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それは見事な桜の並木だった。
街をつらぬく大きな川の堤防沿いにずらりと並んだ桜の木々は、夜になってもぼうっと霞む光をまとっているかのような艶やかさだ。
「ここにするか……」
渉は、桜並木に沿ってぽつぽつと設えられたベンチの一つに腰掛けた。
すぐ近くのコンビニで買ってきたカップ酒のフタを開けると、ひとくち口に含んでため息をつく。春の宵の気だるさにまかせてちびちび飲むうちに、あっという間に買ってきた2本が空になった。
「はあ……こんなとこで飲んでたって仕方ないんだけどなあ……」
「――あの」
ビンを手にしたまま、ぼんやりと視線を泳がせていた渉は、突然の声にびくりと飛び上がった。だがまわりには誰もいない。
さっきまで川原で騒いでいた酔客はもう引き上げていったし、そもそもこの時刻だ、並木道を通る人もほとんどいない。
「あの」
渉は慌てて立ち上がると、再びまわりを見回した。
「お、おい誰だよ。ヤバい、俺もう酔ってんのか? たかだかカップ酒1~2本飲んだぐらいで……」
「いえあの、上です。私、あなたの上から話しかけてます」
「上?」
まさか誰かが木に登っているのかと思ったが、目を凝らしてみても、映るのは見事に咲き誇る桜の花だけだ。
「誰もいないじゃないか。ただ桜が咲いてるだけで……」
「それです。その咲いてる桜です、私」
渉はあんぐりと口を開けた。
「マジでヤバい……俺、そこまで酒弱くないはずだけど……」
「驚かせてすみません。実はちょっとお願いがありまして」
「お願い?」
自称・桜は、恥ずかしそうに言った。
「ええ。あの、もしご迷惑でなければ、あなたが今お飲みのお酒を、ほんの少し頂戴できないでしょうか」
「酒を!? 桜が酒、飲むの!? そんな話、聞いたことないけど」
渉の大声に、桜は慌てたように枝を鳴らした。
「いえ、皆さん、お花見に来ると決まってお酒飲みますでしょう? 毎年それが大変に楽しそうなものだから、それじゃ私も……なんて思ったりしまして」
渉はこっそり頬をつねってみた。普通に痛い。どうやら夢ではなさそうだ。
仕方ない、まさか桜が人を取って食うなんてこともないだろうと、渉は腹を括った。
「なるほどね。じゃあ少し飲んでみるかい? 何だか化かされてるみたいだけど、まあ酒と桜に酔ったせいってことにして」
渉は手にしたビンを傾けてみたが、わずかに数滴のしずくが滴り落ちただけだった。
「あれ、もう残ってないや。ごめん、すぐ買ってくる……あ、でもあのコンビニ、これが最後の2本だったんだよなあ……」
「あ、いえいえお気遣いなく。ちょっと思いつきで言ってみただけなんで」
桜の木は恐縮するように、かすかに枝を振った。丸っこいピンクの花びらがひらひらと舞い落ちる。
「そうだ! ねえ、ちょっと待ってて。すぐ戻ってくるから」
そう叫ぶや、渉はベンチから立ち上がると片手にビンを握りしめたまま、さっきのコンビニに向かって勢いよく駆け出した。
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