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「……ん?」
白紙の世界に脳が捕らわれたままだったのが、十数秒したところでやっと他のものに視野を広げることができるようになった――その時だった。
誰かの視線を感じるような、そんな薄気味悪く霽れる白景色を遮るようにカーテンは閉じて。何かに導かれるようにして、漸くベッドからフラフラと立ち上がる。その向かう先は、数多の書物がぎっしりと詰まった書架。心は書籍マニアたるもう一人の自分が騒ぐようで、僅かながら胸が高鳴っていた。
かつて兄妹が口を揃え【本の虫】と称しただけはある。興味対象たる書籍がずらりと並ぶ目的地へ向ける足取りは酷く重いものの、着々と進めて行くその歩みは思いの外しっかりとしていた。近付くに連れて実感する本棚の背の高さに、僕は思わず感嘆の声を上げる。「何て立派な書棚だろう」と。
その各所には小難しい図書が井々と陳列していた。軍事に纏わる専門書から医療に通ずる専門書まで、多岐に渡る専門分野が見受けられる。中には大衆向けの一般書籍や博物学書籍、異国語の筆記・会話習得に適した教材や単語帳を含んだ学習用書籍が紛れていたりと、素人目にも見慣れた景色が散在していた。
しかし、小さい頃から読書家と持て囃されてきた己の私室の本棚に比べても、それは確かに途方もない情報量に恵まれていた。己がこれまで全く触れてこなかった知識に圧倒されるような、飲み込まれるような、そんな感覚が胸の内側を支配する。そのジャンルに事欠かぬ賑やかしい書架は、物の見事に僕の好奇心を掴んで離さなかった。
多種多様の分野を扱う本が溢れながら、しかし秩序正しく整列している様は何とも圧巻だ。己を読書家の一人と自負していたからこそ、「ここの家主は相当の読書家か」なんて、そう想像するのも他愛のないほどに。
ただ一つ問題を挙げるなら、美しく整頓されている棚だからこそ、逆さの背表紙をした一冊だけがやけに浮いて見えてしまっていた、という点だろう。
「玉桂の子、一和命の小説じゃないか!」
逆さの一冊は一和命著作、玉桂の子第二巻。月面生活に適応するように進化した新人類【白狼】を中心とするダークファンタジー小説。物語の骨子は確か、謎の微生物の凶暴化により存続の危機を迎えた地球上の旧人類【赤狼】と、彼らをサポートする【白狼】が、異常な進化を遂げた敵対微生物を駆逐していく展開だったはず。
その場でパラパラと頁を捲り、自分の記憶と合致した物語を目で追い掛ける。何度読んでも飽きが来ないのは、作品毎に繰り広げられる彼独自の変幻自在な文体が、常に斬新な感覚を読者達に与え、惹き付けて止まないからであろう。
一作品の中で唯一無二の長編タイトルとされる玉桂の子シリーズは、今なお多くの続編出版を望む声が集まっていて、斯く言う僕も実はその一人だったりする。
逆さまに収納された玉桂の子第二巻。それに対する異質性を切欠に本を取り上げただけのはずが、蓋を開けてみれば結局一冊丸ごと読み終えている始末。単に読み耽るだけならまだしも、近場のカウチソファにしっかりと腰を据え熟読していたのだからどうしようもない。一作と知った途端に、内容にのめり込んでしまう――愛読者の性故に起きた空前の失態である。
そんな失点に気付いたのは、「この表紙のデザインがまた洒落てるんだよなぁ」と背表紙を撫で、沁々鑑賞し始める頃合であった。
「――しまった! すっかり読み耽って……あれ? 何だこれ?」
忽ち我に返り頭を振ったと同時、本に付属していた帯の感触に引っ掛かりを覚えたのは、殆ど偶然に過ぎなかった。
指先に触れたほんの一部の厚みは、まるで何か裏に貼り付けたかのような手触り。装丁から帯を外して裏側を覗き見ると、当初の予想通り小さく折り畳まれたメモ用紙が几帳面に四つ端をマスキングテープで貼り付けられていた。
物語に没頭するあまり現時点で収集し得た情報は、【この世界が彼の小説家一和命作品の存在している世界軸であること】と【僕の第一言語と現世界の言語が共通していること】だけ。前の世界と一致する手掛かりは、見事に異世界説を否定してくれたが、時間遡行・空間移動をしているという蓋然性は消えてない。また、異世界でないことが証明されただけで、無数にある並行世界のいずれかに転移した可能性ですらもまだ潰えていないとなると、問題は山積みだ。
しかし、今偶然獲得したこの小さな紙切れにはきっと何か重大なヒントが隠されているはずだ。態々整頓された本棚の一冊を逆さにして、それに言伝を残すという手の込んだ遣り口に、そんな根拠のない確信を、僅かに覚えた。
誰が残したとも知れない、謎のメッセージ。果たしてその中には一体何と記されているのか。帯紙を傷付けないよう慎重に剥がそうとする最中、胸の内はメモ用紙の中に書かれた内容に対する好奇心で満ち満ちていた。
あと少し、あと少しで答えに近付ける――。
「なあ、お前一体誰だ?」
「――っ!?」
その時頭上から降って来た全く聞き覚えのない男の声。その声音はどこか不機嫌さを孕んでおり、更にはピンと張り詰めたような緊張感すら漂わせていた。
一方出し抜けに声を掛けられた驚きで手元を滑らせた僕は、丁度ビリッという嫌な音に「ひっ」と言う短い悲鳴を零した後、「あ」と眉を顰めていた訳だ。しかしその態度こそが男の神経を逆撫でしたらしい。無視されたと錯覚したであろう男が、間髪容れず「聞いてるか?」と追撃を仕掛けて来たのである。
既に驚きと焦りの連発で手元が狂いまくっていたせいで、最早帯紙はボロボロだ。それを握り締め、身を縮ませながら怖々と彼を見上げる他、僕に手立てなど残されてはいなかった。
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