第一章 狐の唄

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 お雪は荒野の丘を駆け回って遊んだ。その日は少し冷え込んでいたが、走っているうちに体は温まってきた。  心地良い涼しさを肌に感じ始めた頃、一つの窪地の中でお雪は休憩する事にして、そこで大きく息を吸った。周囲は丘で囲まれていて、遠くの山の一部と空の雲を除くと景色は丘の背後に隠れて見えなかった。彼女は方角を確かめたくなったが太陽は広がる層雲に遮られ、さらには突如、濃い灰色の雲塊が溢れるように山々の背を一度に乗り越えてきた。空の雲の層は一気に低くなり山の中腹より上を覆い隠し、山の方角ごとの特徴を消した。  首をもたげて滅多にない山の不思議な景色を見ているうちに、上空には乱雲が渦巻くように広がった。お雪は早めに家に帰ろうと思い、一つの斜面を登った。  半端な高さの斜面の頂上に着くと、その小丘は別の丘陵に囲まれている事が分かった。母と住む「犬小屋」は見えなかった。  お雪は嫌な感じがして、別の斜面を登った。すると余計に位置は見失われた。  時間が経過した。風が音を伴って吹き始めた。周囲の冷気は段々と強まり、汗が滲んだ手が次第に冷えてきた。嫌な痒みを伴う霜焼けの感覚が、僅かだが手の平に感じられ始めた。母の名を叫ぼうかとも思ったが、集落にはまず届かないと思いやめた。日頃、母からは声が小さいとよく言われる。  お雪はとりあえず立ち止まり、「母上……」と小さく一言だけ呟いた。周りが急に一段と暗くなった気がして、そして何か冷たく濡れたものが頬に当たった。  それは空の雲から降る雪だった。暗雲の下でお雪はのろのろと、当てもなく荒野を歩いた。    すると、ある時に見覚えのある物が遠くに現れた。  ちょんちょんと並ぶ「檜の三兄弟」の姿……お雪は意外にも集落に近い位置にいたのだと思い、急速に気分が晴れてきた。であれば家に戻るには逆戻りすればよい――彼女は知恵を使ってそう判断し、その場で振り返り反対方向に歩き始めた。  だが歩き続けても集落は中々見えず、足を速めても一向に戻れる気配が無く、お雪は再び立ち止まった。狐にでも化かされているのかとも思った。気のせいか何かが傍にいる気もして、冷気が首筋の汗に触れた時には何かに舐められたかとも思った。  風が強まる中、ようやく遠くに何かが見えてきたと思えば、それは集落ではなかった。  白色に広がる、何かに囲まれた地形だった。  ――雪原?  お雪は足を止めて思った。周囲とは隔てられているその奇妙な地形はまだ幾らか先の場所にあったが、果ての遠くではなくもう少し歩けば辿り着けそうに見えた。
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