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冴子は女学校を卒業する頃になっても、小説家の卵たちとの交流を続けていた。征長との婚礼の日取りも、間もなく決まるだろう。とにかくそれまでの間は、全てが自由でいたかった。時間も思いも全てが自由に。
清澄家や女学校と全く関わりのない人間たちに会うのは、家族に秘密を持ったようで少なからず心が躍った。特に足の悪い青年、佐伯拓弥のことが気になった。生まれも育ちも違う彼の何が気になるのか冴子にも分からなかった。誰かに似ているような気もしたが、それも曖昧なままだ。
ミナエは相変わらず婦人解放運動に傾倒し、とうに無期休刊になっている雑誌【青鞜】のことを未だに悔やんでいた。
冴子には、そんなものに精一杯心を向けているミナエが可笑しくもあり、羨ましくもあった。
小説家の卵たちの方は、皆貧しくその日暮らしのものが多かった。カフェの代金は常に冴子が支払っていたし、芝居小屋には高価な差し入れを何度もしていた。
初めのうち、彼らは冴子の振る舞いを歓迎していた。いい金づるを見つけた程度に思っていたのだが、高級料亭の重や外国の珍しい菓子などを見せつけられているうちに、自尊心の高い彼らは、ことさら金持ちの風情を持ち込んでくる冴子を疎ましく思うようになっていた。
「やっぱり住む世界が違うな」
「あの施してやっているふうの態度は、どうもいけ好かない。おまけに常に高飛車だ」
宇野は口の端で笑いながら言った。
「ちょっと脅してやらないか?」
「面白そうだな。少々怖い目に合わせて、あの高々な鼻をへし折ってやろうか」
とにかく彼らは退屈だった。
仲間の芝居が終われば、次が計画されるまで何もやることはない。ぶらぶらとあちこちをうろつき、多少の小遣いを稼いではまた遊びまわる。小説も書くには書くが、ただ書いているだけで、だいそれた主張があってペンを執っているわけでもない。同人誌の枠を出るものではなかった。
宇野や木村にとって、それはほんの退屈しのぎに過ぎなかった。
木村は黙っている佐伯に声をかけた。
「おまえも乗るだろ?」
佐伯はふたりを見据えたまま、何かを考えている様子だった。
呼び出された冴子は、サトと共にわけも分からないまま突然廃屋に連れ込まれた。
「何の用なの?」
男は全部で六人いた。見知らぬ顔もあった。
宇野がニヤニヤと薄笑いを浮かべながら冴子の頬を撫でると、冴子は宇野の頬を平手で打った。
「相変わらず高飛車な女だな。いい度胸をしてるじゃないか」
「こんなことをして、ただでは済まないわ」
「お嬢さま!お嬢さま!」
騒ぎ立てるサトを、男の一人が荒縄で後ろ手に縛り猿ぐつわを噛ませた。
「清澄コンツェルンのお嬢様か何か知らんが、あんたもただの下賎な女だってことを思い知らせてやるよ」
「何が目的なの?お金?」
「その考え方が気に食わねぇ。お前ら金持ちは、何でも金で解決しようとする」
見知らぬ男が、冴子に前に立ちはだかった。
「綺麗な顔したネェちゃんだな」
冴子は男の顔を睨みつけた。
「これだから教養のない者は困るわ。身の程知らずもたいがいになさい」
「気のつえぇ女だな。思い知らせてやろうか」
男が冴子の胸ぐらを掴もうとしたのを佐伯が止めた。佐伯は男を押しのけると、冴子の前に立った。
「清澄剛健は、あんたを可愛がっているだろうなぁ」
その言葉に冴子は訝しげに佐伯を見た。
「俺はあんたの親父を知らないが、あんたの親父は俺を知ってる」
冴子は眉間を寄せた。佐伯が何を言いたいのか、まるでわからなかった。
「おまえの親父に聞いてみるんだな。佐伯たつゑに押し付けた子供を覚えているかと言って見ろ。びっくりして、腰を抜かすかもしれん」
「佐伯、なんの話をしてるんだ?どけ!」
佐伯以外の男共が冴子を取り囲み、ギラギラと濁った目を輝かせた。薄笑いを浮かべ、冴子の髪を撫でた。
「綺麗な顔して、綺麗な服着てよ。オレたちの金巻き上げて、贅沢してんだろ」
「お前みたいな女、見てるだけで反吐がでるぜ」
「おい、こいつ、やっちまおうぜ」
男共のひとりが、冴子の胸元を引き裂いた。
「やめて!」
おびえる冴子を見て、佐伯は顔色を変えた。
「やめろ。そこまでするなんて話じゃない。ちょっとからかうだけだって」
「るっせぇな」
男は止めに入った佐伯を突き飛ばし、冴子にのし掛かった。
「いやぁー!」
「やめろ!やめてくれ!」
「佐伯、今更何言ってんだよ」
佐伯は杖を頼りに起き上がった。
「原田、やめろ。その女は、やっていい女じゃない」
冴子に覆いかぶさった男を佐伯は引き離そうと手をかけた。
「うるせぇって言ってんだろ!」
もうひとりの男が佐伯を殴り、倒れたところに蹴りを入れた。
「うっ…」
「びっこは引っ込んでろ!」
腹を激しく蹴り上げられた佐伯は、痛みに顔を歪め血を吐いた。
「いやぁー!」
粗野な男どもは佐伯の目の前で、泣き叫ぶ冴子に暴行を働いた。
誰もいなくなった廃屋で、ぼろぼろになった冴子は涙を拭い衣服を正しサトの猿ぐつわを外して縄を解いた。
「お嬢さま、大丈夫でございますか?」
冴子は息を飲んで唇を噛みしめた。涙が頬をとめどなくつたっている。
冴子は、サトが縛られていた荒縄を自分の首に巻いた。
「サト…、わたくしを殺して」
「お嬢さま、何をおっしゃいます。すぐに助けを呼んで参りますから」
冴子は首を振った。
「こんな辱めを受けて、おめおめと生きてはいられないわ」
「いけません」
サトは冴子の首に巻かれた荒縄を外すと、懐へ入れた。
「外に分かるようなこと致しません。すぐに葛城さんを呼んで参りますから」
冴子はまたも首を振った。顔を背けた時、部屋の隅に錆びた刃物が落ちているのが目に入った。冴子はふらふら立ち上がるとその刃物を手に取り、刃を自分の首元へ向けた。
「お嬢さま!」
サトはその刃物を取り上げようとして、冴子ともみ合いになった。
「サト、お願いだから」
「いけません!」
サトは冴子の首に今にも刺さりそうな刃物の刃先をつかみ、力任せに引いた。
「うっ…」
「サト!」
サトの手のひらはざっくり切れ、辺りに血が飛び散った。
「サト、サト…」
刃物を取り上げられた冴子は、震えながらその場に座り込んだ。
気丈にもサトはその刃物で自分の着物の袖を裂くと、ぐるぐると血の滴る手のひらに巻いた。
サトは肩で息をしながら目に涙をいっぱいに溜めて、さっき懐へ入れた荒縄を出し、冴子を後ろ手に縛った。
「何をするの…」
「お嬢さま、お許し下さい」
サトは自分がされていたように、嫌がる冴子の口許に手拭いを回した。
人を呼んでくる間、冴子をひとりにすればきっと舌を噛む。
「死んではなりません。サトが帰ってくる前にお嬢さまにもしものことがあったら、サトも死にます」
真剣なサトの表情に、冴子は瞬きもせず訴えるようにサトを見つめていた。
サトは深く頭を下げると、冴子をおいて外へ走り出した。
清澄家の母屋の居間に、男が全員が集まっていた。サトは居間の隅で、俯いたまま黙って正座していた。その手には痛々しく包帯が巻かれている。
「サトの話では、銀座のカフェにたむろっていた連中のようです」
サトは一緒にいた男たちに冴子が強姦されたこと、そして冴子が死のうとしたことも話していた。
誰も何も、言葉がなかった。重苦しい空気の中、冬彦が口を開いた。
「サト。おまえも酷い目に遭ったのだから、もう下がっていい」
「お嬢さまのおそばにいてもよろしいでしょうか?」
景一朗は頷いた。
「おまえがいいなら、そうしてやってくれ」
葛城が促すとサトは深くお辞儀をし、居間を出ようとして立ち止まった。
「あの…」
「何か思い出したか?」
「佐伯という男が、旦那さまは自分のことを知っていると言っていました。佐伯たつゑに押し付けた子だと」
その言葉に剛健は眉間をひくりとさせたが、わずかに頷くとサトに下がるように命じた。
サトはもう一度頭を下げると部屋を出た。
廊下では女中頭の松田が心配してようすを窺っていた。サトは松田に頭を下げた。
「よく、お嬢さまをお守りしてくれたね」
「お嬢さまは?」
「今は、眠っておられるよ。奥さまがおそばについていらっしゃる」
サトは緊張の糸が切れたのか、ぽろぽろと涙をこぼした。
「怖かっただろうね。よしよし、もう大丈夫だから」
松田はサトを抱きしめ、その背中をごしごしとなでた。
居間では剛健が難しい顔で腕組みをした。
「葛城。もし北岡征長が冴子を訪ねてきた時は、流行り病にかかっているから、良くなったら冴子の方から連絡させると言え。絶対に今の状況を悟られるな」
「はい、かしこまりました」
剛健は苦しそうに息をついた。そのようすに貴之は身を乗り出した。
「親父さま、佐伯たつゑとは誰です?」
「……」
「兄さんはご存知ないのか?」
景一朗が首を振ると、剛健は立ち上がった。
「景一朗、私の部屋へ来い。話がある」
「はい」
「ここでいいではありませんか。何を隠しているのです?」
剛健は貴之の言葉を無視し、自分の部屋へ戻った。
「親父さま!」
景一朗は、苛ついている貴之をなだめた。
「とにかくお父さまの話を聞いてくる。必要なことなら、あとでおまえたちにも知らせるから」
部屋へ戻った剛健は、険しい表情で苛々と部屋の中を歩き回った。後から部屋へ来た景一朗は、今まで見たことのない剛健のようすに声をかけられずにいた。
しばらく同じ動作を繰り返していた剛健は、ようやく椅子に座った。
「…おまえは、たつゑを覚えておらんか?」
「いえ…」
「乳母のたつゑだ」
乳母と聞いて、景一朗ははっとした。
「…まさか」
剛健は頷いた。
「佐伯拓弥。たつゑの息子だ」
「そんな…」
景一朗が頭を抱え込んだそばで、剛健は重いため息をついた。
「今更どういう訳だ。たつゑには充分な金を渡してあった。それにあいつには、生い立ちを話さないという約束だったはずだ」
「理由はどうあれ、彼自身自分が何者であるのかを知ってしまっているのです」
