05、鬼上司はたまに優しさを見せてくる(side千夏)

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05、鬼上司はたまに優しさを見せてくる(side千夏)

 逃げるように実験室を後にしたのはいろいろ気づかれたくなかったからだ。  木ノ下さんに指摘されたことも、自分が感じた惨めな気持ちも、派遣でいることの悔しさも。  気づかれたくない。誰にも言えないこの気持ちを久世さんのような人には一番知られたくない。  ――わかんないことあれば聞くよな、菱田さんなら。  その言葉が耳の奥で鳴り響いている。  私の言葉より派遣の行動として線を引いた木ノ下さんの後に、私自身のことを見てくれようとする久世さんの言葉が胸に刺さった。  その微かに感じた棘のような痛みのもとに気づかないふりをして帰り路を急いだ。  翌朝実験室に降りて行ったら珍しく久世さんがいた。 「おはようございます」 「おはよう」  パソコンをしている手が止まって手招きされる。 「立場的にもだけど、単純に周りだけが把握して自分が知らないとか性格的にも嫌なんだよね」  いきなりそう言われて首を傾げた。 「なんで言ってくれなかった?」  ファイルを目の前にかざされて息をのんだ。 「隠すくらいなら言えばよかったのに」 「別に隠したわけじゃ……」 「何でも飲み込むのが正解じゃないよ」 「そんなつもりじゃないです。木ノ下さんの言い分がもっともなので私が言うことなんかなかっただけです」 「木ノ下さんの言い分が真っ当だって本気で思ってる?」 (思ってないけど) 「井上とも話して決めたことじゃないの?」 「そうですけど!」  昨日収めたはずの気持ちがまた湧き上がってきて声が無駄に荒れてしまった。 「そう、ですけど。言う前に話が終わったので」 「とりあえず、改善提案書にまとめて出して?」 「は?」 (とりあえずってなに) 「改善提案、出せるだろ?」  なんの話をしているのか。 「前から思ってたんだよ。菱田さんってさ、何気に仕事の行程とか手順自分なりに考えて変えてるだろ。だから同じ精度が出せてる。なんで改善提案出さないの?」 「そんな、わざわざ文書にするようなことはしてません」 「それは勘違いだわ、文書にしろ。自分で考えて変えたことがプラスになるならそれは改善。どんなしょうもないことでもだ。これは業務命令、改善提案に出せ」 「ええ?」 「自分の出してる試験の精度の高さ自覚してる?」 (え?) 「なんで俺がわざわざ自分の測定頼んでると思ってんの?」  にやりと聞かれてもわからない。 「私が……測定しかできないから?」 「本気で言ってる?」  はは、と笑われた。 「菱田さんにだから頼んでるんだよ」  その言葉に胸が跳ねた。 「言っちゃ悪いけど、木ノ下さんには頼まない」  これは内緒ね、と囁くように言ってファイルを渡された。 「ちゃんと書き直しといて。確認もしない訂正なんか認められるわけない。アルコールの廃棄は産廃扱いにするのも俺が了承した。これからは揉めたらちゃんと報告するように」  言い終わると同時に実験室の扉が開いてメンバーがぞろぞろと入室してきた。  昨日感じた胸に刺さった小さな痛み、その痛みの棘を抜いちゃいけない、あの時どこかでそう思った。  でも今確信した。  この棘は抜いたら深い傷になる、きっと取り戻せないような痛みを伴ってしまうと。  
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