花よ、きみのために

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花よ、きみのために

   例年よりも三週間も早く咲いた桜が、その花びらを風に舞わせている。  満開の桜。 「うーわすご!」  スマホを空に構えながら中井が感嘆の声を上げた。 「おい怜見ろよ、すげえ!」 「ああ」 「マジで咲くなんてなー、予報当たるとか思わなかったわ」  シャッターを切る音に怜も空に目を向けた。淡く色づいた花びらが青空の下を舞うさまは、息を呑むほどに綺麗だ。 「…そうだな」  ようやく、ようやくこの日が来た。  逸巳がこの高校を卒業してから一年が経った今日、怜もまた卒業を迎える。 「怜!」  雪のように舞う花吹雪の中、友人の声に怜は振り向いた。  ***  スマホの時計は午前十一時を過ぎたばかりだった。温かい風が開いた窓から吹きこんでくる。 「三沢ー」  声のした方に顔を上げれば、見知った顔がこちらに歩いて来ていた。 「ごめーん、オレこれから抜けるからさ、午後の授業のやつ後で教えて貰ってもいい?」 「いいよ」  ぱちんと手を合わせて自分を拝む友人に、逸巳は苦笑した。 「バイト?」 「そー! 今月やばいって」  荷物を纏めながら眉を下げて情けない顔をした。彼が大変なことを逸巳はよく知っている。この専門学校に入学してから出来た友人で、苦労話は色々聞かされていた。 「教材代稼がないとなー、あと買いたいもんいっぱいあるし」 「そっか」 「そう、だから今月やばい」  膨れ上がった鞄を肩にかけると、友人は逸巳を振り向いた。 「三沢も夜バイトなんだろ?」 「あー…、今日は、ない」  思わず逸巳は言い淀んでしまった。 「ねえの?」 「うん」 「じゃあさ、夜飯食おうよ? オレ二十一時には一回上がれるし! 美味いとこ見つけたって! そんでそんときにさ」 「ごめん重久」  ひとりでどんどん話を進める友人──重久を逸巳は慌てて止めた。 「今夜は予定があるんだ」 「え、そうなの」  うん、と逸巳は頷いた。  今日は大事な予定がある。 「じゃあいつ飯食う? 明日? 明日はねえ、オレ──」 「ごめん土日も予定詰まってるんだ」 「えーマジでえ?」  悪い、と今度は逸巳が手を合わせた。 「来週なら」 「じゃあ来週な」  来週なら、きっと時間は作れるだろう。  じゃあ、と手を振って教室を出て行く重久を逸巳は見送った。いつも騒々しい彼は何件ものバイトを掛け持ちして生活費の足しにしている。実家は自営業を営んでいるが、ここ最近あまり経営が上手くいっていないらしく、重久は家族に頼ることをやめたようだ。自分のやりたいことだから自分で何とかすると宣言したらしい。  逸巳もそうでありたいと思うが、思うようにはいかないものだ。  休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。  三々五々に散っていた生徒たちが教室に戻って来る。  騒がしさの中で、逸巳はまた窓の外を見た。温かい風に何気なく向けた視線の先、校門に寄り添うように植えられた桜の花は満開に咲き誇っていた。  思い出す。  一年前の今日の日は、桜はまだ蕾だった。  怜はどうしてるだろう。  今日は彼の卒業式だ。  そしてこの春で逸巳は建築工学科の二年生になる。  ***  一年前、予定していた通り、逸巳は生まれ育った家を出て専門学校から電車で通える場所にマンションを買った。正確には父親が、だが、その費用は家を売りに出したときの売却金で賄われており、逸巳が学校を卒業するまで父親の名義となり、その後は逸巳に譲渡される予定だ。もともと希薄な親子関係である父親からそんなことをしてもらう理由がなく、最初逸巳は戸惑い断ったが、父親はなんとしてもと譲らなかった。