剛健は、険しい顔で拳を握りしめた。
「どうなさるおつもりです?あの男は、冴子が清澄家の娘だから襲ったのですよ」
嫁入り前の娘を手込めにされた。もしこのことが北岡家に知れるようなことになれば冴子と征長の結婚話も破談だ。しかし、北岡家の事業は今の清澄にとって咽喉から手が出るほど欲しい。何が何でも冴子の輿入れは実現させなければならなかった。
「今回のことは、絶対に新聞社に嗅ぎつけられるな。もし事件として世に出たとなれば、冴子だけでなく清澄コンツェルンも危なくなる」
こんな時でさえ、父は事業の心配をしている。父にほんのわずかでも、人の気持ちを考える思いがあれば、こんな事態にはならなかったはずだと、景一朗は肩を落とした。
景一朗が部屋を出ると、母が目に涙をいっぱいに溜めて立っていた。
「景一朗さん…」
「お母さま、今の話を」
「…慶彦なのですね」
雅子は景一朗にすがりつくと、大粒の涙をぽろぽろと流した。
「慶彦なのですね」
景一朗は母の言葉を認めるわけにもいかず、顔を背けた。
清澄家に、三人目の男の子が生まれた。次男貴之とは年子でその子は慶彦と名付けられた。だが慶彦は一歳を過ぎても歩くことは愚か這うことすらしなかった。医者は慶彦の右足に麻痺があり、発達が極端に遅れていてこのままでは普通に歩くことは難しいだろうと言った。
急性灰白髄炎、ポリオの後遺症だった。
それからしばらくして、乳母のたつゑに暇が出された。その時、たつゑは慶彦をしっかりと抱いていた。
「たつゑ、慶彦をどこへ連れて行くの?」
「景一朗ぼっちゃん。この子は慶彦さまではありませんよ。たつゑの子供で拓弥といいます」
「うそだ、慶彦だよ。だってほら、お母さまと同じところに泣きボクロがあるもの。お母さまが、笑ってそうおっしゃっていたもの」
「いいえ、違います」
「足だって悪いよ。慶彦は歩けないもの。片方の足がね、痩せているの」
母は、ずっと泣いていた。幼かった景一朗は、泣き続ける母にすがった。
「お母さま、泣いていないで慶彦を取り返してよ。たつゑが連れて行ってしまったよ」
母は景一朗を抱きしめた。
「慶彦は亡くなったのですよ。あれはたつゑの子です。慶彦はもう、帰りません」
「慶彦は亡くなったの?おじい様のように?」
「そうです」
景一朗は首を振った。
「違うよ、たつゑが連れて行ったんだ」
「いいえ、慶彦は病気で亡くなったのです。いいですね、景一朗。亡くなったのですよ」
その後、父から慶彦の話は一切してはならないと、きつく戒められた。景一朗は腑に落ちないまま、何年もの時を過ごした。そして尋常小学校を卒業する頃、やっとその意味が分かった。
名門、清澄財閥からカタワを出すわけにはいかなかったのだ。
もう二五年以上も前の話だ。景一朗は五歳になったばかり、貴之は三歳にも満たなかった。
貴之は何も憶えてはいるまい。あの時、父は何故あんなむごいことができたのだろうか。
すべては、清澄の名を守るため。
「景一朗さま、お休みなさいませ」
居間で景一朗を待っていた貴之と冬彦は、景一朗を送り出す葛城の声を聞いた。
貴之は急いで景一朗の後を追って外へ出た。
「兄さん。親父さまは、何と言っておられた?」
景一朗は苦悩した表情のまま貴之を振り返った。
「いや…、まだ話せん」
「話せないって、どういうことです?佐伯という男は、親父さまが他所の女に生ませた子ですか?」
「違う。そうではない。今はわたしも混乱している。もう少し時間をくれ」
自分たちの血を分けた弟が、冴子を酷い目に遭わせたとは口が裂けても言えなかった。しかもその原因を作ったのは、他の誰でもない実の父だ。
慶彦のことを決して忘れていたわけではなかった。
父が福子を貴之の嫁に決めた時も、このことが気にかかっていた。世間体を気にし自分の息子まで家から出した父が、何故福子を嫁に選んだのか納得がいかなかった。いずれ同じことが起きはしまいかと。だから余計なこととは知りつつ、結婚前にそれとなく貴之に忠告した。
父が福子を傷つけた時も、父をかばい福子に頭を下げに行ったのはこの件があったからだ。
多くの感情が絡みあい、愛し合うべきはずのものが憎しみの感情を持ち、互いに敵対し合う。
自分と節子が穏やかでいられないのもの、グイアを引き取ってやれなかったのも、慶彦が今ここにいないのも、冴子が酷い目に遭ったのも、すべては剛健が子供を愛する父という立場でなく、由緒ある財閥の当主としてコンツェルンの総帥としての歪んだ感情から出たものだ。
ようやくひとりになった冴子は、柱に腰ひもを掛けた。気位の高い冴子には、どう考えてもあの辱めは耐えられなかった。
(お父さま、お母さま、お兄さま方。ごめんなさい)
これで、やっと楽になれると冴子は思った。
冴子はごくりと唾を飲み込むと、腰ひもを首に掛けた。
冴子の食事を持って来たサトは、鍵の掛けられた扉の前で声をかけた。
「お嬢さま、お食事をお持ちしました」
返事のないことを怪しんだサトは、扉を叩いた。
「お嬢さま、どうなさいました?開けて下さい!お嬢さま!」
妙な胸騒ぎがした。サトは急いで葛城のところに行き、事情を話した。
葛城は合い鍵を持つと、冴子の部屋へ行った。
「お嬢さま、葛城でございます」
葛城が声をかけても、返事はなかった。
「入らせて頂きます」
鍵を開けて部屋の中の冴子の様を見た葛城とサトは、息が止まるかと思うほど仰天した。
冴子は一命を取り止めた。
「冴子から目を離すな」
「はい、旦那さま」
その日から、サトは冴子のそばを離れなかった。自分の布団を冴子の部屋へ持ち込み、四六時中冴子の元にいた。
屋敷中のものが冴子を心配していた。
「冴子」
見舞った景一朗にも、冴子は背を向けたままだった。
髪をなでようと景一朗が触れたとたん、冴子は身を縮めて布団をかぶった。
「触らないで!お願い、お兄さまでも嫌よ」
「あ…、すまない」
散々怖い目に遭ったうえに、強姦された妹。男と名のつく生き物には、触れられたくはないだろう。
景一朗も辛かった。可愛い妹が辛酸を舐めさせられたなど、許しがたい行為だった。
だが、事情は複雑だ。
「食事もしていないそうだね。みんな心配している」
「……」
「冴子、どうすればおまえを慰めてあげられる?」
冴子は布団をかぶったまま、肩を震わせた。あの時のおぞましさが、脳裏だけでなく身体中にも駆け巡る。あのまま死んでしまえれば、どんなに楽だったか。
死ぬことも許されない自分の身を冴子は呪わずにはいられなかった。
景一朗は佐伯拓弥の行方を捜させた。佐伯を放っておいていいわけはない。佐伯が自分の生い立ちを知っているなら、尚更これ以上糸が絡まぬうちに何とかしなければならなかった。
貴之は、なじみの遊女と宿を出てきた。
「今度はぁ、あたしがイカセてあげるからね」
「七枝じゃ、無理だな」
「じゃ、いったらあたしを身請けしてくれる?」
「いいよ。楽しみにしてる」
「きゃはは…」
貴之は急に七枝を路地へ引っぱり込んだ。
「な、なに?どうしたの?」
「しっ!」
七枝の口を手で押さえ、身を隠すようにして通りを垣間見ると、そこには女郎宿へ入ろうとする景一朗がいた。
「へぇ、珍しいものを見たな。琴菊だけでは飽き足らなくなったか」
「琴菊って誰よ」
「おまえはもう帰れ」
「え~、これから呑みに連れってくれるんじゃないの?」
「それは、また今度だ」
七枝を無理矢理返すと、貴之は景一朗が女郎宿の部屋へ上がったのを確認した。そして、その宿の番頭を呼んだ。
「今来た洋装の男の隣の部屋を頼む」
「え、女はどうするんです?旦那」
「いいから、いいから」
貴之は番頭に金を握らせ、部屋へ入った。
景一朗は通された部屋に入ると、中を見回した。
女郎宿の片隅。慶彦はこんな荒んだ場所に身を落としているのかと、景一朗は胸が痛んだ。
そこへ杖を付き足を引き摺りながら佐伯拓弥が入ってきた。あの頃と変わらず、泣きボクロがある。はだけた着物の裾から、異様にやせ細った右足が見え隠れしていた。その引き摺る右足を、景一朗は正視できなかった。足さえ悪くなければ、慶彦は清澄家を出されることはなかったはずだ。
「あんた、清澄景一朗だって?まさか惣領直々に俺に会いに来るとは思ってもみなかったな。俺を警察に突き出すために来たか?」
佐伯は開き直った態度で、薄笑いを浮かべた。
景一朗は神妙な顔で首を振った。そして正座をすると、深々と頭を下げた。
そのようすを見て、佐伯はいぶかしげに眉間を寄せた。
「何をしている?」
景一朗はトランクを差し出した。
「ここに壱萬圓ある。これが今のわたしに用意できる精一杯だ」
「何のまねだ」
「おまえには申し訳ないことをしたと思っている。今更謝ったからとて、許されるとは思わないが…。父に代わって、謝罪したい」
「何のまねだと聞いてるんだ。俺はあんたに謝ってもらいたいわけじゃない。頭を下げたいのなら、清澄剛健をここへ連れて来い」
「だから、わたしが代わりに」
「あんたに何が分かる?」
佐伯は杖で畳をどんっと一突きした。
「この足を引き摺りながら俺がどんな思いで生きてきたのか、贅沢三昧の暮らしをしてきたあんたにわかるのか?」
「…何を言われても、わたしには謝ることしか出来ない」
「何であんたなんだ?あの時は、あんただって子供だっただろう?」
「それでも、わたしは知っていた。大人になってから、おまえを迎えに行くことも出来た。けれど、わたしはそれをしなかった」
隣の部屋で聞き耳を立てていた貴之は首をひねった。
(いったい、何の話だ。壱萬圓なんて大金をなんだって…)
女と密会するために景一朗がこの場所に来たのだとばかり思っていた貴之は、思いもしない事の成り行きに驚いていた。
さっきは警察がどうとか言っていた。父や兄は何か犯罪に巻き込まれでもしたのかと、貴之は襖にすり寄った。ごたごたは冴子の件だけで充分だった。
「すまない、慶彦。許して欲しい」
襖越しに景一朗のその言葉を聞いて、貴之は身体を硬直させた。
(…慶彦だって?)
