殺意は沈黙の中に

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 *  車の助手席から降りた新堂徹は空を見上げた。透明なビニール傘越しの空には、厚い雲がかかり星ひとつ見えない。横殴りの雨は新堂の丸眼鏡のレンズを容赦なく濡らしてくる。彼は仕方なく眼鏡を頭の上に追いやった。これはもともと、長年の不眠症によってできた隈を隠すためにかけている伊達眼鏡なので、外したところで何の問題もないのだ。  新堂は白髪まじりの癖っ毛の髪をかきながら、事件現場へと歩いていった。  「せっかく新堂さんとゆっくりできると思ってたのになあ」新堂の隣で三島真二が唇を尖らせた。彼は新堂よりも一回り年下の二十九歳の巡査部長で、新堂の相棒であり恋人でもある。「しかも雨だし」  新堂は傘に入ってこようとする三島を肘で押しのけた。「自分の傘があるだろ」  「いいじゃないですか、ちょっとくらい」三島は不満げな顔で自分の傘を開いた。  彼は新堂よりも十センチ背が高く、尖った顔立ちをしている。それなのに時々こんな風に、付き合いたての高校生カップルのような真似をしたがるので困る。  「なんでこういう夜に限って事件が起きるんですかね」  「仕方ないよ。事件は待ってくれない」  新堂がそう言うと三島は切れ長の瞳をぱっと輝かせた。「今のセリフ、めちゃくちゃ刑事っぽいっす」  「刑事っぽいじゃなくて刑事なんだよ」  深夜だというのに事件現場となった廃ビルの前にはすでに人だかりができていた。規制線の前には、どうにかして死体を撮影できないかとスマートフォンを掲げる民間人であふれている。  二人はやじ馬をかきわけて黄色いテープをくぐった。  四階建てビルの小さな敷地内の一画に張られたブルーシートの中では、金髪の男がうつ伏せで倒れていた。転落死だろうか。あらぬ方向に曲がった右腕からは白い骨が飛び出している。ぐちゃぐちゃに潰れた男の頭部の周辺には、コンクリートに激突した際に飛び散ったであろう頭蓋骨の欠片がそこかしこに落ちていた。鑑識係はストロボを焚きながら、それらの一つ一つを丁寧に写真に収めていた。  「あ。お疲れ様でーす、新堂さん」刑事課の岸本の覇気のない挨拶が新堂を迎えた。湿気なのか寝癖なのか、彼女の長い髪はてんでばらばらの方向にうねっている。岸本は新堂の後ろにいる三島の姿を確認すると、怪訝そうに首を傾げた。「また同伴出勤ですか」  「偶然一緒に飲んでいたんですよ」と三島。  「偶然にしては多すぎません? たしかこの前も──」  「被害者の身元は?」新堂は岸本の言葉をさえぎって訊いた。  「笹山直也、十八歳。この近所の桐山高等学校に通う高校三年生。それともう一人は本多竜一。笹山と同じ高校の同級生です」  「えっ、二人ですか?」三島が訊く。  「ええ。第一発見者の話によると、叫び声が聞こえたので駆けつけたところ、笹山と本多の両名が寄り添うようにして倒れていたそうです。救急車が到着した時点で笹山はすでにこと切れていましたが、本多の方はまだ息があったので、さきほど病院に救急搬送されました」  「転落死?」と新堂。  「だと思います」岸本はビルの屋上を指さした。「見えますか。あの屋上、柵もフェンスもないんです。二人でふざけているうちに誤って転落した、ってところじゃないですかね」  「この雨の中で屋上に行こうなんて思うかなあ、普通」  「でも男の子ってそういうものでしょう」  「岸本さん、それ偏見ですよ」と三島がたしなめる。  屋上では鑑識係が焚くストロボの光がまぶしく明滅している。なにか事件の証拠が出ればいいのだが、この大雨だ。指紋も足跡も洗い流されているに違いない。  「遺留品は?」と新堂。  「笹山の制服のポケットに、八万円が入った財布と生徒手帳が。それと二階に酎ハイの缶が四本と煙草の吸殻が数本、それと傘が一本残っていました。彼らのものかどうかは、まだ定かではありません」  新堂は自分の財布の残高を思い出そうとしてやめた。考えるまでもなく彼の方が多いだろう。  「傘は一本だけ?」新堂が訊く。今日は朝からずっと雨が降りっぱなしだったはずだ。「どちらか一人は傘もなしにここまで来たってこと?」  「それは…。相合傘で来たとか…」岸本が面倒臭そうに頭をかいた。彼女の顔には、はやく事故ということで終わらせたい、と書いてあった。  「スマートフォンはなかったんですか」三島が訊く。  岸本は首を振った。「今のところ発見されていません。家に置きっぱなしだったんじゃないですか」  「こんな若い子がスマホなしで出かけるなんて、ありえます?」三島が言う。「俺、ゴミ出しに行くときですらスマホを持っていきますよ」  「三島君の話は聞いてないんですけどー」と岸本。  「まあ、とにかく第一発見者に話を聞きに行こう」  新堂と三島はブルーシートが張られた一画を出て、敷地内に停められたパトカーの方へと歩いていった。パトカーのそばには六十代くらいの夫婦が眠そうな顔で立っていた。  「また同じ話をするんですか? さっきも警察の人に話したんですけど」  新堂が、遺体を発見したときの状況を教えてほしいと言うと、禿げ頭の主人はうんざりした表情を浮かべた。そんな主人を妻が「ちょっと、あなた」とたしなめる。  「お手数おかけしてすみません」新堂は頭を下げた。「もう一度だけお話していただけますか。叫び声を聞いて通報した、とのことですが、それは何時頃のことでしたか」  「叫び声っていうか言い争う声よ。やめろとか、ふざけんなとか。時間は零時二十七分よ。ちょうど携帯で時間を確認したときに、聞こえたから間違いないわ。それで、叫び声の直後にドンッと衝撃音が聞こえて」妻は死体のあった方を指さした。「声のした方に駆けつけてみたら、男の子が二人倒れていたの。まさかこんなことになるなんてねえ。だからちゃんと管理するべきだって言ったのに」  「管理と言いますと?」新堂が訊く。  「この廃墟、前から不良グループのたまり場になっていたのよ。夜中に大声で騒いで迷惑だったから何度か通報もしたのよ。でも全然効果がなくて。だから管理会社に連絡して、不良たちが入れないようにするべきだって抗議したんだけど」  新堂はビルに目をやった。入り口のガラスドアは無残に割られ、それなのに侵入者を阻むバリケードの類は一切ない。これではご自由にお入りくださいと言っているようなものだ。  「叫び声を聞いた前後で不審な人物を見たり、音を聞いたりしませんでしたか」と三島。  「そういえば怪しい車を見たわ」女はやじ馬であふれかえっている通りの向こうを指さした。「あそこに私の家があるんだけどね。家の前が駐車場なのよ。叫び声が聞こえる一時間くらい前に、その駐車場から急発進して出ていく車を見たの。しかも車が出ていく数分前に、ドンッてものすごい衝撃音が聞こえたのよ」  「ええっと、つまり」新堂は頭をかいた。「あなたは十一時半頃にドンッという大きな音を聞き、その数分後に車が急発進するのを見た。それから約一時間後の零時二十七分に叫び声を聞いて通報した、ということですね」  「そうそう。さすが刑事さん、まとめるのが上手ね」  新堂と三島は顔を見合わせた。二人の間に言葉はなかったが、お互いが考えていることははっきりとわかった。  ──笹山と本多は別々の時刻に転落した?
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