どうやら位知花が何か助言をしたようなのだが真偽のほどは分からない。一歩も引かない父親に負け、学費や生活費は奨学金とバイトで賄うという条件を付け、どうにか折り合いがついた。それでも時々よく分からない金額が口座に振り込まれていることがあり、逸巳は困惑するしかない。家賃を払わなくていいだけで随分と楽をしているのに、これ以上のものは要らなかった。もともとそう物を欲しがる性質ではないのだ。  マンションだって、持て余している。父親の買ったあの家は、とても広すぎるのだ。 「あ」  コンビニのATMの画面を見て、逸巳は小さく声を上げた。今日はバイトの給料が振り込まれる日だが、残高がやけに多かった。小さくため息を吐いて必要な分だけ引き出しコンビニを出た。入り口の横で人を避けながらスマホを取り出し、メッセージを打つ。 『こんにちは。また入ってたんですけど』  送るとすぐに既読になった。 『もらっておけばいいでしょ、今頃親バカになってるのよ。自己満に付き合ってあげて』  自己満、と逸巳は呟いて返事を送った。位知花からは笑ったウサギのスタンプがすぐに送り返され、面白がっているのが目に見えるようだ。  逸巳はもう一度ため息をついた。 「…しょうがないな」  遅くやって来た父性なのだろうか。  自分の父親だがよく分からない人だ。この先一緒に住むことはないと思うが、あったとしても分かり合える気がしない。長年離れて暮らしてきて、無関心だったはずなのに、なぜ今更構いたがるのかその意味もよく分からなかった。  スマホを閉じてポケットに仕舞う。  逸巳は駅に足を向けた。路線が交差するこの駅は本数が多く通学には便利だ。改札を抜けホームに立ち、電車を待つ。五分もせずにやってきた電車に乗り、最寄り駅に向かう。七分ほどで電車は見慣れたホームに滑り込んだ。  人に押されるようにして電車を降り、改札を抜ける。出た途端、桜の花びらが舞っていた。駅の周囲にぐるりと植えられた桜の木は満開だ。その下で制服姿のグループが、笑いながら写真を撮っていた。楽しそうだと、ふわりと胸の奥が熱くなる。  きっと、今頃…  そのまま目の前のスーパーに入り、買い物をした。  いろいろと買い込んだので荷物が多くなってしまった。  早く帰ろう。バス停を通り過ぎ、大通りを進む。脇道に折れ、そのまま行くとマンションが見えて来た。  この三階の角部屋に逸巳はひとりで住んでいる。怜との同居は結局彼の母親の反対で叶わなかった。 「ただいま」  玄関を開け、荷物を下ろしながら逸巳は返事のない部屋に呟いていた。  ***  卒業式が終わり、どうしてもとせがまれて中井に付き合う羽目になった。このまま別れるのは寂しいと校門で本気で泣きつかれては、さすがの怜も頷くしかない。  うんざりした顔で飲み物を飲む横で、中井は肩を落としたままだ。 「ああーなんでおまえオレと別れるんだよお、来月からひとりなんてオレやだよー」 「知らねえよ」 「冷てえ! もっと寂しがれよ!」 「うるせえな…」  何が悲しくてカラオケの個室なんかで泣き言を聞かなければならないのか。中井とは三年間奇跡というか呪いというか、ほとんど腐れ縁で同じクラスだった。怜としては三年も一緒にいたのだから、もういいという気持ちなのだが、中井はそうではないらしい。  歌い手のいない曲だけが爆音で流れていく。 「ちいも離れちゃうしさあ…、オレ遠距離とか無理だって」 「…」  何度聞いてもその呼び名に慣れない。ちいは柚木のことで、名前が知名だからそうなったようだ。ただの友達だったふたりが付き合って二年余りが過ぎ、その仲の良さはいまだに健在だ。 「ああーオレも一緒の大学にすればよかった…」 「あいつと専攻が違うだろ」 「そうだけど…、オレは自分の選択を恨んでる」  失礼します、と言ってドアが開いた。店員が頼んだ食べ物を持って来たのだ。