もう忘れかけていた名前。幼くして病気で死んだ弟。その慶彦が生きているのか?
「…そんな名で俺を呼ぶな。俺は佐伯拓弥だ。金など要らん。帰ってくれ」
景一朗は頭を下げたまま動かなかった。
「聞こえなかったか?帰れ!」
「帰れと言うなら、そうする。ただ、何故冴子だった?あの子はおまえの妹だ。それは知っていたのだろう?あの子はひどく傷ついている。何故あんな」
「知っていたから!」
佐伯は、景一朗の言葉をさえぎった。
「こんなことになるはずじゃなかった…」
ガサッと襖の開く音に、ふたりは顔を上げた。
「きさま!」
「貴之!どうしてここに」
いきなり佐伯に殴りかかろうとした貴之を、景一朗は止め押さえた。
「放せ、兄さん!」
「やめろ、貴之。やめるんだ」
「何故だ!こいつが冴子を酷い目に遭わせたんじゃないのか?何故、こんな奴を放っておく!」
すっかり興奮している貴之を前に、佐伯は今にも泣きそうな表情でふたりを見た。
視線を落とした佐伯を見て、景一朗は唇を噛んだ。
「貴之、頼むからやめてくれ」
貴之はこぶしを握りしめたまま、やっと身体の力を抜いた。
「こいつは慶彦なのですか?死んだと聞かされていた慶彦なのですか?」
「…そうだ」
「どういうことです?慶彦なら、何故冴子をあんな酷い目に」
景一朗は、答えに窮して顔を背けた。
「兄さん!」
簡単に話せることではなかった。
両国の老舗料亭の前に一台の車が止まった。降りてきた客に、迎えに出た女将が頭を下げた。
「まぁまぁ、景一朗さま、貴之さま。おふたりでお見えになるなんて、お珍しい」
「悪かったね、女将。突然部屋を取ってもらって」
「何をおっしゃいます。清澄さまには、いつも御贔屓に預かっておりますもの。ささ、どうぞ」
ふたりは、奥座敷に通された。
「今日は鮑のよいのが入っておりますよ」
「任せるよ。先に酒を頼む」
景一朗の言葉を受けて、貴之が付け加えた。
「湯呑み茶わんもだ」
女将はしっとり笑うと、障子を閉めた。
貴之は膳の前であぐらをかくと、がっくりうな垂れた。たった今起こった出来事が、まだ頭の中で整理がついていなかった。死んだと聞かされていた慶彦が生きていた。その慶彦が、冴子を傷つけた。貴之はそれをどう解釈していいのか分からなかった。
「失礼致します」
女将が、酒と先付を持って入ってきた。
膳に酒を置くが早いか、貴之は湯呑みに酒をどくどくと注いで一気に飲み干した。
「まぁ、どうなさいました?そんな飲み方をなさると、悪酔い致しますよ」
貴之は息をつくと、手の甲で口元を拭った。
「女将。料理は後でいいから、酒をもう少し頼めるかな」
景一朗の言葉に頷くと、女将は静かに出て行った。
景一朗は空になった貴之の湯飲みに、酒を注いだ。貴之はゆっくり顔を上げ、景一朗を見据えた。
「説明して下さい。兄さんはいつから慶彦が生きていることを知っていたんです?」
景一朗は自分の猪口に酒を注ぐと一口飲んだ。
「…まだ幼かった慶彦を乳母のたつゑが連れて行ったのは憶えている。だが、お父さまにもお母さまにも慶彦は病気で死んだと言われた。何度も何度も念を押すように。その理由がわかったのはずっと大きくなってからだ」
「理由って何です?」
「足だ」
ポリオの後遺症。理由は何であれ、清澄の家にカタワは不要だった。
「病気なら、慶彦のせいではない」
「そうだ。しかし、お父さまは体面を重視された」
「また体裁ですか?そのおかげで福子はどれほど嫌な思いをしたか」
冴子の件をひた隠しにしようとしているのも、清澄家の体面を保つためにほかならない。
自尊心のために外へ出した慶彦に、可愛がっていた娘を辱められることで、その自尊心をずたずたにされた。
「親父さまは自業自得でしょう。その点では、慶彦に同情しますよ。しかし、だからと言って、妹だとわかっている冴子を何故…」
「我々にはわからない闇が、慶彦の心にはあるんだろう」
「足の悪い自分を放り出した、親父さまへの復讐ですか?」
「おそらくな」
貴之は酒を空にすると、湯飲みを握りしめた。
「…冴子を見ていると、憐れでなりません」
たとえ憎い男の娘であっても、冴子は血を分けた妹だ。それを知っていて、本当にここまで酷いことが出来るだろうか。
貴之はどうしても納得がいかなかった。
屋敷へ戻ると、サトを呼んだ。
「お呼びでございますか?」
「サト、この前言っていた佐伯という男は、どういう男だ?」
「どうと言われましても…」
冴子が小説家の卵たちとカフェで会っていた時、サトはいつも外で冴子を待っていた。だから彼らが何を話し何をしていたのかは、皆目見当もつかなかった。
ただ冴子が帰る時、カフェの入り口までいつも見送りに出ていたのは、あの足の悪い佐伯拓弥だった。杖を付き右足を引き摺りながら、必ず冴子を見送った。
サトは佐伯が冴子のことを好きなのではないかと思っていた。いや、今でもそうかもしれないと。
「何故そう思う?」
「他の男たちがお嬢さまに襲いかかろうとした時、あの男はそれを止めました」
「止めた?」
「はい。でも佐伯は他の男たちに殴られ蹴られて…、後のことはよくわかりません」
貴之は頷くと息をついた。
母・雅代は自分の部屋へ景一朗を呼んでいた。冴子の事件以来、雅代は揺れ動く心をどうしても収められないでいた。
「景一朗さん、慶彦の居所を捜すことは出来ないでしょうか?」
「え…」
「あの時お父さまが何と仰っても慶彦を手放さなければよかったと、後悔しています」
「お母さま…」
雅代は涙ぐんでいた。
「今更こんなことを言っても始まりませんが、本当に後悔しているのです」
「捜してどうなさるおつもりなのです?」
「わかりません。けれど、慶彦に会いたいのです。会ってあの子を抱きしめて、謝りたいのです」
「冴子のことは?」
「冴子の身に起こったことは、本当に不幸なことだと思います。あの子の気持ちを考えると、いたたまれない思いです。けれど冴子も慶彦も、わたくしの大切な子です。同じ、大切な子供たちです」
はらはらと涙する母を見て、景一朗はまた心に重荷を抱え込んでしまった自分に酷く疲れていた。
「わかりました。手を尽くしてみます」
そう返事をしながらも、暫く時が経ったら慶彦の行方は分からなかったと母に告げるつもりでいた。今更会ったとて、互いが別々に過ごした時間は埋まらない。ましてや母が慶彦を捜したことを冴子が知ったとしたら、心の傷は深くなるばかりだ。
貴之はもう一度、佐伯に会いに行った。
「まだ、何か用か?この前は殴り損ねたから、もう一度殴りに来たか?」
「…いや。ちょっと、話がしたくてな」
妙なことを言うなと佐伯は貴之を見た。
英国製の生地だろうか、身体にぴったり合った注文仕立ての三つ揃い。絹のアスコットタイ。小指に光る洒落た指輪。金色に輝くパテック・フィリップの腕時計。イタリア製の靴。
一般庶民には絶対に手の届かぬ贅沢品。
足さえ悪くなければ、これらもすべて自分の物だったろうかと、佐伯は今更ながらに吐息をついた。
「俺には、あんたと話なんかない」
今更羨んだからとて、何になろうか。
目を伏せた佐伯を見て、貴之は母の顔を思い出した。
母と同じ、左の目じりに泣きボクロ。そういえば、母に似ている。目許も口許も母の持つそれとよく似ていた。
「おれが身に付けているものを全部欲しくはないか?」
佐伯は視線を貴之に戻した。
「やりたいことがあるなら、手伝えるぞ」
「どういう意味だ?」
「足が悪くても出来ることを考えないか?」
「同情なら、いらぬ世話だ」
「何故断る?おまえを追いやった清澄剛健の金を湯水のように使って、自分のやりたいことをやればいいと言っている」
佐伯は、何故貴之がこんなことを言い出したのか、その真意を計りかねていた。同情か、それとも哀れみか。冴子を傷つけた自分には、そのどちらも必要でないことは分かっている。
そう思いながら、はだけた着物の上から右足をなでた。
「足、痛むのか?」
「清澄貴之」
「ん?」
「おまえ、変わってるな」
「年中言われている。おれは、清澄家のはみ出し者だからな」
肩をすくめた貴之に、佐伯は初めて笑みを浮かべた。憎んでいたはずの清澄一族の人間とこんなふうに話をしていることが不思議だった。
「おまえの妹をあんな目に遭わせた俺に、どうしてだ?」
「どうしてだか自分でもわからん。ただ、おれがおまえならやり場のない怒りを、やはり親父さまに向けるだろうなと」
