引っ越し

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 野田さんの部屋に泊まる、それは金縛りのことや幽霊のこと、そして部屋に置き忘れたスマホのことを忘れさせる程の衝撃だった。  スキップをしたい気持ちをおさえながら外づけ階段をおりると、大家のおじいさんが箒で外を掃除していた。 「おはようございます、いつもありがとうございます」  そう挨拶すると、大家さんはにこりと笑う。 「ああ、おはよう。今朝は随分と早いんだね」  幽霊が怖くて部屋にはいられない、そんなことは言えなくて曖昧に笑ったが、ふとこんな疑問が浮かんだ。 「……あの、大家さん。俺の部屋って所謂"事故物件"とかじゃないですよね?」  部屋を決める時にそんな話は聞いてないのだが、確かあれには告知期間があったはずだ。もしかしてその期間が過ぎていて教えてもらえなかっただけで、俺の部屋では昔なにかあったのかもしれない。 「伊藤くんの部屋? 違うよ」  嫌な顔ひとつせず答えてくれる大家さんに申し訳なくなり、俯く。そんな俺に大家さんは続ける。 「伊藤くんの部屋違うよ」  違和感を覚え、顔を上げると大家さんは2階を見上げていた。 「伊藤くんの隣の部屋、昔女の子が住んでたんだけど自殺しちゃってね」 「……と、隣?」 「付き合ってた彼氏に浮気されて、それが辛くて死ぬことを選んだみたいだ。クローゼットの取っ手に紐を結んで首を吊ってたよ」 「……え、あ、……え??」 「カスミちゃん、優しくて親切な子だったんだけどね……きっと優し過ぎたんだろうね」  大家さんの視線の先を確認すると、そこには野田さんの部屋がある。あれ? 野田さんの下の名前って……カスミ、だったような、 「あの部屋はね、その一件からずっとなんだよ」 「ずっとって……今も、ですか?」  冷たい汗が、背中を伝う。  大家さんはきょとんとした顔で俺の問いかけに答える。 「ああ、そうだよ」  掃除を再開させる大家さんの隣で俺は立ち尽くして彼女の部屋を見つめた。  すると誰もいないはずの部屋の扉が音をたてずにスゥーと開き、僅かにあいた隙間から誰かがこちらを見ている。 「チッ」  耳元で聞こえた女性の舌打ちに、俺はたまらず駆け出した。  その後、俺は友人宅へと転がり込む。そして直ぐにアパートの退去手続きをはじめ、部屋の荷物はその友人と共に休日の昼間に運び出した。  ほとんどの荷物は引っ越して来た時のまま、段ボールに入っている。だから運び出すのは簡単だった。  最後に彼女の部屋を振り返る。彼女の誘いに乗ってこの部屋に入っていたら俺はどうなっていたのだろうか? 良い想像など出来ず、俺は早足で階段を降りていく。  背後でギィーと扉がゆっくり開く音がした気がした。 《終》
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