ここはドリンクは飲み放題で自分で取りに行くシステムだが、食べ物は部屋から注文するようになっていた。 「お待たせしましたー」  項垂れている中井の前に、ポテトフライとイカリングの盛り合わせが置かれた。カラオケなのに歌いもせずマイクも握らないで座っている男子高校生ふたりに気まずいのか、置くだけおいてさっさと店員は立ち去ろうとする。会釈したその顔に、ふと、怜は見覚えがある気がした。  一瞬目が合ったが店員は部屋を出て行ってしまった。どこかで会った気がする。でも思い出せない。  どこかで会った?  どこで。 「あーくそ、美味いなこれ、怜も食えよ」 「ああ」 「つーか店の中身変わっても飯は変わらず美味いよなーここ」 「ああ…」  上の空で頷いていた怜は、中井の言葉に顔を向けた。 「中身変わった?」 「え? ああ、そうじゃん?」 「何が?」 「はあ?」  イカリングをタルタルソースにダイブさせながら、中井は眉を顰めた。 「おまえ何言ってんの? ここマリオンじゃん、昔の」 「マ…」  マリオン、と怜は口の中で呟いた。 「え、何気づいてなかったのかよ?」 「だって…」  マリオンなんてもう二年も行っていない。そもそも去年の暮れに潰れたと聞いていた。怜がマリオンに行ったのは、あのときが最後だ。  逸巳を探して──店の前であの男に絡まれていたとき── 「まあ場所ちょっと移動したけど、建物使ってるしさ、店長とか店員とかそのまんまなんだよ」 「…あ」  ──そうだ。  男を追い払った後、店の中に入った。そこにいた店員に男の特徴を言うと、その人はああまたか、と顔を顰めていて… 「そうか…」  さっきの店員はあのときの人だ。  そうだったのか。 「なに?」 「いや、何でもねえ」  懐かしさに頬が緩みそうになる。思えばあれがきっかけで逸巳と距離が縮まったのだ。  初めてあの体に触れることが出来た。 「おまえはさあ、いいよ? 結局住むところはそんなに変わんないし、やりたいことやるんじゃん。今までと変わるとこないっていうか…」  話はいつの間にかぐるぐると廻り、元に戻っている。 「おまえだってそうだろ」  四月から、怜は足立の知り合いの店で修行することが決まっていた。その店は足立の兄弟子の店であり、名の知れたところだ。どうやら怜の知らないところで一年ほど前からそう言う話があったようなのだが、怜は知らなかった。足立にその話を切り出されたのは去年の夏で、進路をどうするのかと尋ねられたのだった。  もちろん怜は進学する気はなかった。このまま足立の店でバイトをし、金を貯めてから菓子の専門学校に行こうと考え、いろいろと探していたのだ。  だから、足立の話は願ってもない事だった。怜はふたつ返事で承諾し、話を進めた。  その中で怜はひとつ条件を付けた。店は変わってもクー・シーのバイトは出来る範囲で継続させて欲しいと。 『まあおまえがやりたいなら。客が減っても困るしな』  そう笑い、足立は好きにしろと言った。  自分を掬い上げてくれた足立に少しでも恩を返していきたい。あの店にいなければ、今の自分はなかったのだ。  思い描いた未来は少しずつ現実になっていく。 「それはさあ、そうなんだけど」 「仕方ねえんじゃねえの。そういうもんだろ」  柚木は将来教師になりたいという目標に向かって突き進んでいる。それを恋愛ごとで妨げることは出来ない。中井もそれはよく分かっているから柚木には泣き言は言ってないようだった。そういう中井だって、難関の国立大に見事合格した。  進むべき道にみんな向かっているのだ。  口を尖らせて、中井はカラオケの端末を手に取った。ずっと適当にオケを流していただけでただのBGMと化している。画面を見ながら、ぽちぽちと操作する中井を怜は頬杖をついて見ていた。 