「親父さま、か」
そう言いながら佐伯は寂しそうに笑った。佐伯には父と呼べる存在はいない。
佐伯は少々戸惑いながら、気になっていたことを口にした。
「…聞いてもいいか」
「何だ?」
「おまえの、妹…。どうしてる?」
「ん…。大丈夫だ、いずれ時が解決する」
「…そうか」
「おれの妹ではなく、おれたちの妹だぞ」
佐伯は、その言葉に俯いた。
「おまえ、ずっと乳母のたつゑと暮らしていたのか?」
「いや、母さんは働かないとならなかったから、十二になるまで叔父の家に預けられてた」
「たつゑには、充分な金を渡してあったと聞いたが」
「さぁな、そんなことは知らん」
佐伯は宙を仰いだ。
「…酷い暮らしだった」
足の悪い佐伯は、大きくなっても畑仕事を上手くこなすことが出来ず、叔父の家の小さな子供の守りをさせられていた。
「ちびどもがちりじりに走り出しても、俺は追うことは出来ない。そのせいで、怪我をさせたこともあった」
その度に佐伯は叔父や叔母から、役立たずと罵られ殴られ食事を与えられなかった。外へ行けば村の子供らにびっこと笑われ、石を投げられた。誰も佐伯を心にかけるものなどいなかった。
村中が貧しく、みんなが飢えていた。
貴之は驚いたような哀れむような表情で立ち上がった。
「食事に行くか?」
「え?」
「腹が空いているんだろう?」
「あぁ…、まぁ」
貴之は車を呼ぶと、先日の両国の料亭へ佐伯を連れて行った。
奥座敷で、貴之は佐伯の猪口に酒を注いだ。
「芸術は必要だと、いつも言われていた。ピアノかヴァイオリンか油絵をやれといわれたが、どれも好きになれなかった。まぁ、何とかなったのは語学くらいだ」
「外国の言葉か?」
「あぁ、英語と独逸語くらいだがな。すべて、親父さまの見栄だ」
「見栄か…」
たとえ佐伯が清澄の家に留まっていたとしても、剛健の性格を考えれば、一生座敷牢から出してもらえることはなかっただろう。
清澄家の奥深く。陽の当たらない場所で、一生。
「おまえ、今の生活と座敷牢で一生を過ごすのと、どっちが良かった?」
佐伯は呆れたように貴之を見た。
「…幸せな奴だな。そんなことを俺に聞いてどうする?」
「え、いや…」
佐伯に選択権はなかった。ごく普通の庶民の家に生まれていれば、いろんなことが違っていたはずだ。
佐伯は膳に並べられた料理一品ずつに目をやった。
「懐石料理か。初めて見た。上等な皿に、綺麗に盛りつけてあるんだな」
「何を食べていた?」
「稗、粟、大根、芋と芋のつる」
「芋のつる?そんなものが食えるのか?」
「あぁ、つるはまだ旨いほうだ。凶作の時は、雑草も食った」
貴之は唾を飲み込むと、持っていた猪口を置いた。
「ざ、雑草…」
「五年前に母さんが死んだ。死ぬ間際に、俺は清澄剛健の息子だと知らされた」
そうはいっても清澄家にどうこうするつもりは何もなかった。あの時、冴子と出逢う偶然がなければ。
「…これからどうしたい?」
「さぁ、どうするかな」
「おれが部屋を借りよう。生活に必要なものはすべて揃える。それから、どうして欲しい?」
「なんで俺にそうまでする?」
「おまえは慶彦だ。おれの弟だ」
佐伯は冷ややかに貴之を見た。
「妹を酷い目に遭わせた仇だぞ」
貴之は眉間を寄せた。
「仇でも弟だ」
「さっきも言った。世話も同情もいらん」
貴之は身を乗り出すと、佐伯の目をしっかり見た。
「同情ではなく、兄弟愛だ」
佐伯は鼻先で笑った。
「よくそんなこっ恥ずかしいことを真面目な顔で言うな」
「人間に愛を語る時は、できる限り気恥ずかしい表現を真面目な顔でするのが、おれの金言だ。特に女に愛を語るときはな」
「そういえば、嫁さん亡くしてるんだろう?」
何故佐伯がそんなことを知っているのかと、貴之は不思議そうな顔をした。
「新聞に出てた」
「あぁ…そうか」
貴之は、酒を一口飲んだ。
「愛していた。この世でたったひとりだ。もうあんな女は現れないだろうな」
「流行りの自由恋愛か?」
「いや、親父さまの決めた政略結婚の相手だった。うちはみんなそうだ。景一朗兄さんも冬彦も冴子も、みんなだ」
「それでも愛していたのか?」
貴之は頷いた。
「俺よりみっつも年上で、顔に大きな痣があって。幼い頃から痣の故に引きこもった生活をして、揚げ句が政略結婚の犠牲だ。だが、おれは愛していた。おれにとっては、良い女だった」
「…あんたの奥さん、幸せだな」
「え?」
「今頃、あの世であんたに感謝してるさ」
「……」
どうしてこんな話になってしまったのかと、貴之はぽりぽりと顎をかいた。
とにかく何でもいいから佐伯の力になってやりたかった。
*
コンツェルンの総帥室に景一朗が出向いていた。
「おまえは千葉の畑沢を知っておるか?」
「えぇ、名前だけは。広大な領地を持っているとか」
「あの土地が欲しいとは思わんか?」
「確かに畑沢は豪農ですが、良くない噂を聞いております」
「噂は知っている。だが、ひとり娘で跡取りがおらん。冬彦にちょうどいいと思わんか?」
景一朗は眉をひそめた。
「総帥は冬彦を婿養子に出すおつもりですか?」
「いや、そんなことはせん。娘は嫁にもらう」
「何をお考えです?」
畑沢家といえば、千葉でも有数の豪農だ。畑沢には跡取り息子はおらず、二十五歳になる娘・雪絵がいるだけだった。雪絵は今までに三人の婿を取ったが、どの婿も半年ほどで病気や事故に遭いこの世を去っている。
【呪われた畑沢家】
以来畑沢の家に入った者は一年以内に必ず死ぬという噂が立ち、雪絵は後家のままひっそりと暮らしていた。
畑沢の当主は跡継ぎのために婿ではなく夫婦養子を捜したが、噂が噂だけに見つかることはなかった。
広大な農地を持つ畑沢も、このままでは今の代で終わってしまう。そうなれば、分家が農地を奪い合うことになるだろう。
剛健はそこに目を付け、畑沢にある提案をした。
雪絵を冬彦の嫁にもらい、最初の男の子を畑沢本家の養子にすると約束した。
畑沢にしてみれば願ってもない申し入れだった。
土地を有するものが実質的実権を握る世の中だ。清澄の血を継ぐ者が畑沢の後継者となれば、いずれその土地は清澄のものとなる。
「妙案だと思わんか?」
剛健は不敵な笑みを浮かべた。
息子の感情などまるで無視し会社の利益だけを考えている父を、景一朗はを改めて恐ろしい人間だと認識した。
「冬彦、おまえの縁談が決まったぞ」
冬彦は驚いた様子で剛健を見た。
「冴子の婚礼が終わって、一段落したら次はおまえだ」
冬彦は信じられなかった。この冴子の騒ぎの最中に、何故縁談なのか。
「お父さま、僕には結婚などまだ…」
「何を言っておる。男子たるもの、社会に出たからにはしっかりと身を固めんとな。周囲に対する対面もある。いい話だ。待っておれ」
他の兄弟たちは皆、父の言う通りに妻をもらい、嫁に行こうとしている。けれど冬彦には、結婚などまだ遠いことのように思えていた。
いや、清澄コンツェルンを強固にするための儀式だ。結婚など、自分にとっては不必要な事柄でしかない。
あれ以来貴之は、何かと理由をつけては佐伯を食事や飲み屋に連れて歩いていたのだが、その日は佐伯の方から会いたいと連絡があった。
「初めてだな、お前の方から会いたいなんて。やっとおれの考えに従う気になったか?」
佐伯はしばらく貴之の顔を見ていたが、躊躇うように口を開いた。
「悪いんだが、少し金を用立ててもらえないか?」
「あぁ、もちろんだ。いくら必要だ?」
「弐百圓ほど」
貴之は財布から札束をありったけ取り出し、慶彦に握らせた。
「弐百圓以上はあると思う。時間をくれれば、もっと用意するぞ」
「いや…、充分だ。こんな大金、いつも持ち歩いているのか?」
「え?あぁ」
佐伯は鼻で笑った。
「何が可笑しい?」
「いや、やっぱり金持ちの息子なんだな」
「何を言っている。おまえだってそうだ。いくらだって好きに使え」
「それは世間知らずというものだ」
「そんなことはない。何をどうしたいんだ?」
佐伯はコーヒーを一口飲んだ。
「ここを離れようと思ってる」
「どうしてだ?やりたいことをやれ。世間知らずだろうが何だろうが、金ならいくらでも用意する」
佐伯は、息をつくと首を振った。
「結果的にお前の妹に辛い思いをさせたのは俺だ。これ以上、ここにはいられない」
佐伯は札束を懐に入れると窓の外を見回した。夕日に照らされた街には、活気があった。この東京という大きな街で、自分は何をしたかったのだろうか?
