138ゾンビタワー

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「なにあれ……」  私は窓の外を見下ろして戦慄した。  大きな川と、そこにかかる赤い橋。県境のその橋はいつも混んでいて、平日の昼間は渋滞の列が並んでいるはずだった。しかしいまは車が一台もなく、不気味な黒い塊が橋を埋め尽くし、巨大な虫のように蠢いているのだった。  黒い塊は、ゆっくりとこちらに近づいてきた。それは塊ではなく、人の群れだった。大群が波のように押し寄せてくる。デモか何かだろうか。こんな場所で? いや、どこか様子がおかしい。明らかに普通の人とは違うように見える。  近くにあった望遠鏡を覗き、ピントを調整する。拡大するにつれて像がはっきりと見えるようになる。そこには信じられないものが映っていた。  彼らは泥のように黒ずんでいた。使い古した雑巾のような破れた服を着ており、皮膚は腐っていた。陥没した目は白く濁り、体のいたるところに穴が開いていた。 それは、もう生きてはいない、死人の群れだった。  それでも彼らは歩いていた。もうすぐ、先頭が橋を渡りきろうとしていた。何か、得体の知れないものが、ひたひたと近寄ってくる恐怖。足が震え、望遠鏡を持つ手に汗が滲む。  もうすぐここが死で埋め尽くされる。そんな予感が過ぎるのに、一歩も動けない。  望遠鏡のレンズから目が離せなかった。後ろから声をかけられるまで、私は一心に望遠鏡を覗き続けていた。  三月。受験が終わり、中学を卒業した私たちは、いつもより少しだけ長い春休みを満喫していた。 「天気いいしさ、街を見渡せる場所でスケッチしようよ」  そう提案したのは、美術部で天才と讃えられていた里奈だった。  里奈はとにかく絵を描くのが大好きで、小学校の頃から数えきれないくらい、大きな賞をいくつも獲っていた。私がこれまでに獲った賞といえば、夏休みのポスターの教育委員会賞と、写生大会の金賞だけ。それでも充分嬉しかったけれど、里奈と比べると歴然の差があった。  美術部の三年女子は、私、麻衣と里奈、そして沙智の三人だけだった。  沙智はそんな里奈の才能をすごいすごいと絶賛し、里奈は将来絶対有名な画家になる、といつも言っていた。近くに飛び抜けた才能を持った人がいると、自分の平凡さがわかってしまう。絵は好きだけど、里奈のようにずっと描き続けるという固い意志がないのは自分がいちばんよく知っていた。  それでも私たち三人は三年間ずっと友達で、狭い美術室で毎日一緒に絵を描き続けた仲間だった。高校はみんなバラバラで、これからはそんなことはできなくなってしまうけれど、私たちが友達で絵が好きなのはずっと変わらない。そう思っていた。  街を見渡せる場所といえば、市のシンボルであるこのツインタワーだ。真っ白な柱が孤を描き、地上138メートルの上空で重なる。そのどっしりと構えた姿はいつ見ても美しかった。タワーは夜になるとピンクやオレンジや緑の明かりを灯し、その色で明日の天気を知らせる。夜、タワーがピンク色だと明日は晴れだな、緑だと明日は雨だな、という風に、無意識にタワーを見るのが習慣になっているほど、タワーはシンボルとしてではなく、私たちの生活の一部でもあった。  エレベーターを上った最上階には360度見渡せるスカイパノラマがあり、時計のように十二個望遠鏡が設置されている。晴れていると、ずっと遠くまで街を見渡すことができるのだ。  目の前に広がる街を見渡しながら里奈が 「もしここが世界の中心だったらさ、いま上から街を見下ろしてる私たちは神様みたいだね」  と言った。  天才の考えることはいつも規模が大きい。 「神様ならもう高校行かなくていいな」  と沙智が笑って言う。  前にも美術室で絵を描いているときに突然 「この街がゾンビで埋め尽くされたらどうしよう」  といきなり言い出して本気で心配していたことがあった。 「そんなわけないじゃん」  私と沙智はそう言って、笑いながら絵を描いていたっけ。  三人でバラバラになって、違う角度の街を描くことになった。  まだ世間は春休みに入っていないので、平日の昼間のタワーは空いていた。どこか悲壮感が漂うおじさんが椅子に座ってぼんやりしており、掃除のおばさんがその前をちょっとごめんねー、と言いながら窓を拭いていく。  里奈は南側の街を、沙智は西の向こうに見える山を描くことにしたようだ。  北に広がる川が銀色にきらめいてきれいだったので、私は川を描くことにした。銀色の川と緑色の土手、そして赤い橋。構図を決めて、スケッチブックに鉛筆を走らせる。 「トイレ行ってくるねー」  と里奈が声をかけてきて、集中していた私は曖昧に返事をした。  その十分後、異変に気づいて手を止めた。  橋の向こうから押し寄せてくる不気味な黒い塊。人の群れ。  