「でも離れるのは寂しいじゃん」 「……」  その気持ちは怜には痛いほど分かるつもりだ。  傍にいないということは、会えない時間が増えることだ。  会えなくて、顔を見れない。寂しくて、声を少しでも聴きたくなる。 「おまえ家出るんだろ」 「あ? ああ、まあな」 「よかったよな怜」  中井がしみじみとした声で怜を見た。 「これからはさ、三沢先輩と一緒じゃん」  爆音で曲が流れだす。イントロは聴いたことのある曲だ。題名はなんだったのか── 「あーもー! オレもちいと一緒に暮らしたーーーーい!」  ばっと立ち上がった中井がマイクを掴んで歌い出した。ここならいくら叫んでも何も言われない。やけくそなのか中井は滅茶苦茶に歌う。  せっかく来たのだから、怜も何か歌うかと端末を手に取った。  中井の歌がサビに入ろうかというとき、退出の時間を告げる電話が鳴り響いた。    逸巳と一緒に暮らしたいと願った一年前、結局その願いは叶わなかった。  あの件以来怜に関心を全く向けなくなったはずの母親は、ここぞとばかりに未成年だからと反対し、怜を苛立たせた。離れたい、解放されたいと強く願うほど上手くいかない。今更のように押し付けられる母性にうんざりし、言い合うほどに怜は疲弊した。  その状態を心配した逸巳から、怜の卒業を待つと言われた。 『一年なんてすぐだよ』  すぐに会える距離にいる。  だからもう説得することをやめよう。  そう言われ、初めて逸巳と喧嘩をした。怜は一方的に逸巳に当たり散らした。母親との確執でいい加減限界だったからと言い訳は出来ない。でもそのときの絶望は、言葉では言い表せない。  暗く、底の見えない巨大な穴に足元から落ちていく感じがした。  どうしてそんなことを言うのか。 『もういい』  そう言って逸巳のマンションを飛び出した。その週末は一緒にいる予定だった。怜、と呼び止める声に振り返りもしなかった。  もう深夜に近い夜だった。闇に白く浮かぶ満開の桜の下をあてもなく歩いた。暖かな夜風は春の匂いがした。歩き続けているうちに煮えたぎっていた頭の芯がだんだんと冷えてくる。  どれだけの時間が過ぎたのか、歩き続けて乱れた呼吸がゆっくりと収まっていった。  すうっと胸の奥が冴えた。 『…俺』  俺は、一体何をしているのだろう。  出てきてしまった。逸巳を置いて。  子供みたいに癇癪を起して──声を上げて、…  こんなはずじゃなかった。  違う。  違う。  今日は、やっと、やっと会えた時間だったのに。 『怜』  なのに、逸巳にあんな顔をさせた。  気がつけば怜は来た道を引き返していた。だんだんと早足になり、駆け足になり、走り出して、逸巳の住むマンションに向かった。もらったばかりの鍵でマンションの入り口を開け、三階まで駆け上がる。エレベーターを待つ時間も惜しかった。廊下を足早に歩き、部屋のドアに鍵を差し込んだ。  もう、眠ってしまったかもしれない。  鍵はかかっていなかった。 『──』  逸巳、と怜は勢いよくドアを開けた。 『…おかえり』  玄関に逸巳は座っていた。いつからそこにいたのか、抱えた膝から顔を上げる。その目の縁は、赤く腫れているように見えた。  手を伸ばした怜の肩から、花びらが落ちた。  ***  道路から、三階の角部屋を怜は見上げた。  夕暮れの淡い空。白い壁、ぽつぽつとまばらに灯る明かり。  もう何度もこうしてここを訪れた。逸巳がいるときもいないときも、怜はすでにここで多くの時間を過ごしている。  単身者向けとはいえ廊下付きの2LDKの部屋。学生が住むには広すぎるここは、逸巳の父親が逸巳にと買ったものだ。怜が訪れたあの家はすでに人の手に渡ってしまっている。  彼の帰る場所はここしかない。  そして怜も、もう家には戻らない。  今朝家を出るとき、母親は珍しく家にいた。長い話し合いの末に、結局お互い平行線のまま、今日の日を迎えた。