「それでいいのか?それで自分を納得させられるのか?親父さまに頭を下げさせなくていいのか?」
佐伯はもういいと笑みを浮かべた。
「どこへ行くんだ?」
「これから考える」
冴子のことは気がかりだったが、貴之は佐伯のことも不憫だと思っていた。父さえ佐伯を外へ出さなければ、こんな状況にはなっていないはずだった。貴之には、父の傲慢さが許せなかった。だからこそ、どんなことになっても弟の味方になってやるつもりだった。けれど佐伯は、自分からの援助も父の償いもいらないという。
貴之は佐伯の肩をがしっとつかんだ。
「何かあったら、必ず連絡して来い」
「そうならないよう、祈っててくれ」
佐伯は杖を頼りに立ち上がると、いつものように右足を引きずりながらミルクホールを出て行った。貴之は佐伯の後ろ姿を見送った。心の内をさらけ出すこともせずにここを離れようとする弟の切ない思いを、受け止めてやることの出来ない自分の不甲斐なさが悔しくて仕方がなかった。
*
この二ヶ月、征長は仕事を理由に冴子に会っていなかった。そろそろ挙式の詳しい段取りや新婚旅行の打ち合わせが必要な時期のはずだった。けれど征長からの連絡は何もなかった。冴子がそろそろじれ始めた頃、征長から会いたいと連絡があった。
冴子は美しく着飾り、約束していたホテルのロビーへと赴いた。
「相変わらず美しい」
「ご無沙汰を致しておりましたわ。お忙しいご様子ですのね」
「ここでは話しにくいので、部屋へ行こう」
「部屋?」
征長はエレベータに乗り込んだ。冴子はホテルの部屋と聞いて少々戸惑ったが、婚礼の日であろうが今日ここであろうが同じことだと自分に言い聞かせた。どのみち自分は征長の妻になるのだ。
部屋に入ると征長はソファに座り、冴子にも座るように促した。
そして、深く息を付いた。
「僕には、色々と情報網があってね」
「?」
「初めに言っておく。一生、君を抱くつもりはない」
冴子は、征長の言葉に眉をひそめた。
「どういう意味でしょうか?」
「とぼけて欲しくはないな。君が強姦されたことを、僕が知らないとでも思っているのか?」
冴子は心臓が止まりそうだった。外には絶対に漏れてはいないはずのあの事件が、何故征長の耳に入ったのか。
「他の男に遊ばれた女を、僕が抱くと思うのか?知らない振りをして、結婚するつもりだったのだろうが、そうはいかない。綺麗な顔をして、君もいい玉だ」
「あ、あのことは、わたくしのせいではありません」
「自分は悪くはないと言うのか?それは通らんだろう。君には微塵も落ち度がないと言えるのか?」
「それは…」
征長は見下したような視線を外すと、背を向けた。
「だが妻の座は与えておいてもいい。うちの会社にとっても清澄の事業は魅力的だ。それは君の父上も同じだろうからね」
「…征長さま」
「まぁ世間体を考えて、あとは好きにすればいいさ。条件はひとつだ。僕の妻という対面さえ保ってくれればそれでいい」
「北岡の跡取りは、どうなさるおつもりです?」
征長は小馬鹿にしたように鼻先で笑うと首を振った。
「君の心配には及ばん。妾の子を夫婦の間の子として届けるつもりでいる。汚れた君の血の入らない子だ。良い考えだろう?」
冴子は征長に厳しい視線を送った。
「それが通るとお思いですの?」
「通すさ。すべては君の落ち度だ」
征長は口許に薄笑いを浮かべると部屋を出て行った。
冴子は悔しさにハンカチを握りしめた。
あの事件の後死ぬことまで考えた冴子だったが、何とか気持ちを立て直して結婚を機に忘れ去ってしまおうと固く決心していた。
それがまさか征長の知るところとなっていようとは、夢にも思っていなかった。
ここまで自分に屈辱を強いる征長が許せなかった。
屋敷へ戻った征長は拳で机を叩きつけた。この怒りをどこへぶつけていいのか分からなかった。
征長は本気で冴子に惚れていた。だからこそ、冴子が暴徒に襲われたことは許し難かった。今まで指一本触れず、冴子を大切に扱ってきたのは何のためだったのか。綺麗なままの冴子を自分のものにしたかったからだ。辱めを受けたことを自分に黙ったまま結婚しようとしている冴子が許せなかった。愛していた分、それは憎悪となって征長の心を締め付けた。
ふたりの心情をよそに、婚礼の支度は着々と進んでいた。冴子の豪華なドレスや着物が数えきれないほど北岡家に納められた。
北岡征長の独身最後を祝おうと、東京帝国大学の同窓生が集まっていた。
その中には冬彦もいた。
「おめでとう、北岡。冴子をよろしく頼むよ」
握手をしようと手を差し出した冬彦に、征長は冷ややかな視線を向けた。
「清澄、おまえの妹と結婚はする。だが、実質的な妻として彼女を迎えるつもりはない」
「え…」
「世間には隠しおおせても、北岡の家を騙すことは出来ない。充分に清澄コンツェルンの甘い汁を吸わせてもらうから、そのつもりでいてくれ」
「…何の話をしている?」
北岡は鼻先で笑った。
「わかっているのだろう?知らないとは言わせない。お前の妹も大した役者だ」
「待ってくれ。あの事は冴子が悪いんじゃない」
北岡は冬彦の言葉を遮った。
「理由など関係ない。重要なのは強姦されたという事実だ」
冬彦は急いで屋敷へ戻った。
「北岡家は冴子の事件を知っていますよ」
「なんだと」
「たった今、征長に釘を刺されました」
冬彦はそれ以上のことを父に言えなかった。冴子のことを考えると、口に出すことをはばかられた。実質的な妻として迎えないということは、ただの飾り物でしかない。それではあまりにも冴子が不憫だ。
「…景一朗と貴之をすぐに呼べ」
男共が雁首を揃えて集まったとて、もう知れてしまったことに対してなす術はなかった。
征長が言ったように、北岡が清澄の力を欲しがっていることは確かだ。
「冴子も腹を括っているでしょう」
景一朗は静かにそう言った。
婚礼は明後日だ。
今はただ、静かに事を見守って北岡の出方を見る他なかった。
冴子はサトを連れて北岡家に嫁いだ。
表向きには、冴子と征長は普通の夫婦を装っていた。
東京倶楽部の夜会には夫婦揃って毎回欠かさず出席していたし、政府関係者のあらゆる催し物に必ず顔を出していた。北岡財閥としての体面を保つには、冴子は充分すぎる役割を果たしていた。
冴子はどのパーティでも話題の中心にいた。政府高官たちも、華やかで美しい冴子に少しでも近づこうと歯の浮くような世辞を並べ立てた。その様子に、征長は冴子を娶ったことは間違いではなかったと強く確信していた。北岡財閥の事業にとって、冴子は十二分に役に立つ申し分のない存在だ。だが、決して冴子と同じ寝室で休むことはなかった。
間もなく、征長は妾を屋敷に住まわすようになった。冴子の事件を知っている北岡の両親も、そのことを黙認した。
気位の高い冴子には、妾を屋敷に住まわすなど屈辱以外のなにものでもなかった。
「征長さま、お話がございます」
征長はちらりと冴子を見ただけで、その言葉を無視した。冴子は征長の後を追うと、前へ回り込んだ。
「屋敷へ妾を入れるとは、いったいどういうおつもりですの?」
征長は蔑むように冴子を見た。
「何をしようが僕の自由だ。おまえの意見など聞く耳は持たん。おまえのような汚らわしい女の意見はな」
冴子は言い知れぬ怒りが込み上げてくるのを抑えることが出来なかった。こうまでして自分を侮辱する征長を許せなかった。
すっと息を吸い込むと、冴子は激しく刺すような視線を征長に向けた。
「何だ、その目は?」
「そこまで踏みつけになさるおつもりなら、わたくしにも覚悟がございます。ご自分のなさったことを後悔なさいませんように」
冴子はくるりと向きを変えると、真っ直ぐに前を見据えた。
「どうした?急に話なんて」
冬彦を呼び出したのは、帝大時代の同窓生で芝にホテルを経営している田辺だった。
「話そうかどうしようか、迷ったんだが」
先日、冴子が男連れで部屋を借りたというのだ。
「男って、北岡ではないのか?」
「いや、違う。昼間二時間ほどいて、先に冴子さんが、後から男が出て行った」
「何のために?」
「何のって、決まっているだろう」
田辺は困った表情で冬彦を見た。
「何を証拠にそんなことを。いい加減なことを言うなよ。いくら田辺でも許さないぞ」
「出て行った後、部屋を見に行った。寝乱れたベッドを見れば、何をしてたかくらい…」
冬彦は思わず田辺の胸元を掴んだ。
「本当に冴子だったのか?間違いでしたでは済まされない」
「頭からネッカチーフをかぶって色付き眼鏡を掛けていたけど、冴子さんだったよ。だから心配しておまえを呼んだんだ」
冬彦は信じられなかった。あの誇り高い冴子が、そんなまねをするとは思えなかった。
「北岡に知れたら、離縁だぞ」
「田辺、この話は…」
「分かってる。誰にも言わないさ」
冬彦は真相を確かめようと冴子を呼び出した。
冴子はいつもと変わらず凛とした笑みをたたえ、冬彦を見た。
「何のお話かわかりませんわ」
「冴子…」
「冬彦お兄さまは、その田辺さんとかおっしゃるご学友とわたくしとどちらの言葉をお信じなりますの?」
「本当に違うのだな」
「何のお話かわかりませんと申し上げたはずです」
「それなら、いいのだが…。北岡とはうまくやっているのかい?」
「もちろんですわ」
冴子が強く美しいのは、冬彦ならずとも清澄の人間ならばよく知っていることだ。だが婚礼の直前、征長から気持ちを聞かされている冬彦にとって、冴子の態度は悲しく思えた。
冴子は妊娠するためだけに数人の男と関係を持った。それは冴子の自尊心を深く傷つけた征長への復讐だった。
冴子は急に吐き気をもよおして、洗面所へ駆け込んだ。
冴子には、もう怖いものなど何もなかった。
吐き気と闘いながら、冴子は不気味な笑みを浮かべた。
その夜、遅くに帰って来た征長の前で、冴子は笑みをたたえて言った。
「身ごもりましたわ。今日、病院へ行って参りました」
征長は驚いて目を見開いた。自分は一度も冴子を抱いていない。妊娠するはずはなかった。
「冴子、おまえ」
冴子はすました表情で征長を見た。
「あら、喜んでは下さいませんの?男の子なら、北岡の跡取りですのよ」
征長は激高して冴子に手を挙げた。
「離縁だ!今すぐ、ここを出て行け!」
倒れ込んだ冴子は、殴られて真っ赤になった頬に手をあてると征長を見据えた。
「北岡財閥の次期頭首が、妻を寝取られたと世間に恥をさらしてもよろしければ、わたくしを離縁なさいませ」
冴子の言う通り、そんな恥をさらすわけにはいかなかった。それよりも何よりも、冴子は北岡の事業に於て、なくてはならない存在になりつつあった。運輸相も冴子を気に入って、今回の鉄道事業の拡幅を認めた。今冴子を離縁すれば、事業に多大な影響が出るかもしれない。
征長はこぶしを握りしめると、冴子を睨みつけた。
「売女め!」
