだから…」 献一のそばにしゃがみ込み、彼の袖を握りしめた菜摘の頬に涙がつたった。 「……」 献一は顔をあげると、黙って菜摘の頭をくしゃっと撫でた。  その夜、献一はベッドにころがり、天井を見ていた。 「なぁ、了。【人は誰も自分をあがなうことは出来ない。その命の価を神に払うことはできない】ってどこに書いてあったっけ?」 了は明日の子供クリスマス会の飾り付けに使う折り紙を机いっぱいに広げ、星形に何枚も切り抜いていた。 「詩編だよね」 「あぁ、何編だっけ?」 「え?えっと」 たくさんの折り紙の下敷きになっていた聖書を引っ張り出したとたん、折り紙が辺りに散乱した。 「あ〜ぁ、ばらまいちゃった」 了は詩編をめくった。 「あったよ、49編」 「……」 「献一、49編だってば」 返事のない献一に、了は2段ベッドの梯子を上った。 「Zzz…」 「なんだ寝るなよ、人がせっかく調べてやったのに。どうするんだ、この折り紙。足の踏み場もないじゃないか」 文句を言いながらもその無防備な寝顔に了は安心したような笑みを浮かべ、布団を掛け直した。 「おやすみ、お疲れさん」                9 「木坂君、ちょっと」 教務主任に呼び出されて、献一は応接室に入った。 そこには中年女性が滝川牧師と共に座っていた。 「わざわざ、すまないね。座って」 分けが分からないまま会釈すると、献一は言われるままに腰を掛けた。 「こちらは桜井菜摘さんのお母様だ」 「いっ…」 献一は思わず固まった。考えてもいなかった訪問者。 菜摘に手を出した覚えはないし、騒がれるようなまねだってしていない。 神に誓って何もだ。 どちらかといえば献一の方がまとわり付かれている。いったい何の用なのだろう。 「いつも菜摘がお世話になりまして、ありがとうございます」 「はぁ」 「突然お伺いしまして、申し訳ありません。今日は今までのお礼を申し上げたくて参りました」 献一には言われている意味がよく分からなかった。 「夫の実家が広島なんですが、実は引っ越すことになりまして」 「引っ越す?」 「夫がリストラにあいまして、先日娘にそのことを話しましたら、やはりショックだったようで家を飛びだしまして心配しておりましたら、こちらの滝川牧師にお送りいただいて」 自殺騒ぎのあった日だ。 あの涙のあとは、このことが原因だったのかと献一は思い返していた。 「しばらくはふさぎ込んでいたんですが、急に広島へ行ってもいいと。あの子、お父さんとお母さんの子で良かったって、そう言ったんです。みんなで頑張れば何とかなるって。そんなことを言う子ではなかったものですから…」 菜摘の母親は目頭を押さえた。 「木坂さんとおつき合いをさせていただいてから、菜摘はずいぶん変わりました。なんとお礼を申し上げていいか。本当にありがとうございました」 菜摘の母親は、深々と頭を下げた。  クリスマスイヴの夜、各教会ではイヴ礼拝が行われる。 春の台キリスト教会でもキャンドルサービスが行われた。ロウソクの揺れる灯火の中、菜摘は献一や教会員らと共に聖歌隊に加わった。  初めて体験する本物のクリスマス。こんなに静かで心に染み入るクリスマスは本当に初めてだった。 去年は付き合っていた男の子と喧嘩をして、つまらないイヴをひとりで過ごした。美樹も理奈もカレシと一緒で、相手にしてもらえなかったけれど今年は違う。 今年は献一と、神様も一緒だ。  礼拝の後、ささやかなティータイムが持たれたが、菜摘は後片づけに忙しい献一を手伝い会堂の掃除をしていた。 「悪いな、最後まで手伝わせて」 「ううん、いいキャンドルサービスだったね。やっぱり本物は違う。うちでケーキ食べるよりずっと良かった」 菜摘は持っていたモップの手を止めた。 「あたしね…」 「ん?」 「明後日引っ越すの、お父さんの田舎に」 「…そうか」 それ以上、菜摘は何も言わなかった。何を言ってもせつなくて寂しいことのような気がした。本当なら献一に抱きしめてもらって『行くな』と言ってもらいたかったけれど、そんなことは夢に過ぎないことも分かっていた。彼にとって自分は単なる求道者であって、恋人でも何でもないのだ。    クリスマスが終わると、ようやく神学生にも冬期休暇がやって来る。 寮生は皆、各部屋の大掃除を始めていた。献一はたちもいつもは動かさないロッカーや机を動かし、たまった埃を掃き出していた。 「何かいつもより、ゴミ多くないか」 「今年は風の強い日が多かったからね。隙間から埃が入ってきてたんじゃないの」 淡々と掃除をしている献一をよそに、了は何度も時計に目をやり時間を気にしていた。 「見送りに行かないの?」 「何を?」 「とぼけるなよ。菜摘ちゃん、今日行くんだろ」 桜井家は今日引っ越すことになっていた。13時52分東京発ののぞみで広島へ発つ。 