最後は好きにすれば、とその一言だけだった。 『じゃあ』  別れを告げた。  背中に視線を感じながら家を出た。  見送られるのはいつぶりだろう? 一年以上前、人を殴って手に怪我をしたとき、たまたまいた母親にその腫れた手を見咎められたことがあった。学校に行こうとして呼び止められ、手当をされた。それ以来だ。  たった一言で済んだ別れの言葉。  それだけでよかったのに。 「怜?」  見ていた手から、はっと怜は顔を上げた。  振り向くと、後ろに逸巳が立っていた。  いつの間にいたのか、不思議そうにこちらを見ていた。 「手、どうかした?」  いや、と怜は首を振った。 「なんでもない」 「そう? おかえり」 「…ただいま」 「卒業おめでとう」  ふわりと笑う逸巳に、怜の胸がいっぱいになる。じわりと滲むものを誤魔化すように、怜は髪を掻き上げた。  その手には大きな袋を持っていた。 「どこ行ってたの?」 「そこのスーパー、足りないのあったから散歩がてら行ってきたんだ」  そう言って逸巳は怜の手を見た。 「どうしたんだ? それ」 「ああ…途中で、綺麗だったから」  怜は花を持っていた。帰り道で花屋の前を通ったとき、小さな花束がいくつも飾られていた。何気なく見ていただけなのに、目が離せなくなった。女性客で混みあう店内に入り、初めて花を買った。  緑と白と淡い黄色の小さな花束。  逸巳が顔を寄せ、目を細めた。 「綺麗だ。駅のあそこだろ? かわいいな」  怜を促し、逸巳は歩き出した。マンションの入り口を抜け、小さなエレベーターに乗り込む。三階へはすぐだ。怜は逸巳に花束を渡し、袋を持った。 「ありがとう」  エレベーターの扉が開き、降りると、肩越しに逸巳が振り返った。 「今日はごめん、行けなくて」  怜は首を振った。本当は今日、卒業式の後に待ち合わせるはずだった。でも逸巳の都合が悪くなったのだ。 「講義だったんだろ」 「うん、でも結構早く終わったから。見たかったな、怜の──」  ドアに鍵を差し込んだ逸巳の手に、背後から覆いかぶさるようにして怜は自分の手を重ねた。ドアに映る影がひとつになる。そのまま逸巳の手ごと鍵を回し、ドアを開け、逸巳を抱き込むようにして中に入った。 「──っ、ん、…!」  後ろ手にドアを閉めるよりも早く、玄関の暗がりに逸巳のくぐもった声が上がる。全身がまるで心臓になったようだ。怜の鼓動が跳ね上がっていく。 「れ…」 「逸巳──」 「ま…っ」 「待てない」  荷物を手放し、廊下の壁に逸巳を押し付けた。両腕で囲い込み、深く口付ける。 「ぁ…、あ、…んぅ…っ」  震えながら縮こまる舌を吸い出し、執拗に舌先で愛撫する。苦しいのか逃げようとするから、怜は両手で逸巳の頬を包み、顔を上げさせると角度を変えてさらに深く舌を差し込んだ。 「…っんん、っ、ぅ…っ」  もっと、もっと。  深く。  怜の背中に逸巳が爪を立てた。手に持ったままの花束が怜の頬を掠める。怜は花束ごと逸巳の腕を捕らえ、指を絡めて壁に押しつけた。 「…きだ、…いつみ、好きだ」  もみくちゃにされ、逸巳の首筋に花びらが落ちる。香る花の匂いに、くらくらと眩暈が止まらない。  もう駄目だ。 「ひ、いあっ…、あ…っ!」  細い首に噛みつくと、逸巳は怜の腕の中で甘い声を上げた。  何度も何度もこの体を貪るようにして抱いた。  それでもまだ満たされない欲が、あとからあとから湧いて出てくる。  どうしてこんなにも欲しいのだろう。  なぜこんなに好きなのか。 「あ、あ、あ、っ、や、…!」  ベッドに巻き散った花の上で、白い体が身悶える。暮れなずむ窓の外、藍色の闇が、カーテンの隙間からこちらを見ている。 「逸巳…?」  何が嫌なの、と怜は囁きながらその耳を舐めしゃぶった。 「あっ、あっ」 「ん…?」  嫌々、と逸巳が首を打ち振るった。 