そこへ部屋の扉を叩く音がした。
「何を騒いでいるの?」
顔を出したのは征長の母親だった。
「何でもありませんよ」
あわてて母を遮ろうとした征長の後ろから、冴子は微笑みながら明るい声を出した。
「お義母さま。わたくし、子供ができましたの」
「冴子!」
険しい表情で振り返った征長を無視し、冴子は言葉を重ねた。
「三ヶ月だそうですわ」
「まぁ、征長さん、おめでとう。よかったわねぇ。すぐ、お父様にお報せしないと」
嬉しそうに部屋を出ようとした母親に、征長は震えながら声をかけた。
「待ってください!」
唇を歪めた征長を母親は不思議そうな顔で見た。
「どうかしたの?」
征長は血の気が引いていくのが分かった。今ここで否定しなければ、一生真実を語る機会は無いかもしれない。それを分かっていながら、冴子に裏切られたことを口にするのは憚られた。たとえどんな理由があろうとも、自分の妻すらうまく扱えない情けない男だと父や母には絶対に思われたくなかった。
「いえ…、何でもありません」
征長のこの言葉を聞いて、冴子は自分が優位に立ったことを確信した。
冴子の妊娠を北岡の両親は喜んでいた。冴子の強姦事件は不幸なことだと思っていた。征長が妾を屋敷に置くことも心を痛めた故のことだと黙認してはきたが、やはり征長の子を産むのは正妻の冴子であるべきだと考えていた。
冴子の妊娠の知らせを受けて、清澄家はすっかり安堵していた。
「所詮は男と女だ」
剛健は笑い飛ばしていたが、冬彦は大きな衝撃を受けていた。征長は冴子を実質的な妻として迎える気はないと言い放った。それは冴子を抱かないということだ。
冴子のホテルでの密会は、やはり本当だった。冴子の腹の子は、不義の子だ。
「これで一安心だ。冬彦、次はお前だ。これ以上式を伸ばすのは許さんからな」
青ざめて震えるように拳を握りしめた冬彦の様子を貴之は見逃さなかった。
嫌がる冬彦を、貴之は自分の部屋へ無理に引っ張り込んだ。
「お話なら、今度にしていただけませんか?少し気分が悪くて」
「おまえ、そんなに結婚が嫌か?たかが女が来るだけだ。抱いても文句を言わない侍女が来ると思えばいい」
「そんな低俗な話ではありません」
冬彦は動悸が激しくなるのを押さえられなかった。身体中の毛細血管が開いてしまったような気分だった。
「失礼します」
硬直したまま部屋を出て行こうとした冬彦を貴之は呼び止めた。
「待て、冬彦。いいじゃないか。話して楽になれ」
貴之は気楽に聞いたつもりだったが、冬彦はたまらずその場に立ちすくんだ。話せば気位の高い冴子の自尊心を打ち砕くことになるのは目に見えている。けれど自分ひとりで抱えるには、問題が大きすぎた。
「冬彦?」
「…冴子の腹の子は、北岡の子供ではありません」
「何っ!」
貴之は思わず冬彦の肩を掴んだ。
「どういうことだ!」
「ですから、あの子供は不義の子なんです…」
冬彦は自分の知っていることを洗いざらい貴之にぶちまけた。
それを聞かされた貴之は、呆然として座り込んだ。まさか、そんな状態になっているとは夢にも思っていなかった。
たとえ征長が冴子に指一本触れなかったとしても、あの高潔な冴子が征長以外の男と関係を持つなど考えられないことだった。
「冴子に何があった?」
「分かりません。たとえ北岡が冴子を妻として認めなかったとしても、他所で子供を作るなどあり得ないことです」
冴子を傷つけることなく真相を確かめる術があるだろうか。貴之と冬彦は朝までまんじりともしなかった。
翌日、冬彦は仕事に出なかった。冴子のことや自分を取り巻く今の状況を考えると、とても仕事など手に付かなかった。
父の野心の故に、今までどれだけの不条理を押し付けられただろうか。伸ばしに伸ばしてきた冬彦自身の結婚にも、そろそろ決着を着けなければならなくなっていた。
冬彦は意を決して、父の元に出向いた。
「何を下らんことを言っておる?」
剛健は、冬彦の顔すら見ずに答えた。
「お聞き取りになれませんでしたでしょうか。結婚はしません。僕は家を出ます」
「それで?」
「え…」
「たわ言はそれで終わりか?婚礼は来月の五日だ。屋敷は貴之の所をそのまま使えばいい」
自分の思いが完全に無視されていることに、冬彦は動揺を隠せなかった。自分は何のために清澄家に存在しているのか。父にとって、息子という名のただ事業を大きくするための存在でしかないことに深い失望感を覚えていた。
その夜、冬彦は家を出た。
置き手紙もせず、誰にも知らせることはなかった。これ以上、父の傲慢さについては行けなかった。
(お母さま…、許して下さい)
張り裂けそうな思いを抱えて、冬彦は屋敷を後にした。
冬彦が家を出て三日。清澄家はようやく冬彦が失踪したことに気づいた。
「捜せ!草の根分けても冬彦を捜し出して、連れ戻すのだ!」
剛健は焦っていた。間近に控えた畑沢との婚礼までに何としてでも冬彦を捜し出さなくてはならなかった。
執事の葛城は、ようやく冬彦が横浜港からロサンゼルス行きの船に乗り込んだことを突き止めた。
「もう冬彦さまは国内にいらっしゃいません」
「何ということだ……」
剛健は頭を抱え込んだ。冬彦の婚礼が決まらなければ、コンツェルン総帥として計画してきたことの予定が大きく狂う。しかし、すでにいなくなった冬彦を待っていてもどうにもならないことは分かっていた。
「貴之を呼べ」
剛健は厳しい表情で葛城にそう告げた。
貴之は父の書斎でソファに座り、長く伸ばした髪の毛先を弄んでいた。
「後妻を貰えと?」
貴之は淡々として答えた。
「そうだ。冬彦がいなくなった今、お前に頼むより他方法がない」
貴之は息をついた。さんざんいいように使ってきた子供を、まだ使い足りない様子の父にあきれて言葉もなかった。
「今度の女は後家だが美人だぞ」
「……」
貴之はあらぬ方に視線を向けると、髪をかきあげた。
「景一朗のところには跡取りがおらん。節子は女しか生めんからな。妾でも作ってくれればいいんだが、あいつは妙に固いところがあるからな」
貴之は思わず苦笑した。景一朗には琴菊がいる。情報通の父が知らないとは、景一朗は余程うまく隠しているようだった。
「おまえが跡取りを作らなければ清澄家は終わりだ」
「だから冬彦の許嫁と結婚しろと?」
「そうだ」
「それでは向こうが納得しないでしょう?」
「お前なら大丈夫だ。畑沢の娘に少し色目を使ってやれば良い。どうせ誰にも相手にされん後家だ。うちのような財閥と再婚できるのだから、文句はないはずだ」
「……」
「なんなら、お前が他所で子供を作って来てもかまわん。おらんのか?他所で生ませた子供は?」
「残念ながら」
「そうか…」
剛健は息をついた。
「どちらにしても畑沢の土地は絶対に必要だ。いいか、貴之。頼んだぞ」
冬彦への縁談が貴之に回されたと聞いた景一朗は、急いで貴之に会いに行った。
父の傲慢がどんどん激化していることに、景一朗は不安を隠せなかった。
「今度は後家をあてがって下さるようですよ」
「いいのか?」
「別に、どうでも良いといえば良いのですが……」
「嫌ならお父さまにそう言えばいい。わたしからも話をしよう」
貴之は口の端で笑った。
「どうなさったのです?兄さんらしくありませんよ。親父さまの言うことは絶対ではなかったのですか?」
景一朗の思いは複雑だった。父の傲慢の故に兄弟達が不幸になって行くように思えて仕方がなかった。確かに会社が繁栄し続けることは企業家として当然望み得るものだが、果たして肉親を犠牲にしてまで勝ち取るものなのだろうか?
最初にその犠牲となった慶彦のことは、未だに癒えぬ傷となって景一朗の心に残っている。冬彦も父の犠牲になることに耐えきれず、家を出たに違いない。そう考えると、今その尻拭いをさせられようとしている貴之も、いつまでも黙って言いなりになるとは到底思えなかった。
「貴之、本当のところはどう考えている?」
「何をです?」
「お父さまのやり方だ」
貴之は頬杖をついた。
「そうですね…。親父さまはああいう人ですから、何を言っても聞く耳は持たないでしょう。身をもって現実は思い通りにならないことを思い知っていただくしかないでしょうね」
貴之が遠くに視線を走らせたのを見て、景一朗は何をするつもりなのかと眉間を寄せた。
「何を企んでいる?」
貴之は景一朗に視線を戻すと笑ってみせた。
「それはそうと琴菊が子供を産んだそうですね」
「もう知っているのか?」
貴之は鼻先で笑った。
「地獄耳でしてね」
景一朗の囲われ者の琴菊は、男の子を産んでいた。博太郎と名付けられた子は、清澄の血を引くただひとりの男の子だった。だが、景一朗は博太郎を本家に連れてくることを躊躇っていた。
他所に子供を作ったとなれば、節子がいきり立つことは分かっている。琴菊も初めての子を手放したくはないだろう。何よりも事業のことしか考えない父のいいように博太郎を使われたくはなかった。
「いいか、お父さまには」
「わかっていますよ。せいぜいうちの権力争いに巻き込まれないよう、匿ってやることです」
「お前はそう思ってくれるか?」
貴之は静かに頷いた。
*
征長は悩んでいた。冴子の腹の子は自分の子供ではない。だが、それを父や母に話すことは自尊心が許さなかった。そこまで妻に馬鹿にされたなど口が裂けても言えることではなかった。
(あの腹の子は、淫行の子だ。何としても生ませるわけにはいかない)
征長は怒りの矛先を腹の子に向けた。
悪阻のある冴子は食事を自室で摂っていた。その日の夕食もいつものようにサトが賄いから冴子のもとに運んで来ていた。
冴子は煮物をひとくち口に入れた。瞬間、舌にさすようなしびれを感じ口の中の物を吐き出した。
「どうされましたか?」
「何か入っているわ」
サトは冴子の言っている意味が分からず、きょとんとした表情を見せた。冴子はお茶で口をすすぐと、厳しい目でサトを見た。
「サト、これを番犬に食べさせてきなさい」
「犬にですか?」
「早くなさい」
サトは言われるままに庭へ出ると、北岡家の番犬に食べさせた。
翌朝、屋敷の使用人たちは皆ざわついていた。何事かとサトがようすを見に行くと、犬が泡を吹いて死んでいた。サトは背筋がぞっとするのを感じた。冴子は何者かに毒を盛られたのだ。サトは直ぐさまこのことを冴子に報告した。
毒を盛ったのは征長だと、冴子には分かっていた。このまま北岡の屋敷にいれば、常に命を狙われる危険が付きまとうだろう。そこまでしてお腹の子を産ませまいとするなら、尚更この子を守ってやらねばならない。
征長は、このことを誰にも話していないに違いなかった。それは、冴子にとっては好都合だった。
「このままここにいては、危ないわね」
悪阻を理由に、冴子は強引に清澄の屋敷へ戻ってきた。
「冴子が戻ってきた?」