「別にいいんじゃないの」 「行ってあげれば?これからの信仰生活に関わるかもしれないから。教会へ行くように念を押しとかないとね」 献一は雑巾掛けをしている手を止めた。 「了も行くか?」 「僕は行かない」 「なんで?」 「彼女が待ってるのは、僕じゃなくて献一だから」  東京駅に菜摘たちが乗る新幹線がすべり込んできた。客の降りた後、せわしく車内清掃が始まった。 ホームには美樹たちが見送り来ていて、菜摘を囲んで大はしゃぎだった。 「元気でね」 「みんなもね」 「なーんて言ったってさ、毎日LINEして顔も見られるから寂しくないよ」 「だよね」 「菜摘のカレシ、来ないの?」 「カレシじゃないよ。そうだといいなって思ってただけ」 「えー!そうなの?」 「そうだよ」 そう言って視線を移したとき、献一の姿が目に入った。菜摘は嬉しくて献一めがけて走り寄り、目の前まで来るとにっこり笑った。 「来てくれたんだ」 「最後にオレに会いたいかと思って」 「相変わらず、うぬぼれてるじゃん。でも、うん、すごく会いたかった」 献一は自分の首に掛けていた十字架のペンダントをはずすと、菜摘の手に持たせた。 「あたしに?」 「あぁ」 そしてポケットからメモ用紙を取り出した。 「引っ越し先から、いちばん近い教会だ。と言っても田舎だから結構な距離あるけどな。向こうへ行っても教会からは離れんなよ」 「うん」 菜摘は十字架とメモを握りしめると、ぽろぽろ涙をこぼした。 「泣くな」 「…うん」 袖口で涙をぬぐうと、菜摘は献一を見上げた。 「お兄ちゃんがこっちに残るから、春休みに会いに来てもいい?」 「また説教して欲しいのか」 「説教はやだけど… でも、それでもいいよ」 献一が菜摘の頭をくしゃっとなでた時、母親が後ろから声を掛けた。 「菜摘、そろそろ時間よ」 菜摘は振り向いて頷くと、もらった十字架を自分の首にかけ頭を差し出した。 「お祈り、してくんないの?」 献一は微笑むと、菜摘の頭に手を置いた。 「恵み深い天のお父様、御名を崇めて賛美いたします。今日、彼女はここを離れ新しい地へと向かいます。どうぞ、これから先もあなたが彼女を守り豊かな祝福をお与えください。何事にも真っ直ぐな心で取り組むことが出来ますように、そして本当の意味であなたと出会うことができますように導いてください。ご家族のこれからの歩みの上にもあなたの恵みがありますように…」 祈りの途中で献一が黙ってしまったので、菜摘はどうしたのかと目を開けて上目遣いに彼を見た。 献一はしばらくじっとしたままでいたが、すっと息を吸い込むと祈りを続けた。 「桜井菜摘さんと出会えたことを、心から感謝いたします」 菜摘は嬉しかった。身体の芯から暖かいものが湧き出てくる。 そうだ、この感覚。 献一と話をした時、祈ってもらった時にいつも感じる心の落ち着き、安心感。 彼が常に言っていた人との関わり、人間が本来望むべきもの。 「すべての栄光は、主のものです。あなたの恵みに感謝し主の御名によってお祈りいたします。アーメン」 「アーメン」 その瞬間、発車のベルがホームに響き渡った。 「ありがとう、木坂さん。あたしもあなたに会えたこと神さまに感謝してる」 そう言って新幹線に飛び乗ると、扉が静かに閉じた。動き出した新幹線の窓に顔を寄せ、どんどん小さくなっていく献一の姿を見つめながら、菜摘は首に掛かった十字架にそっとふれた。  あの時、献一に出会わなかったら、少しも人の気持ちを考えない独りよがりな自分のままだったに違いない。彼から貰ったものは絶対に忘れない。 今度会うときは、献一に好きになってもらえるようなステキな女の子になっていたい。そのためには神に出会って、献一が探し当てたものを菜摘も見つけたいと思っていた。 献一に出会ったわけは、きっとそこにある。  新幹線が見えなくなると、献一はサングラスを掛け出口に向かって歩き出した。 階段の下まで来ると、そこには了がいた。 「なんだ、来てたのか。来ないって言ってたくせに」 「献一の残念会でも、しようかなと思って」 「なんだよ、残念会って」 「残念会は残念会さ」 献一は了の肩に腕を回すと、ふっと息をついた。そして、菜摘が救われるように今まで以上に祈りを積もうと心に決めた。  突然黄色い声が上がって、ふたりは数人の女の子に取り囲まれた。 「木坂さんと宇都宮さんでしょ。あたしたち、菜摘の友だちでーす」 「わたしたちも教会へ行ってみたいんですけどぉ、一緒に連れっててください」 「おねがいしまーす」 献一と了は、目を丸くして顔を見合わせていたが、にっと笑った。 「よーし、まとめて面倒見るか」 「きゃあー!」 おわり
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