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第2章. 過去
父親が酒に酔って暴力を振るうのはいつものことだった。
その晩も夜遅くにしとどに酔って帰宅した父は、寝ているリーシャの髪をつかんで寝台から引きずり下ろした。
なすすべもないまま背中から床に落ち、したたかにうちつけた。
リーシャを見下ろす父の目は落ち窪んでいて、薄暗く深淵のような穴があるだけだった。
馬乗りになって頬をはられた。
何度も何度も。容赦のない痛みが、しばらくの間間断なく続く。
永遠に続かないことは知っている。リーシャの命があるかぎりは、ということだけれど。
やがて殴り疲れたのか、父は殴るのをやめた。酒臭い息、すえたような匂い、垂れ流す涎、そのすべてがリーシャの顔にかかった。
それでもリーシャは自分は人形なのだから反応してはいけない、と強く自分に言い聞かせる。
気がつくといつの間にか父は床に大の字になって眠っていた。
リーシャが顔を洗っていると。背後に気配がある。
絶望の第二幕だ。
「………寝たの?」
母親だった。
リーシャは振り向かないまま、寝た、と答え顔をぬぐう。
母はほっとしたように息を吐いた。
「ふがいない母親でごめんね」
「お母さんがぶたれなくてよかった」
父が殴るのはお酒を飲み過ぎたときだけ。
殴られるのはいつもリーシャだ。
その間、人形になっているのは母も同じことだった。
そしてすべてが過ぎたあとでこうしてリーシャの前で母親に戻る。
部屋には父がいる。戻る気にはなれなかった。この狭い家に余分の部屋なんてない。
一緒に寝てもいいかと尋ねようとして顔を向けると、リーシャの腫れ上がった顔を見た母はそこから目をそらした。
ずん、と重たいなにかが心を押しつぶす。
期待するだけ無駄だと言うことはとっくの昔にわかっていたのに。
「もう寝よう。明日も朝は早いんだから」
今夜は毛布にくるまって台所の隅で寝ればいいと思っていた。
その言葉を聞くまでは。
「リーシャがいてくれてよかった」
あなたがいてくれるから耐えられる、と涙声で言われたときに、心の中でなにかが音を立ててぷつんとちぎれた。
リーシャはその夜、地獄のような家から逃げ出した。
真っ暗な夜の道をただひたすらに歩く。
月のない夜。どこからかホロウ、ホロと夜の鳥が鳴いていてカサリ、コソと生き物の気配がある。
真の静寂なんて生きている限り訪れない。
(夜が怖いのは暗いからじゃない)
暗闇のなか荒い息づかいとお酒の匂いがして、そこから始まるあの時間、家のどこかで息を潜めて、母親がほっとしている姿を想像するのがつらいのだ。
目的地がどこかなんてこと考えもしなかった。
ただ、逃げるだけ。
恐れているものがあるとすれば、自分に追いすがってくるかも知れない母親の手だった。
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