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第3話 もう一度彼女に会いたくなった!
月末の水曜日が近くなった。あれから山本さんの悲しげな歌が耳について離れなかった。弟夫婦に水曜日に預かれるかを確認した。弟夫婦は誠を預かるのを楽しみにしてくれていた。誠の体調も良さそうで水曜日には行けそうだ。
車で宿に向かう。この間のドライブも好きだ。月毎に山と海の景色が変わっていく。去年とは移り変わりが少し違っている。温暖化のせいかもしれない。道はすいていた。
宿には6時少し前に到着した。辺りは薄暗くなっている。駐車場には車が止まっていないので彼女はまだ来ていない。今日は来られるのかな? 子供が突然発熱することもあり得る。前回も僕より遅く到着していた。
すぐにお風呂に入れると言うのでそうした。上がると食事ができていてビールが飲める。食事は2人分がそれぞれのテーブルに用意されていた。彼女は来るのだろうか? でも僕の食事中に彼女は到着しなかった。少し遅れるとの連絡が入っているみたいだった。
部屋に戻って一休みしてから、ラウンジに向かった。食堂で彼女が食事をしていた。ママさんが給仕して何か話していた。僕は軽く会釈してラウンジに入った。
「マスター、ジョニ黒の水割りを作って下さい」
「山本さんから少し到着が遅れると連絡が入っていました」
「ええ、今着いたみたいで食堂で会いました。マスター一曲歌って下さい。『八十八夜』どうですか?」
「身につまされる曲みたいだね」
「ええ、思い出したくないけど、忘れられない思い出があります」
「どうしても引きづってしまっている?」
「ええ、あの時思い切って進んでいればと後悔しています。そうしていれば今のようなことも起らなかったと思って」
「中田さんはこれまでのことをすっかり忘れてやり直すしかないとは思うけどね」
「そうは思っているのですが」
マスターは歌ってくれた。水割りを飲みながら聞いている。何度聞いても身につまされる曲だ。
「マスター、『香水』をお願いします」
「割と新しい曲だね」
「最近は歌いたい曲があっても歌えないことが多いんです。これは割と歌いやすいから」
マスターが聞いてくれている。歌い終わると拍手をくれた。いつもなら感想を言ってくれるのだけれども今日は何も言わない。そこへ山本さんが入ってきた。目が合ってお互いに会釈する。
「遅れると連絡があったけど何かトラブルでも?」
オーナーが聞いている。
「途中、事故渋滞に合って遅れました。自損事故みたいで、思い出して気が沈んでしまって、道の駅で少し休んでからきました」
「一曲歌ったら」
「じゃあ、『夜に駆ける』を」
「いいね」
マスターはそう言って促した。オーナーは客扱いに慣れている。促されて彼女は歌った。テンポが速い曲だがうまく歌っている。テンポが速い曲はそれに集中しなければならないので雑念が払える。歌い終えると彼女はしばらく無言だ。雑念が払われた?
「マスター、私にもウイスキーの水割りを作って下さい」
喉を潤すように飲んでいる。僕は話しかけたかったがかけられなかった。少し憔悴しているように見えた。そこに後片付けを終えたママさんが入ってきた。
「山本さん、ゆっくり寛いで」
「ありがとう。ママさんの歌聞かせてください。『雨の物語』をお願いします」
「私もこの歌好きだから」
「僕も好きです。僕は雨が降っているとどういうわけかすごく落ち着きますね」
ママさんはゆっくり歌ってくれた。二人でそれを聞きながら水割りを飲んでいる。歌が終わった。オーナー夫妻はすこし離れて二人で何か話している。僕たちが話しやすくしてくれている?
