00、鬼上司がやってきた

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00、鬼上司がやってきた

 穏やかだった実験室は最近ピリピリしている。理由は一つだけれど、誰もその事実を口にもしない。精神的に弱めで体調を崩しやすくて休みがちだった課長はついに本格的なお休みに入ったらしい。そして多分もうこの部署には帰ってこないらしい。らしいらしいというあいまいな表現はそれもみんなが口を噤んでいるから。  理由は正式に配属になった新しい上司のせいだろう。 「菱田(ひしだ)さん、遠心分離機に入ってるサンプル、100ミリに定容しといてくれない?」 「……急ぎですか?」 「早いとなおいい」 「……了解しました」  そう返事した私に愛想みたいな「よろしく」だけをこぼして実験室を出て行った。 (忙しいのはわかるんですが……私の仕事の都合は聞かないのかい?)は、当然言わない。  久世(くせ)さんは隙をついたように私に仕事を振ってくる。毎回手が回らないのに無理ですよ!みたいなときではなく、なんとなく仕事の目途が立った時や一息つけるなみたいなときにタイミングをはかったように投げてくるのだ。 (これはむしろ計算?わかってやってる?)  いつもこちらに断る理由がないときにばかりを狙ってくるから余計に腹が立つ。  この会社に勤めだして早五年ほど経とうとしていた。ここは大手ガラスメーカーの一部上場企業、そこの技術・開発部研究部署。  別に理系の頭は持ち合わせていないけれど本体企業の子会社から設立されたエンジニアリングから派遣されて勤務している。部署内にも派遣社員は数人いているが所属している5グループには私だけ。社員の男性が三人、女性の社員さんが二人、そのうち一人は時短勤務だ。  そこに新しく本社からのエリートがやってくると聞かされたのは三週間前。休みがちだった課長と並列して仕事をしていくとなんとなく聞いていたが、課長が本格的に会社に姿を見せなくなって気づいたらその一週間後には直属の上司の名前が変更されていた。  本社からやってきたエリートことその人が、久世さん。  長身で足も長くて顔も小さいモデル体型、そこに切れ目のクールな印象のまぁイケメンで。配属されて数日は座っているだけでも周りの女性社員たちの視線を虜にしてピンク色のため息をこぼさせていた……が。  口を開くと愛想はないし話したら話したで辛口で冷たくて。仕事の話をしにくる若手社員なんかは辛辣に言いくるめられたりして、久世さんに仕事を持っていくときは下準備とタイミングを入念にしないといけないとぼやいていた。 「かっこいいけど怖い人」  ときめきかけていた女性社員も、みんな口をそろえてそう言っていた。
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