「あ、も、…っもぉ…、っも…」 「もう? なに?」 「っれい、ぃ、っ…」  意地悪く執拗に愛撫する。蕩け切った逸巳の声が細く高く上がるたびに、怜の欲は膨らんでいく。身体の下に散らばる花束。濃厚な花の香りが部屋中に満ちている。  欲しい。  もっと、もっと、欲しがって。 「ん?」 「ぃ、きた、…っ、ぃい」  奥の突き当りをじわりとペニスの先で押し込むと、腕の中で逸巳の体がびくびくと跳ねた。瞳いっぱいに涙が浮かび、赤く染まった頬に流れて落ちる。 「いきたいの?」 「ん…、ん…っ」  こくこくと頷く逸巳の涙を、怜は舐め取った。長く挿入したまま、感じるところを避け緩慢に動かすだけの怜の腰を、逸巳の細い脚が挟みこんだ。震えながら擦り付けられるそれに、怜の胸が締め付けられる。 「して、ぇ…、怜、も、…うごい、て…」  ああ。 「逸巳」  細い脚を掴み折り畳むようにすると怜は一気に抜けるぎりぎりまで腰を引き、またひと息に突き入れた。腫れあがったしこりを抉り、行き止まりにぶち当たった瞬間、逸巳は体を弓なりに仰け反らせ、白濁を漏らした。 「あー…!」 「いつみ…っ」 「や、あ、っあ、あ、あ、やああああああ…!」  絶頂に震える逸巳の体を掻き抱き、奥を攻め続ける。ぎゅっと収縮する逸巳の最奥に怜は唸りながら熱をぶちまけた。奥歯を食いしばり、合わさった歯の隙間から息を吐き出し、呼吸を整える。まだ、終わりたくない。  今日は──やっと。  やっと、…  体を起こし、ゆっくりと腰を引くと、逸巳の指が怜の肩を這った。 「…め」 「え?」 「まだ…だめ、いかな…」  いかないで、と逸巳の声が震える。 「さみし、…から」 「──逸巳」 「やっと、いる…」  怜を見上げる逸巳の目は、あのときのように赤かった。真夜中に一人残して出ていった怜を、暗い玄関で待っていた。 「行かないから」  背中を掬い上げて抱き締めると、怜の肩に温かいものが落ちた。 「どこにも行かねえ、ずっと、ここにいるから」 「…れ、……っ、あ、は…」 「逸巳も、どこにも行かないで」 「ぁ──あ…っ」  向かい合わせで座らせた体を、再び勃ち上がった肉棒の上に落とした。跳ねあがる腰を掴み、逃げられないように力を籠める。 「あ、あ、ア、──」  深すぎる奥まで突き刺すと、逸巳は大きく仰け反った。その身体をきつく抱き止め、くぷくぷと舐めしゃぶる最奥を怜は何度も行き来する。 「いつ、み…逸巳、いつみっ、…好きだ、もう、もう」  零れていく。  胸の内側から溢れていく。  好きだ。  好きだ、好きだ。 「──」 「あ、ひぁあ、あっ、あっ!」  弄られ過ぎて赤く腫れあがった乳首が怜を誘っていた。大きく口を開け、獣のように食らいつく。 「いあ…っ、は、あ、っあああ…ーっ」  合わさった肌の間が生温かく濡れた。絶頂の上まで押し上げられた逸巳の体を引き寄せ、怜もその中に熱を放った。  あ、あ、と逸巳が体を震わせた。 「行かないで、俺を、…俺だけを見てて」  汗に濡れた項に貼り付いた花びら。匂いを嗅ぐように顔を埋め、怜は呟いた。これから先もずっと、帰る場所はここだ。何があっても、逸巳が嫌だと喚いても、きっと離れられない。 「…き」  口づけながら、くったりと力の抜けた体をシーツに下ろした。  逸巳の手が怜の髪に伸び、指先で何かを摘まんだ。かすかに微笑みながら怜の目の前にかざしたそれは、花びらだった。  落ちた陽の暗闇に、白い花弁が浮かぶ。  怜も苦笑した。 「また、買ってくるから」  そう言うと、逸巳は小さく頷いて瞼を閉じた。その瞼に唇を落とし、怜もまた目を閉じる。  何度でも何度でも、また贈る。  きみのために。  ただいまを言うその度に。
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