唖然としながら、望遠鏡のレンズ越しにその光景を見つめ続けていたとき、後ろから呼ばれた。 「ねえ、麻衣……なんか、やばいものが見えるんだけと……」  はっと我に返って、望遠鏡から顔をあげた。 「わたしも……」  川の向こうからだけでなく、山のほうからも、あの不気味な大群がやってきたのだと知って、ぞっとした。 「やばいって。帰ろうよ。里奈は?」 「さっきトイレに行くって言って、まだ戻ってきてない……」  トイレは下の階にしかない。私たちは顔を見合わせた。 「探しに行こう」  駆け足で階段を下りて下の階に行く。下の階には食堂と休憩スペースがあるが、平日は閉まっていて静かで薄暗かった。  トイレに里奈はいなかった。もう上に戻っているのかもしれないと思い、ふたたび最上階に行くが、やはり里奈の姿はなかった。  三歳くらいの小さな女の子と、母親らしき女の人が青ざめた顔で立っていた。おじさんが腰を抜かして床に座り込み、掃除のおばさんは窓を拭きながら固まったように窓の外を見下ろしていた。 「里奈……どこ行っちゃったのお……」  沙智が泣きそうな声でつぶやく。 「もう終わりだ!」  おじさんが突然立ち上がって叫んだ。 「会社はクビになって家族は出ていって、もう俺の人生もこの世界も終わったんだ! 飛び降りてやる!」  おじさんが窓に駆け寄り鍵をガチャガチャとやりだした。鍵が固定されていて開かないのがわかると、今度は力強く叩き始めた。 「おじさん落ち着いて! 飛び降りちゃダメ!」  私と沙智が慌てて止める。  女の子がわああと泣きはじめた。  地獄のようだった。でも下はもっと地獄だ。360度見渡せるパノラマは、もはや全方位からやってくるゾンビで埋め尽くされていた。 「とりあえず下に降りよう!」  沙智がエレベーターのボタンを連打する。ボタンは光らない。エレベーターは止まっていた。  いつの間にか電気が消えていて、空調も止まっていた。それでも全面の窓から光が差し込み、最上階は明るかった。 「ねえ、携帯の電波もないよ。どうしよう……」  沙智が半狂乱になって携帯をいじっている。  私ははっと気づいてラインを見た。里奈からメッセージがきていた。 『なんか描けないや。ごめん、帰るね』  私は、これ、と沙智に携帯の画面を見せた。 「はは……なんだよ帰るって……自分から誘ったくせに勝手すぎるって。私たちをこんなとこに置いてきぼりにしてさあ……」  沙智は泣きながら笑った。  この街がゾンビに埋め尽くされたらどうしよう。  里奈の馬鹿みたいな妄想がまさか現実になるなんて、考えたこともなかった。そんなの考えたって無駄だと思っていた。だってあり得ないから。いまはもうすぐ向こうにあるはずの家や学校がどうなっているかも想像できない。そんな想像力のなさが絵にも出ちゃってたんだね、と場違いなことを考えていた。 「でもさ、ここにいれば安全だよね? 食堂もあるし……食料はないけど……」 「いや、安全じゃないかも……」  入口は開いているから、誰でも簡単に入ることができてしまう。エレベーターが止まっているいま、階段を下りて下まで行くのは危険すぎる。  予想は当たった。  ゾンビたちはなぜかタワーの周りに集まってきていた。タワーを囲んで集会でもはじめるつもりだろうか……。  ゾンビの群れが入口の自動ドアから中に入っていく。やがて階段を上ってここまで来てしまうだろう。  おじさんは意味不明な言葉を叫び続けていた。女の子は泣き、母親はおろおろとし、掃除のおばさんはこんな状況なのに窓拭きを再開していた。よく見ると、足が悪いのか、引きずりながら少しずつ横に動いている。  私がなんとかしなければと思った。とりあえずここを塞ごうと、階下へ続く階段へと走った。  下の暗闇から、おおおお、とうめくような声が響いて聞こえてくる。その声を遮断するように、扉を閉めて鍵をかけた。ガラスは分厚いからちょっとやそっとの力じゃ割れないだろう。  そのとき、透明の扉に、びたっと顔が張りついた。  ゆっくりとした動きなのに、もうこんなところまで。  びたん、びたん、と灰色の顔が張りつく。私は呆然とした。その中に、里奈の顔があったから。 「里奈……」  里奈は白く濁った目から涙を流していた。 「馬鹿だなあ里奈。勝手に帰ったりするから」  いつの間にか横に立っていた沙智が半笑いで言った。 「天才少女もこうなったらみんな同じだね」  その声の冷たさにぞっとした。私は何も言わなかった。  分厚いガラスにそっと手を当てて、里奈の顔をなぞる。そこにいるのは、私の知っている里奈ではなかった。里奈の形をしたべつの何かだった。  さよなら、里奈。  ゾンビたちは明らかにタワーを目指して集まっていた。  階段から下はゾンビの群れですし詰め状態になっているだろう。さらにゾンビたちは、外の柱を上ってきていた。曲線を描く柱は、遠目から見るとわからないけれど、じつは白い梯子がかかっていて、上れるようになっているのだった。