冴子の里帰りを聞いて、貴之は急いで彼女の元に行こうとしたが、待てよと思った。まずは情報収集をしてからだと、離れの廊下へ向かった。
母屋からの長い渡り廊下の真ん中に貴之がいるのを見て、サトは深くお辞儀をしそそくさと通り過ぎようとした。
「サト」
「貴之さま…、ご無沙汰致しております」
「北岡の家はどんな様子だ?」
「…皆さま、とてもご親切で若奥さまの体調を気遣ってくださっております」
「ふ~ん」
貴之に見据えられて、サトは視線をそらした。
「何か隠していることがあるだろう?」
「いえ、滅相もございません」
「北岡は冴子の事件を知ってる。そうすんなり上手くいくとは思えない。夫婦仲はどうなんだ?」
「あの…、サトにはご夫婦の間のことまでは」
貴之は背の低いサトの前に膝を折ると、真っ直ぐに瞳を見つめた。
「悪阻ごときで、よくあの北岡が実家へ帰してくれたな」
サトは思わず俯いた。サトは全ての事を知っていたが、口が裂けても言えるようなことではなかった。北岡の屋敷で毒を盛られたから清澄の家に帰って来たとなれば、何故毒なのかと問われる。
「冴子の腹の子は、本当に北岡の子か?」
サトは自分が硬直するのが分かった。貴之は何もかも知っていて、確かめているだけだと。
「お、お許し下さい。サトの口からは、何も申し上げられません」
貴之はすっと立ち上がった。
「いいだろう。お前の立場もあるからな。冴子に直接聞けばいいことだ」
貴之は身を翻すと、冴子の部屋へ向かった。
「体調はどうだ?」
「悪阻がひどくて、お食事が出来ませんの。でも、母になるためですもの。何でもありませんわ」
「冴子」
「はい、お兄さま」
凛とした涼やかな笑顔を見せる冴子に、貴之は真相を尋ねることを躊躇った。
いや聞いたからとて冴子は話はしないだろう。
「ん…、欲しい物があれば言いなさい」
「ありがとうございます。でも、今は間に合っておりますわ」
何がどうなろうと冴子が自分で決めたことだ。それならば、最後まで事の成り行きを見届けようと貴之はそのまま部屋を後にした。
式は挙げない。それが畑沢の娘と結婚するために貴之が出した条件だった。
「お互い再婚ですよ。必要ないでしょう」
雪絵は凍えるように梅がほころびかけた頃、ひっそりと清澄家に嫁いで来た。
雪絵は剛健の言った通り、透けるような白い肌の美人だった。雪絵も貴之の麗しさに、一目で気に入ったようすだった。
「雪絵です」
深く頭を下げた雪絵に、貴之は椅子に座ったまま煙草に火をつけた。
「面倒な挨拶は抜きでいいでしょう。お互い、何も知らない小僧っ子じゃないし」
「はい」
「屋敷の中では好きにしてもらって結構。いつ食事を摂ろうが、いつ寝ようが、あなたの自由だ」
「え…」
「出歩きたければ、それもいい。ただし、夕刻までには戻って来るように。妙な噂が立つと父が気にするので」
貴之は立ち上がると部屋を出ようとした。
「…あの」
「まだ何か?」
「いえ…」
雪絵は真意が掴めず、戸惑った表情で貴之を見送った。
その日、景一朗の屋敷に突然剛健がやって来た。
今までにないほどの上機嫌で、居間のソファに腰をかけた。
「景一朗、よくやった。すぐお前の子供を屋敷へ連れて来い」
景一朗は驚いて剛健を見た。ひた隠しにしてきたはずの息子の存在を父は知っている。
脈打つ心臓の鼓動が、頭の中をぐわんぐわんと巡った。
「何をしている。この清澄の跡取りだぞ。すぐに連れてくるのだ」
「…お父さま、どこでそれを」
「わしが何も知らんとでも思っているか。何故黙っていた。こんなに嬉しいことは久しぶりだ」
景一朗は首を絞められたような息苦しさを感じた。父は単に跡取りが生まれたことを喜んでいる。自分の実子たちがいったいどんな思いでいるのか、その気持ちは欠片も頭の中にない。
「名は何という?相手の女は芸者上がりだそうだな」
「……」
「固いばかりかと思っておったが、さすがはわしの息子だ。これで清澄家も安泰だな。明日にでも連れて来い。なんなら子供の母親も一緒で構わん。出来るならもう二、三人男の子を生んで欲しいものだ」
剛健は、そばにいた節子に顔を向けることすらなく出て行った。剛健にとって、跡取りを生めない節子に興味はなかった。
「今の話はどういうこと?」
節子は眉を吊り上げ、景一朗を睨みつけた。
「お前が耳にした通りだ」
「わたしは、どういうことかと聞いているのよ!」
景一朗は、節子の態度にはうんざりしていた。感情を理性で制することなど、全く考えない女。こんな女は、目の前からいなくなればいい。
「妾の子が、男だったという話だ」
「妾に子供だなんて、わたしは何も聞いてないわ!許せない!この家にそんな連中を一歩でも入れてごらんなさい。二度と世間に出られないようにしてやる!」
景一朗は、無表情で節子を見た。
「どれだけわたしを侮辱すれば気が済むの!」
「気に入らなければ出て行けばいい。もうお前のような女はうんざりだ」
節子の顔は、みるみる紅潮した。
「何ですって!わたしを離縁するって言うの?そんなことをすれば、父はあなたの事業から全部手を引くわ。それでもいいの?」
「そうしたければするがいい。だが真壁大臣は、そんな馬鹿なことはしない。うちから出ている莫大な献金が、どれほど重要かはよくご存知のはずだ」
清澄からの金で、真壁は今の地位を保持している。そのことは節子ですら知っていた。節子は悔しさに歯を軋ませた。
景一朗は密かに博太郎を琴菊と共に上海へ送った。国内ではどこにいても父の手を逃れることは出来ないと分かっていたからだ。
いつまで経っても子供を連れて来ない景一朗に剛健は激怒した。あらゆる手段を講じて捜させたが、子供は一向に見つからなかった。
「景一朗!子供をどこへやった?」
「……」
「景一朗!」
黙っている景一朗に苛立った剛健は、思わず彼の胸元を掴んだ。
「答えろ、景一朗!」
「……」
「わしに逆らうつもりか?」
「…お父さま。博太郎はコンツェルンの跡取りにはしません。諦めてください」
剛健は青筋を立てて腕に力を入れた。胸元を掴んだその手で、力一杯景一朗を壁へ押し付けた。
「絶対に許さんぞ。三日以内に子供をわしのところへ連れて来い。わかったな」
剛健の恐ろしい形相に、景一朗は息を飲んだ。父が怒りをぶちまけることは、今までにもしばしばあったが、ここまで怒り心頭に達したようすは初めてだった。
部屋から出て行く剛健の足音を聞きながら、景一朗は背中に悪寒が走るのを感じていた。けれど何があろうと、博太郎を連れてくることはするまいと固く決心していた。
再婚して二ヶ月。貴之は未だに雪絵を抱こうとはしなかった。
雪絵は真意を確かめたかったが、貴之は雪絵に会うことを避けているかのように家には滅多に帰って来なかった。
けれどこのままでいいわけはないと、雪絵はやっと家に戻った貴之を捕まえた。
「わたしのどこが気に入らないのか言って下さい。ほとんど屋敷に戻って来ないし、話をする間もないわ」
「別に気に入らなくはないよ」
「では何故抱いて下さらないの?わたしたちは夫婦なのよ」
「ずいぶんと直接的だね。まっ、生娘でない君にそれを求めても無理か」
「それは…、承知のうえのはずでは」
「もちろん。そんなことをとやかく言うつもりはない。互いに再婚だからね」
「では、なぜなの?」
「君を抱かない理由?」
貴之は伸びをすると、困ったような曖昧な表情を見せた。
「子供を作る気がないんでね。だから、おれの中で妻という立場の君を抱く理由がない」
「子はいらないというのですか?」
「そう」
「それでは約束が違うでしょう?最初の男の子は畑沢の家にくださる約束だわ」
貴之は雪絵の顎に手をかけると、ぐいっと顔を寄せた。
「いいか、おれは君との間に子供を作るつもりはない。だから他所で子供を作ることを許可する。生まれて来た子は、清澄の子として届けよう」
「え?」
「君の血を引く子だ。文句はないだろう?ただし、ひとりだけだ。たとえそれが女の子でも、その子が畑沢の跡取りだ。いいね」
「そんな…」
無茶な話であることは、貴之がいちばんよく分かっていた。
けれど、これ以上清澄の血を引く人間を不幸にしたくはなかった。
このところ、征長は仕事が手に着かないでいた。
冴子の腹の子は、日に日に育っているはずだ。
毒を盛られたことに感づいた冴子は、早々に実家へ戻り帰って来ない。浅はかな行動ではあったが、あの時はそれしか子供を始末する方法が征長には思い浮かばなかった。今となっては、生まれてくる子供が女であることを祈るのみだ。
征長は、冴子が出産する前に何としてでも妾に子を作ろうとあちこちに囲っている女たちのところへ通い続けたが、ひとりとして妊娠の兆しは見えなかった。
ある日、何を思ったのか医者へ出向いた。そして自分の精子を調べさせた。もしかすると何か異常があるのかもしれない。
「北岡さん。大変申し上げにくいことなんですが、あなたの精子は大変薄く動きも非常に鈍い状態です。今の状況では、お子さんは難しいと思われます」
「……」
心の中に抱いていた一抹の不安が現実となって目の前に突きつけられたことに、征長は激しく動揺していた。このままでは自分と何の関わりもない子供が北岡家の跡継ぎとなってしまうかもしれない。そのことを考えると動悸がした。不安にかられ、夜も眠れない。
征長は不安を打ち消そうと酒に溺れるようになった。酒を飲んでいるときだけは、その不安から解放されるような気がした。忘れ去りたくて、毎晩浴びるように酒を飲み続けた。ある時、飲み屋で阿片を勧められた。勧められるままに阿片を使うようになった征長は、やがてその虜となっていった。周囲に暴言を吐き暴力を振るい、仕事にも支障をきたすようになった。
北岡家の当主である征長の父は、会社に出ることを禁じた。
「お前はいったい何をしている?自分の立場をなんと考えていんるんだ?」
征長は虚ろな目で父を見た。冴子の子が自分の子供でないことは死んでも口にできない。冴子の密通がもし世に出ることにでもなれば、妻を寝取られた男として世間からどんな目で見られることになるか。そんな恥をさらすことは、征長にとって死ねと言われるに等しい。その上自分は子供を作ることが出来ない。死んでも誰にも知られてはならない事柄だった。
征長の母親は、どんどん荒んでいく征長を見ていることに心を痛めていた。子供さえ無事に産まれてくれれば、征長も少しは目が覚めてくれるだろうと期待を持っていた。
やがて冴子に陣痛が来た。征長は母に連れられ、産院の待合所で座り込んでいた。征長はぼんやりした頭で、とにかく女の子であってほしいと願っていた。万が一男の子なら、北岡家の跡取りとなってしまう。自分の血を引かない者に、北岡家を継がせるわけにはいかない。いや、何があってもだ。