「山本さん、聞いてもいいですか? 交通事故に何かいやな思い出でもあるのですか?」
「夫が交通事故で亡くなりました。1年前のことです。高速道路での自損事故です。幸いほかの人には迷惑をかけずに済んだのですが」
「じゃあ、突然のことで驚かれたでしょう?」
「主人の実家から私の実家へ連絡があって、すぐに病院に駆けつけましたが、ほぼ即死だったみたいです。死に顔は穏やかでした。今も目に焼き付いています」
「それはショックで忘れられませんね」
「私が原因なんです。彼の不在中に娘と家を出て実家へ帰ったのです。それで私たちを連れ戻すために車で実家へ来る途中でした」
「ご主人は急いでいたのですね」
「でも家を出たのは主人が原因でした。仕事がうまくいかないと私に当たるようになって。美幸が生まれたころから私に暴力を振るうようになりました」
「ご主人の性格はよくご存じだったのではないでしょうか?」
「以前から怒りっぽいたちでしたが、私はそれを正義感が強いからだと思っていました。それに私に当たるようなことは付き合っている間もありませんでした。でも心配性で神経質なところはありました。何でもないことにこだわるところがあって」
「僕も心配性で神経質なところはありましたが、年を重ねるに従ってものごとはなるようにしかならないことが分かってきて気にしなくなりましたけど」
「私は主人とは付き合って2年位で結婚しましたが、付き合って1年ほどで男女の関係になりました。私はそういう関係になったのは彼が初めてでしたが、彼は私が初めてではないと思ったみたいです。あとから分かったのですが、彼はそれを引きづっていました」
「初めてかどうかは本人しか知らないことだけど、最初から疑っているとそう思ってしまうかもしれないですね。ご主人は疑い深い方だったのですか?」
「確かに疑い深いところがあって、そうだと思うと自分を追い込んで思い込んでしまうようなところがありました。少し病的ではと思うこともありました。それで主人は美幸が自分の子供ではないと疑っていたようです。間違いなく主人の子供ですが」
「あなたが不倫をしていると疑っていた?」
「あるとき、美幸は俺の本当の子供か、と言ったことがありました」
「今はDNA鑑定もあるからしてみれば分かるとは言わなかったのですか?」
「言いましたが、主人は自分の子でないと分かるのが怖いと思ったのか、しようとは言いませんでした」
「きっとあなたのことを信じたいけど信じられないと悩んでいたのだと思いますよ」
「そんな折に高校の同級生から同窓会をしようとの誘いがありました。高校では仲の良い男女のグループがありました。そういう時でしたので、私は気分転換に出席したいと思って、主人にそのことを相談しました。そうしたら主人が同窓生のことを疑って切れてしまって、私に暴力を振るって美幸にも危害を加えそうだったので、次の日に娘と家を出ました」
「それで事故を起こしてしまった。お話を聞く限り、あなたには落ち度はなく、そんなにご自分を責めることはないと思いますが」
「でも、私が家出したことが原因になったのは間違いありません。夫の両親からも責められました。それを後悔しているのです」
「お子さんとご自分を守るためでしょう。それ以外に方法はなかったのではないでしょうか? お子さんに危害が加えられて取り返しのつかないことになっていたかもしれません」
「おっしゃるとおりです。二人の身の危険を感じましたから、できるだけ早く、彼から離れないといけない、冷却期間が必要だと思いました」
「だから、仕方のないことだったんです。自損事故ということですが、事故の場所は高速道路のどのあたりですか?」
「高速道の出口のガードレールにぶつかったとのことです」
「その原因は分かったのですか?」
「はっきりとは分かりませんでした」
「例えば、居眠りしていたとか、出口を間違えたので急ハンドルを切ったとかではないのですか?」
「ブレーキの跡はなかったと言われました」
「それなら居眠りの可能性がありますね」
「はい、居眠りの可能性が高いと言われました」
「警察からは自殺の可能性には言及されませんでしたか?」
「ええ、自殺の可能性も完全に否定はできませんとは言われました」
「ご主人の性格からすると自殺の可能性もありますね」
「そうだとしたら、そこへ追い込んだのは私です」
「考えすぎだと思いますよ。もしそうだとしてもそばにいない限り止めようがなかったですから。ご自分を責めるのはもうやめた方が良いですよ。お子さんにも悪い影響がありますよ。お子さんが大きくなって、母親のせいで父親が亡くなったと思ったらやるせないですよ。それよりお子さんを守るために家出したと話す方がよっぽど良いとは思いませんか?」
「そうですね。そう思うと気持ちが少し楽になります。話を聞いていただいてありがとうございました」
「いえ、それならよかったです」
「少し疲れましたので、ここらで引き揚げさせていただきます」
「そのうち、僕の話も聞いてください」
「はい」
山本さんは部屋に帰っていった。ママさんがお風呂の案内をしていた。しばらくしてオーナー夫妻がそばに近づいてきた。
「お話聞いてあげたみたいですね」
「ええ、気持ちが少し楽になったとは言っていましたが」
「私たちも聞いてあげましたが、このとおり年が離れているから、親に話すようだから。中田さんは同世代だし、同じような境遇にあるから、二人でお話したら良いと思いました。そうですか、良かったです」
「僕も引き揚げます。人の話を聞くのって案外疲れるものですね」
「自分のことのように受け止めるから、中田さんのような方は特にそうです。お話した山本さんも癒されたと思いますよ。だから好意を持っている人しか身の上話は聞かない方がよいですよ」
「そうですね、じゃあ、おやすみなさい」
確かに彼女の話は身につまされた。だから疲れたんだ。
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