たぶんメンテナンスのためだろうけれど、いまはそんなものがかかっていることが恨めしかった。 「飛びましょう」  ずっと沈黙を貫いていた掃除のおばさんが、突然おかしなことを言った。おばさんまで飛び降りようというのだろうか。 「このタワー、じつを言うと、飛ぶんです。と、タワーの設計者が言っていました」 「タワーが飛ぶ?」  私と沙智が同時に声をあげた。 「ただ立っているだけではインパクトに欠けるから、気球のように空を飛ぶ設定にしてみよう。と、設計者が言っていました」  いや、タワーは普通ただ立っているだけのものだろう。 「その設計者って……」  どう考えてもまともじゃない、と言おうとしたとき 「設計者はそこにいます」  掃除のおばさんは、意味不明な言葉を喚き続けているおじさんを指差して言った。  おじさんが設計者だった。しかも会社をクビになっていた。たぶん変な設計をしたからだ。  掃除のおばさんは続けた。 「彼は私の同級生で、初恋の人でした。ちょっと変わってるけど、子供のような発想を持った素敵な人です。私は彼の願いを叶えてあげたい。いまがそれを実現する時です」 「でも……飛んでどうするんですか?」 「外から上ってくるあのゾンビたちを振り落とせます」  掃除のおばさんはなかなか残酷なことを言った。 「窓の外にスイッチがあります」 「なんで外に作ったんですか」 「とにかく、それを押せばタワーは飛ぶはず。わたしが……わたしが彼の願いを……」  おばさんが震える足を引きずらせながら窓に近づく。 「私が押します」  私は言った。 「麻衣!?」  沙智が驚いた顔で私を見た。  窓の外には人ひとりが立てるほどの狭い足場があった。足が悪いおばさんが外に出るのは危険すぎる。 「あの、押しても大丈夫ですか?」  母親は娘を抱いて頷いた。女の子は泣きながらこくこくと頷く。みんなまともではなかった。とにかくこの状況を変えることだけを考えていた。沙智は呆然として私を見ている。おじさんは、ああ、と崩れ落ちて涙を流した。  掃除のおばさんから鍵を受け取って窓を開けると、強い風が吹き込んできた。私は恐る恐る外へ足を踏み出す。足場は思ったよりずっと狭かった。  地上135メートル。目の前には窓も壁も何もない。風が真正面から当たり、足元を揺らす。ゾンビたちが梯子を上ってくる。上へ上へ。天を目指すように。  一瞬、思考が止まった。空に向かって放り投げられたような感覚に襲われた。 「麻衣! 何してんの、早くスイッチ押して!」 「う、うん……」  私はスイッチを押して、沙智に手を引かれて中に入った。窓を閉めた瞬間、足元がぐらりと揺れた。浮かんだのだ。 「飛んだ! 飛んだぞ! 俺を笑った馬鹿ども! お前らは下でゾンビに喰われて死ぬがいい!」  おじさんの叫びを聞いて、私はスイッチを押したことを後悔した。 「このタワー、ちゃんと止まるんですよね……?」 「はい。335メートルまで上って一度止まり、その後下降する、とそこの人が言ってました」 「もしかして東京タワーに張り合おうとしてます……?」 「俺はこの世界の神になった! あははははははあ!」  おじさんが死んだように絶叫する。タワーは死で埋め尽くされた街の上空をゆっくりと浮かぶ。梯子を上っていたゾンビたちが風にあおられ紙吹雪のように散り散りと飛んでゆく。 「ねえ麻衣」  沙智がふらふらと私に近寄ってきた。 「私、さっきひどいこと言っちゃった。あんな風になった里奈に。天才少女とかもてはやされていい気になってるからだって……ざまあみろって……ひどいこと考えた。ほんとはそんなこと思ってないのに、里奈のこと大好きなのに」 「うん。わかってる」  私は床に座り込んだ沙智をぎゅっと抱きしめた。  タワーの柱に隠れて、中からは見えていなかった。窓の外に、べつの大きな柱が立っていることに、私たちは気づいていなかった。  外に出たとき、私はそれを見た。いつからそんなものが立っていたのかはわからない。私たちがここに来るまではなかったはずだ。  突然どこからともなく現れた、二本の大きな柱。 それは柱ではなく、巨大な足だった。 ゾンビたちはタワーを目指して集まっているのではない。 その巨大な足の周りに集まっているのだと気づいて、私は震えた。 それは、神なのか、それとも、死神か。 得体の知れない生き物。 生き物かどうかもわからない。 どっちだっていい。 自分がいつまで生きていられるか、それすらわからない世界なんだから。 描きたい。見たこともないその光景を。 それを描いたらきっと、里奈の絵なんて軽々と超えられるはず。 タワーはどんどん上昇していく。 私は手に汗を握りしめながら窓の外を見つめた。  そして、  それと目が合った。
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