冴子は半日陣痛に苦しんだが、生まれてきたのは征長以外の誰もが期待した男の子だった。
冴子はほくそ笑んだ。これで北岡家での自分の地位は不動だ。自分同様気位の高い征長は、たとえどんなことがあったとしても真実を語ることはあるまいと冴子は確信していた。生まれてきた子は、将来の北岡財閥を背負って立つ子だ。
冴子はこの上なく心満ちていた。
何も知らない北岡の両親は男の子が生まれたことを手放しで喜んでいた。それは清澄家も同様だったが、貴之だけは複雑な思いを抱いていた。
「男子のお誕生、おめでとうございます」
産室の前でサトは見舞いに来ていた貴之にお辞儀をしたが、顔を上げられずにいた。
貴之は静かに息をつくと宙を仰いだ。
「今更…だな」
サトは小さく身を縮めた。
貴之はサトを見下ろすと、低い声で言った。
「全力で守ってやれ。あの赤ん坊が、北岡の家督を継ぐ者だ」
サトは深く頭を下げたまま動かなかった。
冴子の子は、道長と名付けられた。
北岡家に戻った冴子と道長を、征長は遠巻きに見ているしかなかった。
ある日、雪絵は妊娠したことを貴之に報告した。
「そう。良かったね」
本に視線を落とし無表情のままでいる貴之に、雪絵は眉間を寄せた。
「それだけですの?」
「身体に気をつけて、元気な子を産んでくれ」
何の感情も現さない貴之の態度に、雪絵は唇を震わせると居間を出た。
雪絵が使用人を屋敷へ連れ込んだという噂を貴之は耳にしていたが、真意は定かではなかった。けれど、妊娠したということは男がいるということだ。それが門番なのか庭番なのか屋敷に出入りしている商売人なのか貴之には知る由もなかったが、これでひとつ事が片付いたと煙草をくゆらせた。無事に子供が生まれたら、雪絵を離縁して千葉へ帰してやろうとも考えていた。父は激高するだろうが、貴之にとってもうそんなことはどうでもいいことだった。
北岡家の事業は、清澄と同じく折からの戦後不況に喘いでいた。それでも無事に跡取りを授かり、将来への希望を繋いでいた。ただひとつ、征長のことを除けば…。
征長は、酒に浸り阿片に溺れ続けた。もう自分の意志では制御できないところまで来ている。
土気色の顔、生気のない目。いつも身なりには気を使っていた征長だったが、今では目につくものを身につけているだけの状態だった。母親が着替えをさせようとしても、頑として受けつけなかった。
突然『虫がいる!』と大声を上げたかと思うと、子供のように部屋の隅に隠れ『ごめんなさい』を繰り返す。
医者にも手の施しようがなかった。中毒患者を収容する施設への入所を勧められたが、父親は世間体を気にして入所を拒んでいた。
征長の部屋には外から鍵がかけられたが、酒や阿片が切れるとそれらが手に入るまで暴れ回った。
そんな征長を、冴子は冷ややかに見ていた。
「あなたのお父さまは、おかしくなられてしまわれたのよ。良い子ね、道長」
日に日に大きくなって行く道長を見つめながら、冴子は幸せだった。このままの状態が続けば,征長はいずれ廃人になるだろう。自分は静かに時を待てばいいだけだ。そう考えるだけで、冴子はこの上なく心穏やかだった。
夕食の後、冴子と征長の母親は居間で道長をあやしていた。そこへ無造作に扉を開けて入って来たのは征長だった。おもむろに道長のそばへ来るとしゃがみ込んだ。その形相を見て道長は大声を上げて泣き出した。危険を感じた冴子は道長を連れて行こうとしたが、征長が遮った。
「こいつは僕の子供じゃない…」
うつろな目で征長は子供を抱き上げた。そして引きつったような笑いを見せると、そのまま道長を床へ叩き付けようと頭上高く持ち上げた。
「征長さん!」
周りのものたちが目を見張った瞬間、征長の母親が体当たりせんばかりに征長の手から孫の道長を取り上げた。征長は体制を崩し、よろけて後ろ向きにひっくり返った。テーブルに後頭部を強く打ち付け、征長はそのまま床へ倒れ込んだ。
病院へ担ぎ込まれた征長に意識はなかった。母親は泣き叫び、征長にすがりついたまま離れようとしなかった。しばらくして警察がやって来たが、冴子の説明に事故であると判断された。確かに事故だ。冴子はこみ上げてくる喜びを抑えるのに必死だった。このまま征長の意識が戻らなければ良い。そうすれば、全ては闇の中。何の心配もなく、道長は北岡家の跡目を継げる。
「道長、何があってもお母さまが付いていますからね。何があってもお母さまがあなたを守ってあげますから」
冴子はこの上ない自信に満ちていた。
何日経っても征長の意識は戻る気配がなかった。征長の母親は心労のあまり臥せってしまっている。
「お義母さま、征長さまはきっとお元気になられますわ」
冴子は、毎日姑の部屋へ見舞うと同じ言葉を繰り返した。けれど自分を責め続けている母親は、すでに鬱状態だった。突然、頭を抱え込んで泣き出したり、手当たり次第に物を投げつけたりした。
義父も自分の妻のことを不憫には思っていたが、どうしようもなかった。
「八重の具合はどんな様子だ?」
「あまりよろしくございませんわ」
「そうか……。冴子、征長はもう駄目だろう」
「お義父さま、何をおっしゃいます。希望を捨ててはいけませんわ」
義父は首を振った。
「道長は、たったひとつ北岡家に残された宝だ。冴子、道長を頼んだぞ」
冴子はしっかりと頷いた。
貴之の妻・雪絵は男の子を生んだ。
景一朗が琴菊との間に出来た子供を連れ帰って来ないことに激怒していた剛健だったが、貴之に息子が出来たことでその怒りは一気に収束した。
「雪絵、よくやった。よくぞ男の子を生んでくれた」
手放しで喜んでいる剛健に貴之は水を差した。
「最初の男の子は、畑沢へ養子に出すことになっていたはずです。まさか、お忘れではありますまい?」
途端に剛健の顔色が曇った。そんな約束はすっかり忘れていたのだ。
「まぁ、その辺りは畑沢ともう一度話をせねばなるまい。とにかく、良かった」
剛健が部屋を出たのを確かめると、雪絵は貴之を見た。
「話が違うわ」
「大丈夫だ、心配しなくていい」
「では、この子に名前を」
貴之は首をかしげた。
「おれが付けるのか?」
雪絵は頷いた。たとえ父親が誰であろうと、戸籍上は清澄の子だ。貴之は口の端に笑みを浮かべた。
「その子の名は、基之だ」
剛健は養子に出すのは次の子供にして欲しいと畑沢へ願い出た。畑沢ははっきりとした返事をせず、貴之に連絡を入れた。
「どうぞご心配なく。基之は畑沢の子供ですから。乳離れする頃には、そちらへ送り届けます」
景一朗は剛健の怒りが治まり気持ちが基之の方に向いたことを確かめると、琴菊と博太郎をそっと日本に呼び戻した。それでも都内に住まわせて、もし見つかりでもすれば騒ぎになることは分かっていた。一旦は琴菊の実家で預かってもらおうとも思ったが、長野の田舎では会いに行くこともままならないうえ、そこにも父の手が及ぶかもしれないと懸念した。
景一朗は横浜に借家を探すと、そこにふたりを住まわせた。そして仕事の合間を縫って、足しげく琴菊のもとへ通った。
嫉妬に駆られた節子は気づかれないように景一朗を付け回し、やっとの思いで琴菊たちの住む借家にたどり着いた。毎日のように横浜へ行き、物陰から隠れて琴菊親子の様子をうかがっていた。
(許さない。清澄景一朗の息子を生んだ女なんか,わたしが絶対に許さない)
暑い夏の盛りだった。
「千葉へ帰って構わないよ」
乳を飲ませていた雪絵は、驚いたように基之から視線をはずした。
「どういう意味?」
「その子を連れて実家へ帰るといい。離縁しよう」
「本当にそれで構わないの?」
「いいさ。その子は君の子で、おれの子じゃない」
貴之は剛健に離縁する意志を告げた。それを聞いた剛健は顔色を変えた。
「離縁など絶対に許さん。やっと授かった男の子だぞ。いったいお前は何を考えておる」
「もともとあの子は畑沢の養子になることが決まっていた子です。清澄家の当主ともあろう方が、約束を違えるのですか?」
「では、すぐに次の子供を作れ。男が生まれるまで、何人でもだ」
「雪絵とは離縁すると申し上げましたが」
「何があっても離縁は許さん!すぐ次の子を作るんだ!」
貴之は薄ら笑いを浮かべると、部屋を後にした。
「貴之!」
剛健は貴之の真意を掴めずにいた。
「雪絵!雪絵はおるか!」
剛健は貴之のいない時間を見計らって、雪絵に会いに来た。
「何か御用ですか?」
雪絵は基之を抱いて応対に出た。
「離縁の理由は何だ?基之を畑沢に渡さんと言ったからか?」
「貴之さんがそう言いましたか?」
「基之は畑沢へ渡す。だから次の子を生んでくれ」
「……」
「雪絵!」
すがるような表情で肩をつかもうとした剛健をかわすと、雪絵は基之を抱き直した。
「そのことは、貴之さんにおっしゃって下さい。離縁すると言っているのは、貴之さんですから」
剛健は険しい表情で拳を握りしめた。
その年八月の最後の日、それぞれの人間がそれぞれの時間を過ごしていた。
貴之はベビーベッドに寝かされている基之の顔を覗き込んだ。
「可愛い顔をして寝ているな」
「えぇ」
赤ん坊の寝顔を見ている貴之は、本当に穏やかな表情をしていた。
「あなた、本当は子供が好きなのではない?」
「物珍しいだけさ。いつ千葉に戻る?」
「丁度月が替わるので、明日にでも」
「そうか。もう会うこともないだろうけど、元気で」
「ありがとう」
雪絵はそう言うと、貴之の手にそっと触れた。
もし貴之の心に福子がいなければ、自分は貴之の子をもうけ親子で幸せに暮らせたのではないだろうか。そんな思いが心をよぎった。
「わたし、あなたを誤解していたかもしれない」
「誤解?」
「あなたのことを自分勝手で酷い人だと思っていた。でも、そうではなかった」
貴之は鼻先で笑った。
「どうだかね」
冴子は病院へ征長を見舞うための用意をしていた。
病院へ担ぎ込まれて以来、征長の意識は戻っていない。
冴子にはすでに征長のことなどどうでも良かったのだが、これも北岡家の嫁としての大切な努めだ。怠るわけにはいかない。
それよりも何よりも、道長が北岡財閥の頭首の座に座る未来を思い描くだけで心が踊った。
「道長、明日はお父さまに会いに行きましょうね」
しっかりと道長を抱きしめると、冴子は満ち足りたように微笑んだ。
節子は使用人が寝静まった頃、そっと台所に入り込んで出刃包丁を持ち出した。
明日、これを持って横浜の琴菊のもとへ行くつもりだった。手ぬぐいにしっかり包むと、瞳をギラギラさせて笑みを浮かべた。
「許さない、絶対に」
大正十二年八月三一日。
それぞれを取り巻く不穏な空気は、夜の帳が下りるように足音を忍ばせ、深く静かに歩を進めて行くことになる。
終わり
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